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EGOIST(第3章)

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第3章

 師匠と電話で話をしてから、約一年半が経過した。私は諸々の準備が整ったの機に、ようやく自主退社することになった。この一年半は、人手不足の為にただただ仕事が忙しいだけで、人生で最も無為で無益な時間の使い方だったようにも思える。
 師匠が引退してからも、社長は意地を張り、寮はそのままになっていた。「一軒家の寮」で一人暮らしを謳歌する研修生の指導を押し付けられていた私にとって、師匠の言っていた通り何事もやりたいようにやれず、思う通りに出来ず、面白くない毎日だった。
 明らかなオーバーワークの業務なのに、好きでもない、いや、むしろ嫌いな吉岡の面倒を押し付けられ、相談出来る師匠もいない毎日。先輩達との接点もなく、心身共に疲弊し、常に苛立ち、ストレスは溜まる一方。
 やがて、私は吉岡をいびることに小さな喜びを見出した。

「こんな簡単なこと岩見ならすぐ理解出来るのに、お前は手は動くけど頭は使えないな」といった言葉による暴力に始まり、吉岡への「いびり」はいつしか常態化していた。わざと優先順位の低い仕事を先に押し付け、急ぎの仕事の納期で苦しめたり、出来てても何回もやり直しを命じたり。
 精神的に追い込んで、辛そうな表情を浮かべる吉岡を見ると、何故か気分が晴れたのだ。そこに、麻薬のような快楽さえ感じ、行為は少しずつエスカレートしながら繰り返すようになった。自分の中に潜んでいた嗜虐性が、一気に表出したのだろう。

 ある日のこと、私は吉岡ににかわを食べさせてみた。
 ちなみに、膠とは、動物の骨や皮などから精製されたコラーゲンやゼラチンを濃縮して固めたものだ。湯煎すると溶けてドロドロになり、冷えるとカチカチに固まる為、接着剤として使用されるのだ。接着力は市販のボンドよりも強固な上、何年も経っても温めると軟化してきれいに剥がせる為、長年に渡ってメンテナンスが必要な楽器や家具、工芸品など、木質系の物には最適な接着剤なのだ。そして、何よりのメリットは、100%天然素材で出来ている為、化学物質を一切含まないことだ。
 逆に、デメリットもある。使用に手間が掛かることもあるが、それよりも、膠の使用には経験が絶対的に必要であり、普通の接着剤のように誰でも簡単に扱えるものではないことが大きな欠点だ。湯煎の温度だけでなく、気温や接着する素材によっても適してる濃度は違う。それらを瞬時に判断し、最適な濃度と温度を保ちながら使わないと、効能は十分に発揮出来ないのだ。
 また、膠の品質そのものの見極めも大切だ。形状そのものも、粒状、板状、粉状などがあるが、工房では、馬の骨から作られた粒状の膠しか使用していない。その中でも、ドイツ製と日本製を使い分けていた。

 私は吉岡に「膠の味を覚えろ」と嘘をついた。「師匠も先輩も、もちろんオレも味で見分けてるんだ。コレが出来ないと、いつまで経っても一人で膠を使えるようにならんからな」ともっともらしい話を捏造した。そして、ドイツ製と日本製の膠を食べ比べして、風味を覚え、いつでも指示された方を準備出来るようにしろ、と命じたのだ。
「コレって食べても大丈夫なのですか?」
「お前さ、膠が何か知ってるんか?」
「すみません、知らないです」
「まぁ、知らんかってもしゃあないか。膠はな、動物のゼラチンとかコラーゲンを精製しただけやからな、不純物も何も含まれてないし、体には悪いもんは何もない。牛の骨から取ったヤツやったら、BSEとか怖いんかもしらんけど、うちのは全部馬の膠なんや。それに、食べるって言っても、めっちゃ硬いから噛まれへんし、舐めるだけや。口に入れてたら徐々に溶けてくるわ。ドイツ製と日本製で全然味が違うから、お前でもすぐ覚えれるやろ。ちょっと甘いのがドイツ製や」
「そうなんですね……じゃあ、甘くない方から食べてみますけど……めっちゃ臭いですね」
「まぁ、馬の骨やもんな。すぐ慣れるわ。五〜六粒、口に入れてみな」
「分かりました。やってみます」
 吉岡は、意を決して膠を数粒、口の中に放りこんだ。直ぐに、顔を顰め、苦笑いしながら言った。
「めっちゃ不味いっす。それに何か生臭いし、ネチャネチャしてきたし……気持ち悪いんですけど……」
「は?  お前、腹減ってるからって、そんなもん食ったらアカンって!  それ、食べ物やないで。ってかさ、本当に食べたんや、ハハハッ」
 そう言うと、吉岡は膠を吐き出して、半泣きになりながらも、私を憎悪のこもった目で睨み付けた。
「何や?  冗談も通じへんのか?  おい、お前、誰にメンチ切っとんじゃ!  」
「そんなつもりじゃ……すみません……でも、今本さん、やり過ぎです」
「そんなもん、食えるわけないやろ。それぐらい分かってるって思ってたわ。その上でボケに付き合ってくれて、えぇヤツやなぁって思ってたのに。そんな怒るなや。岩見やったら、こんな嘘に騙されへんのにな」
 事あるごとに、私は岩見の名前を出した。吉岡の中の罪悪感は、まだ拭え切れていないことを知っていたからだ。
「すみません、作業の続きやります」
 悲しみと憎しみであふれそうな涙を必死に堪えながら、吉岡は工房の奥へ消えた。それを見て、私はスッキリした。



