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EGOIST(第1章)

【あらすじ】

 今本は、ピアノ工房で働く調律師。この工房の「徒弟制度」という時代錯誤な経営スタンスは破綻に向かい、今本は後輩を虐めることに楽しみを見出すようになる。
 同時進行で、今本は、独立開業の準備もしていた。苦戦していたが、旧友のアドバイスを参考に何とか退社出来、開業は果たせたものの、個人事業主としては上手く立ち回れず……工房時代の悪癖が再発したのか、ここでも研修生を執拗に虐めることで、ストレスを発散するようになる。
 やがて、研修生が起こしたトラブルをきっかけに、工房の貸主と決別し、金も仕事も信用も全てを失ってしまう。
 今本は、旧友に厳しくも温かい発破をかけられ、今度こそ、やり直しを決意したのだが……

第1章


 厚生労働省により特定疾患(いわゆる難病)と指定された疾患の一つに、「クローン病」がある。
 物語を始める前に、特定疾患について簡単に説明しておくと……ざっくり言ってしまうと、「原因不明の不治の病」と思って頂ければ、当たらずも遠からずだ。
 そして、その一つの「クローン病」は、口腔から肛門までの全消化器官において、非連続性の炎症を生じる疾患のことだ。これは、現在のところ、根治は不可能と言われている。いや、それどころか、発症の原因さえも不明とされており、有効な治療法すら確立されていない厄介な疾患なのだ。
 もっとも、だからこそ、特定疾患に指定されているのだろうが。



 さて、この話は、彼此二十五年以上も前まで遡ったところから始まる。当時私は、ある専門学校の援助を取付けることが出来、小さいながらも整ったピアノ修理工房を借りることが出来、念願の独立開業を果たしたばかりだった。そこに至るまでの交渉が始まったのは、更に一年以上も遡るのだが、その頃の私は、地方のピアノ専門店で工場長を勤めていた。
 ピアノ店にも色々な形態があるのだが、中古ピアノをメインに販売している店では、ショップワークより工房ワークに重点が置かれるもの。私が勤めていた店も、普通の楽器店というより、ショップ付きの工房と呼ぶべき形態だった。買い取ったピアノの整備も自社で行っていたし、調律顧客からの修理も日常的に行っていた。年に一〜二回は、社長がヨーロッパへ買付けに行き、輸入した古いドイツ製のピアノを修復する仕事も常に抱えていた。
 もちろん、ピアノに限らず電子ピアノやその他の楽器などの新品販売も行っていたが、そのほとんどはカタログ販売だ。また、事業の一環として、当然ながら普通の外回り調律やコンサート調律も行っていたが、工房での仕事がメイン業務だったのだ。

 その会社に、私は十年近く在籍していた。最初の五年は、形式上は研修生として、実質は丁稚奉公のような形で雇われていた。研修生に対しては、労働基準法なんてどこ吹く風、嫌なら来るな! が前提の会社なので、休日出勤やサービス残業なんて当たり前。全部含めても給料なんてお小遣い程度しか貰えなかったが、それでも技術を学びたい者が絶え間なく志願してくる会社だった。
 相撲部屋や芸人の付人、伝統芸能や職人への弟子入り、などに近いスタイルと言えよう。しかも、そんな劣悪な条件なのに、常に志願者は沢山いる為、いつでも誰でも研修生になれるわけでもないのだ。むしろ、諸々のタイミングが合わないと、雇って貰えることはないだろう。
 私の場合は、業界の有力者から紹介状を書いていただけたこともあるが、タイミング的にも前任の研修生が突然辞めたことと、ほぼ内定していた別の候補者からキャンセルの連絡が入ったりと、幾つかの偶然が重なって、運良く入社出来たのだ。

 実際に入社してみると、そこでの業務は、仕事というより修行に近い内容だった。と言うのも、その会社には、全国的に名前の通っている修理の巨匠が在籍していたからだ。研修生はその人に師事し、仕事だけでなく身の周りのお手伝いをしながら技術を学ぶのだ。
 そう、私を含めた入社志願者は、別にこの会社に入りたいわけではない。師匠に師事したいヽヽヽヽヽヽヽヽのだ。
 運良く研修生になれると、常に師匠に付き添って過ごすことになる。作業着を洗濯して準備し、師匠の作業台を綺麗に片付け、刃物は常に研いでおき、工具は所定の位置に片付けておくのだ。その日、師匠が行う作業を予測し、にかわを沸かしておいたり、電動工具の点検をしたり……師匠が無駄なく作業出来るように、常に注意しておく必要があった。

 また、この会社では、研修生は師匠と同居しないといけないという規則があった。もちろん、法律に縛られたものではないので、絶対に従わないといけないわけでもないのだが、単純に同意出来ない人は研修生になれないだけなので、実質的な強制だ。
 幸いなことに、同居は毎日ではない。実は、師匠は少し遠方に自宅があり、この会社には週に三〜四日だけ顔を出していたのだ。その間は、会社が借りている2LDKのマンションに寝泊まりするのだが、研修生も、そのマンションの一室を無償で提供されていた。つまり、同居と言っても、師匠が来社している間だけのことだ。
 この不規則な同居生活には、メリットも沢山あった。何より、このマンションの部屋は会社の「寮」だったので、家賃はもちろん、光熱費も全て会社が持ってくれたのだ。その代わり、朝夕の師匠の食事を用意しないといけないし、毎日二人分の弁当も作った。食費が掛かって大変かなとも思ったが、不思議なもので、師匠が不在の一人暮らしの期間は外食が増え、むしろ師匠がいる時の方が食費はグッと抑えられたのだ。当然、掃除や洗濯など、師匠の身の回りの世話もさせられたが、これはさほど大変なことでもなかった。
 師匠は仕事中は鬼のように厳しく、毎日のように叱られたが、日常の生活では寡黙で優しい人だった。なので、同居生活はさほど苦痛でもなかった。それどころか、夕食時には昔の体験談をはじめ、ピアノに纏わる色んな話を聞かせて貰えたのだが、これは後々のキャリアの為に大きな財産となるだろう。単なる知識や経験の披露だけでなく、考え方や取り組み方、ピアノとの向き合い方など、師匠の話はとても勉強になった。こういう体験は、丁稚奉公ならではのメリットだろう。



