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彼女達のピアノ 第5話

第5話 『彼女の説明』


 あるピアノの先生のご自宅にあるレッスン室へ、調律に伺った時の話です。
 指定された時間——その日のレッスンが既に終わっているはずの時刻に到着したのですが、おそらく最後の生徒さんでしょうか、高校生ぐらいの女の子が残っていました。どうやら、レッスンは終わったのですが、そのまま先生とお喋りを楽しんでいるようです。
 入室した私は、挨拶を済ませ、「気にしないで作業してくださいね」という先生のお言葉に甘え、二人を横目に作業に取り掛かりました。するとその時、女の子が私に話し掛けてきたのです

「ピアノの音って、YとKではどう違うのですか?」

 日本を代表する二大ピアノメーカーの比較……実は、これは普段から最もよく受ける質問の一つです。そして、いつも返答に悩む質問でもあります。と言いますのも、そもそも「YとKでは」という括りだと、曖昧過ぎるからです。
 ピアノは、一台一台に個性が宿っている楽器です。そもそも、年代や機種により材質や設計も異なりますし、たとえ同じメーカーの同じ機種であっても、設置環境や使用頻度、メンテナンスのやり方や履歴など、様々な要因の積み重ねにより、全く違うピアノに育つのです。
 もちろん、持って生まれたキャラクタやポテンシャルにも個体差がありますので、その差異は、年数を経るほどにますます多様性を帯びてくるのです。

 一方で、大雑把な括りで考えますと、確かにそのメーカーの「らしい」音もあるでしょう。つまり、YならY、KならKで、幾らでも例外はあるにしろ、それっぽい音の共通性も存在します。
「YとKではどう違う?」という問い掛けは、おそらくはそういったメーカーの持つ特色の違いを問われているのかな……ということは、理解しているつもりです。
 だとしても、ここでもう一つ、別の問題に直面することになるのです。それは、音という目に見えないものヽヽヽヽヽヽヽヽを、言葉でどう説明するのか……ということです。
 音に限らず、色、臭い、味、明るさ、手触り、歯応え……こういったものは、言葉だけで正確に伝達することは困難でしょう。本来なら、物理的な数値と単位を伴う「分量」として提示して、初めて正確さが伴うものなのです。
 しかし、一方では、「マンセル値XXの色」「XXデシベルの音量」「XXルクスの明るさ」……など、物理的に正確な数値を使っての表現を用いたところで、それはそれで逆に伝わらないでしょう。
 それに、そもそもそういった分量は、誰もが何処ででも測定出来るわけではありません。また、仮に数値が分かったところで再現出来るものでもありませんし、ほとんどの人はイメージも共有出来ないでしょう。
 なので、困難と知りつつも「言葉」による説明しか術がなく、そうすると、どうしても個人的な嗜好や感性など、主観に左右される要素が大きくなってしまうのです。

 例えば、ある音を聞いて「明るく華やかな音色」と感じたとします。そういった音が好みの人は、「キラキラと輝く音」「硬質でクリアな響き」といった表現をするかもしれません。
 一方で、この音色を好まない人が全く同じ音を言葉で表現すると、「金属的で不快な音色」というネガティブな表現になるかもしれないのです。つまり、物理的に全く同じ波動であっても、聞き手の感性や好みにより、表現は全く違ってくる可能性があるのです。
 同様に、真逆の特性を持つ音を、「柔らかく落ち着いた音色」と感じる人もいれば、「湿っぽい篭った音色」と表現する人もいるでしょう。視認出来ない感覚を言葉のみで伝達することの難しさは、どうしても表現者の主観に委ねざるを得ないことに尽きるのかもしれません。動物を見て「可愛い」と思う人もいれば、怖がる人もいるように。

 以上を踏まえた上で、さて、YとKではどう違うのか……やはり、非常に説明が難しい質問です。その違いが完全に対極にあればまだしも、決してそうではないことが一層説明を困難にしているのかもしれません。つまり、もし分かりやすく説明しようと試みるなら、どちらかに基準を置いてもう一方は……という比較論に陥ってしまうのです。
 それがいけないわけではないのでしょうが、比較論での説明は、どうしても優劣の判定と受け取られてしまう可能性も孕んでいます。私達調律師は、この場合、絶対に中立的な立場で客観的に発言するべきだと思います。だからこそ、優劣や善悪と受け止められかねない判定は避けたいのです。
 強いておおまかに形容するなら、Yは「硬質」「クリア」「華やか」、Kは「落ちつき」「あたたかい」「しっとり」といったところでしょうか。
 ほんの数秒、そんなことに思いを巡らせ、慎重に言葉を選びながら口を開こうとした時、先生が私に代わって説明してくれました。

「要はね、スーパードライと一番搾りみたいなものよ!」

 思わず笑ってしまいました。
 でも……うん、なるほど、すごく的を得ている気もしました。高校生に伝えるにはどうなの?  とも思いましたが、お酒をほとんど飲まない私でも、感覚的に伝わってきます。とても抽象的なのに、とても面白く、ニュアンスも伝わる表現だと思いました。
 そう、ここで伝えるべきなのは、「物理」でなく「ニュアンス」……数値化や分量なんかより、身近な比喩の方が分かりやすいのです。

 音やタッチという、目に見えないものを取り扱う仕事をしている以上、技術や知識を磨くことは当然ですが、言葉による表現能力も高める必要があることを実感した体験です。
 こういう端的な比喩、私も使えるようにならなければいけないと思いました。




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