 騙してにかわを食べさせてからも、私の吉岡への「いびり」や「弄り」は毎日のように続いた。あんなに陽気で体育会系だった吉岡も、さすがに精神的に参っているようで、今では口数も極端に減り、オドオドしながら過ごすようになっていた。まるで、岩見のように……皮肉な話だ。
 今となっては、吉岡は私のことを単なる(嫌な)先輩としてしか見ておらず、先生や師匠といった技術を教えてくれる人とは思っていないようだ。もっとも、彼とて師匠に弟子入りする為に、現代日本とは思えない劣悪な条件で入社したわけなので、気の毒な面もある。しかし、現実的に今は私に教えを請う立場だ。それなのに、師匠に習っていた時とは違い、吉岡は私の作業の準備もしなければ、片付けもしない。そのことも、私を苛立たせた。
 もっとも、退社することを決意している私にとっても、吉岡のことなんて眼中にない。弟子どころか、部下や後輩とさえ思ってないのだが。

 一方で、師匠に促されたように、私はひっそりと独立開業の準備も進めていた。実際に退社するまでに、予想以上の時間を要してしまったのだが……これには理由があった。
 師匠が退社して間もない頃——丁度吉岡をいびり始めた頃——たまたま出席した調律専門学校の同窓会で、学校が工房ワークに長けた人材を探していることを耳に挟んだ。
 後日、詳しく学校に問い合わせてみたところ、つい最近まで、学校の系列会社の支店として使っていたテナントが手狭になり、移転することになったそうだ。立地条件の良いテナントを手放すのは惜しく、寝かせておくのも勿体無いので、工房として活用するのはどうか……と、漠然と検討しているとのことだ。
 ちなみに、ここは賃貸ではなく、既に償却も済んでいる学校所有の不動産物件なのだとか。私は直ぐに母校に連絡を取り、工房を使わせてもらうために具体的に話合うことになった。
 ただ、工房を借りたいとお願いしつつも、私としては、あくまでフリーランスという立場に拘った。学校に雇われるつもりはなかったのだ。転職ではなく、独立したかったのだが、学校としては、単なる「貸工房」にするつもりはなく、何かと紐付けた作業場として活用したいようだ。当然と言えば当然だろう。
 結局のところ、その工房を格安で借りて独立開業することになったが、見返りとして、学校と系列会社の仕事を格安で請けることを約束させられた。これは、逆に言えば「格安」とは言え、定期的に仕事を貰えるということにもなる。実質的な「子会社化」とも言えなくはないが、フリーランスにとって、非常にありがたい話でもある。
 また、学校の修理の授業も年に数回受け持つことや、生徒のインターン研修も受け入れることになった。この二つの業務は無償になるが、それらを差し引いて考えても、実質的には、学校からの援助を取り付けたに近い形と言えよう。なかなか幸先の良いスタートだ……その時はそう思った。

 だが、開業の条件の一つに、今の会社を円満退社することが挙げられていたのだ。調律学校という立場からして、業界に敵を作るわけにはいかないのだ。しかし、この項目のクリアは大変だった。なかなか辞めさせてもらえなかったのだ。もちろん、険悪な関係になってもいいのなら、法的には数週間で退社することは出来る。労基に訴える手もあるだろう。しかし、それだと円満退社ヽヽヽヽとは言えないのだ。
「今本君が辞めたら修理は誰がやるんだ?」
「吉岡を見捨てる気か?」
「自分は学ぶだけ学んで、会社に還元せずに出て行くつもりなのか?」
「会社は、ずっと今本君に投資してきたようなもんだ。ようやく使えるようになったと思ったのに、何考えてるんだ?」
「何の為に君を育ててきたと思ってるんだ?」
「そんな非常識な辞め方、認められないね」
 私は、事あるごとに粘着質な嫌味を言われ続けた。そんな対応をされると、ますます辞めたくなるだけなのに、社長はそれで私が考え直すとでも思っていたのだろうか。そして、その苛立ちをまた吉岡へのいびり……いや、もはや明確な虐めヽヽに進化した行為で発散した。

 ある日のこと、ついに吉岡は、私から虐めを受けていると社長に告げ口したようだ。しかし、社長にとって、今辞められたら困るのは吉岡ではなく私だ。皮肉なことに、ここでは社長は私の肩を持つことになる。何よりも、自分にとっての利害関係を大切にする人間だ。吉岡の相談を、いつも通りの自己中心的で辛辣な説教で突き放したのだ。

「徒弟制度で技術を学ぶのなら、虐めや体罰なんて当たり前だ。大きな家に一人で住ませてもらえて、ただで技術を学んで、少しお小遣いもらって……どれだけ恵まれてるか分かってるのか?  文句あるなら今すぐ辞めろ。でもな、五年頑張るって言うから、家買ってやったんだ。ローンも光熱費も会社が払ってるんだぞ。しかも、岩見を虐めて退社に追い込んだのはお前だろ?  人にはやっておきながら、自分がやられた時は文句言うのか。お前が虐めなければ、岩見は残ってたんだ。人を追い出して、自分も辞めるってどういうつもりだ?  辞めるんなら、今まで払ったローンと高熱費、補填してもらうからな。ろくに仕事も出来ないクセに、100%の満足なんかあるわけないだろ!  お前の代わりなんて幾らでもいる。うちはね、お前にこだわる理由なんか何もない。我慢するか辞めるか、今決めろ」

 ローンと光熱費の補填なんて、メチャクチャな言い掛かりに過ぎない。法的に闘えばなんてことはないだろう……そう思った吉岡だが、私への注意も厳罰も何もないことには落胆した。
 結局は、我慢するしかない……と、吉岡は判断したようだ。可哀想なヤツめ。これで、私か吉岡、どちらかが辞めるまで、堂々と虐めてもいいという許可を得たようなものだ。私は、初めて社長に感謝した。


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