 入社してから五年が経過した。私は、別の研修生が入社したのを機に正社員に昇格し、師匠との同居生活から解放された。いや、逆なのかもしれない。私が正社員へ昇格することになったから、研修生を受け入れたのだ。どちらにせよ、こういったタイミングでしかこの会社には入れないし、師匠に弟子入りする機会もないのだ。

 ちなみに、労働基準法による研修期間の上限は、具体的には定めれていないそうだ。職種により、社員登用に必要なスキルの習得に差があることも要因だろう。それでも、一般的には一〜六ヶ月程度となっている。場合によっては一年ぐらいのケースもあるが……まともな会社では、五年なんて話はまずないだろう。
 実は、この会社では「研修生」と呼んでいるだけで、書類上は研修生や社員はおろか、アルバイトですらない。この会社の「研修生」は、自発的に勝手に手伝いに来ているだけ、それを会社が容認しているだけ、というスタンスなのだ。なので、「好意」で寮に泊めてあげて、「師匠の生活費」という名目で少しお小遣いヽヽヽヽをあげているだけなのだ。
 要するに、この会社の研修生は法的には「無職」で、社会保障もない。厚生年金にも加入していないので、実費で国民健康保険に入るしかない。もし、それに不平不満があるのなら、辞めるしかない。いや、最初から「研修生」になる資格もない。それでもよしとする人だけが、師匠に師事出来る。それだけのことだ。
 以前は、社長にムカついて労基に相談に出向いた研修生もいたが、「嫌なら辞めたらどうですか?」と一蹴され、相手にされなかったそうだ。道義的には問題のあるシステムだが、法的にも税務処理上も不正はない。「ピアノ技術者」という特殊なスキルの習得の場は、今尚、ごく一部とは言え、封建的な世界が残っている。
 私は、ようやく「無職」から、正真正銘の「社員」になれたのだ。

 しかし、新しく入った研修生ヽヽヽは使えなかった。料理はほぼ出来ないので夕食は惣菜ばかりだし、朝食は菓子パンとインスタントコーヒー、お昼の弁当を用意して来ることはまずなく、毎日のようにコンビニ弁当だった。高齢の師匠には、心身ともに何かと負担になったに違いない。私も含め、他の社員全員で可能な限りのアシストはしたが、自炊なんてしたことのない、いや、それどころか炊飯器の使い方さえ知らない二十歳そこそこの男の子に、三食二人分の準備は不可能だ。
 しかも、彼の場合、持って生まれた料理のセンスも壊滅的だった。研修生希望者は何人かいたのだから、わざわざ彼を採用する必要はなかったのに、と全社員から不満が出たが、社長は自分のミスを認めることはなく、「彼には光るものがある」と言い張った。しかし、ジャンキーな食生活が原因なのかは定かでないが(少なくとも、因果関係が全くないとは言えないだろう)、半年程で師匠は身体を壊し、入院する羽目になったのだ。

 結局、新しい研修生は一年も持たずに退社した。私には、一度たりとも彼から「光るもの」は見い出せなかった。自分の後を継いで、師匠に弟子入りした「弟弟子」にあたるのだが、師匠のプライベートの食生活も、業務における「手元」としての役割も、無能だったとしか言いようがない。
 社長は、師匠が退院する頃に、今度は二人同時に研修生を採用した。この会社の最大の弱点は、常に研修生が必要なことだ。幸い、過酷で理不尽な労働条件にも関わらず、それでも入社を希望する者は(かつての私もそうだったように)全国に沢山いるので、穴が空くことはまずないだろう。
 しかし、人選やタイミングは大切だ。素材が悪いと、師匠や他の社員に皺寄せが来る。人が良くても技術的なセンスがないと、使い物にならない。上手く育てば育ったで、今度は雇用の問題も生まれるのだ。そう思うと、すんなり入社出来、研修期間の五年をやり抜き、これまたすんなりと正社員に登用された私は、実は稀なケースでもあった。
 今回は、保険を掛けたつもりなのだろうか、初めて二人同時に採用したのだ。そうなると、師匠を含めて三人で生活することになる為、今までの寮は解約され、会社は新しい寮として中古の一軒家を購入した。この短絡的な決断に、事務員や会計は猛反対したそうだが、ワンマン経営の社長は一切聞き入れなかったようだ。
 庭付き一戸建てのは、車庫付きの二階建てだった。一階は、洋間と和室、そして、二十畳程もあるLDKだ。当然、LDKは、洗面所や風呂と同じく共用スペースになる。師匠は、一階の和室を居住スペースに選んだ。洋間は、会社の客間として使うそうだ。二階には洋間が三部屋あり、研修生が一部屋ずつ使うことになった。余った一部屋は、差し当たっては空き部屋のままだが、いずれは会社の物置として使うことになるだろうと噂されていた。
 こうして、新たに三人での生活が始まったのだが……結果的に、二人同時に採用したのは会社のミスだったとしか思えない。しかし、一方的に会社を責めるわけにもいかない。というのも、最初は仲良く協力的に師匠の身の回りの世話をし、切磋琢磨しながら技術の研鑽に明け暮れた二人だが、そんな友好的な関係が僅か数週間で破綻することになるとは、当時は誰も予測出来なかったからだ。


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