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EGOIST(第8章)

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第8章

 翌日から、私はバイト探しに明け暮れた。バイトと言いつつも、当面はメインの収入源にせざるを得ないのだが、あくまで副業というスタンスだ。ろくに仕事がないとはいえ、本業を捨てるつもりはない。本当なら、今後も自営で食べていく為に、やらなければいけないことも沢山あるのだろうけど、今一番必要なものは目の前の「収入」だ。
 以前、駒田と「離れたところにある一万円札より、目の前の十円玉を拾うタイプ」と、前の社長のことを馬鹿にした話をしたことがある。せこくてケチな性格を揶揄った言い回しだったが、皮肉なことに、今の私こそ目先の利益を最優先にしないといけない状況だ。長期的展望より、とにかく今日明日をどう過ごすのかを考え……目の前の十円玉をかき集めないといけないのだ。逆に言えば、そこまで追い詰められていた。
 ただ、幾ら仕事がないとは言え、本業を疎かにすると本末転倒だ。朧げに見える遠くの一万円札は、たとえ今は手が届かなくても、風に飛ばされないように注視しておかないといけない。
 もし、偶発的にでも調律の依頼が入れば、何よりも優先して取り組まないといけない。そうなると、バイトの職種も限られてくる。時間は夜間の方が望ましいし、なるべく休みも取りやすい方がいい。もちろん、給与も高いに越したことはない。全くやりたくない仕事や絶対に向いていないと思う仕事は、さすがに避けたい。消去法で絞り込んでいくと、清掃業に落ち着いた。そう言えば、駒田も開業一年目は、掃除屋のバイトで食い繋いでいたと話していた。おそらく、私と似たような考え方から辿り着いたのだろう。

 色んな楽器店やフリーランスの調律師にも、片っ端から電話を掛け、アポが取れれば訪問させて頂いた。恥を忍び、プライドを捨て、どんな些細な仕事でもお請けさせて頂くので、と頭を下げて回った。運送屋も幾つか周り、移動後の調律などの話があれば、格安で請ける旨を説明させて頂いた。
 しかし、業界からは全く相手にされなかった。学校とのトラブルを耳に挟んでいる会社には、ほぼ門前払い状態。運送屋は、既に色んな調律師と繋がっているし、フリーランスの調律師は、誰も人に仕事を回すほどのゆとりはない。そもそも、彼等は全て自分の思うようにしたいからこそ、フリーになったようなものだ。

 私は、藁にもすがる思いで、以前勤めていた会社にも電話を掛けてみた。たまたま電話に出た社長の挨拶を交わしたものの、冷ややかでつっけんどんな対応をされた。
 それでもめげずに、胡麻をり、へつらいながら必死に食らいつき、格安で仕事を卸してもらえないかとお願いしてみた。ついには、面倒臭くなったのか、根負けしたのか、「分かったから、工場長に聞いてみろ」と言われ、電話をそのまま工房に繋いでもらうことに成功した。
 しかし、なんと、工場長には吉岡が就いていたのだ。電話越しでも、蔑んだ薄ら笑いを浮かべているのが想像出来るような口調で、吉岡は話し掛けてきた。
「あぁ、今本さん、お久しぶりです。どうしたんですか?」と白々しく聞いてくる吉岡に、仕事に窮しており、格安で請けるので卸してもらえないか? とお願いしてみた。
「そういうことですか。おかげさまでね、うちは仕事は手が回らないぐらいありますよ。でも、外部には卸しませんよ。全部、研修生の貴重な教材ですからね。僕と違って、今の子にはきっちり学ばせてあげたいんですよ。なんでしたら、今本さんもうちの研修生になります? 膠の味はよくご存知でしょうから、少しは優遇しますよ?」
 今本は、昔の虐めのことをかなり根に持っているようだ。冗談を装いながらも、明らかな挑発であろう物言いで、そう告げられた。軽い報復だろう。ここでキレたら終わり……と分かってはいる。屈辱的で悔しいが、今大切なことは仕事がもらえるか否か。そこだけに焦点を絞り込み、冷静に考えると……吉岡が工場長をやっている間は、この会社との取引きはあり得ないと判断した。残念ながら、全て私自身が蒔いた種、自業自得、因果応報だ。
「吉岡さん、ありがたいお話に感謝します。また機会があれば、よろしくお願いします」と、元部下に儀礼的な敬語で一方的に述べ、返事を待たずに電話を切った。



 吉岡には辛酸を舐めさせられたが、それでもこの仕事にしがみ付きたい思いは変わらない。その後も、必死に仕事を求め色んな人に頭を下げて回った。
 すると、それまでほとんど付き合いのなかった会社から、修理の下請けの依頼を頂いた。と言っても、提示された金額は、完全に足元を見られたのか、相場からかなり掛け離れていた。
 勿論、技術がお金になるなら、今は仕事なんて選んでいるゆとりはないことも分かっている。それに、ピアノの向こうには、喜んでくれるユーザーがいるはず……駒田に言われた言葉を思い出した。
 結局、ほんの少しだけ躊躇したものの、すぐに頭を切り替え、請けることにした。赤字ではないものの、バイトの方がずっと儲かるような馬鹿げた仕事だが、懸命に取り組んだ。
 すると、納品後にもう一件仕事を貰えた。全く同じ条件の同じ内容の修理だ。その後も、時々ながら仕事を回してくれるようになった。ほぼ全てが採算ギリギリの仕事だが、私は喜んで請けるようにした。利用されているだけと分かっていても、会ったことも会うこともないであろう、ユーザーの姿を想像しながら、笑顔で感謝を表現した。
 格安での下請け、という業務の表面だけを切り取ると、専門学校に世話になっていた頃と本質的には何も変わっていないのだ。ただ、私の中の受け止め方だけは、幾分か謙虚になったかもしれない。
 その後も、コンスタントに仕事を貰えるようになった。もっとも、絶対量が少ないので大した収入にはならないし、バイトの収入に頼る生活には違いないが、調律師としての仕事があることだけでもありがたかった。なので、仕事には真摯に取り組んだつもりだ。
 一年ぐらい経った頃、その会社のベテラン調律師が、予てから悩んでいた慢性的な腰痛が悪化し、技術の仕事から引退して営業に回ることになった。それに伴い、私に嘱託調律師をやらないか?  と話しが来た。今までの修理の仕事が認められたようだ。今回は条件もそれほど悪くはない。私は二つ返事で引き受けることにした。

 それから更に一年程経った頃、師匠が亡くなったとの一報が届いた。
 もう、長年年賀状のやり取りだけの交流で、電話もしなくなっていた。最後に話したのは、学校の工房を借りて開業する直前だ。一応、開業の報告だけはしておかないと、と思い電話を掛けたのだが、既に、すっかり耳が遠くなっていた師匠とはなかなか話が噛み合わず、イライラした記憶がある。
 途中から会話が面倒臭くなり、電話を掛けたことを後悔し、何とか穏便に電話を切ることだけを考えていた。そんな私を見透かしたかのように、師匠は「学校の人と上手くやれよ」と言った。
 今思うと、師匠は私が「上手くやれない」可能性があることを見越し、危惧していたのかもしれない。もっと、師匠とゆっくり話すべきだったのに、当時の私は他人への気遣いや寛容さに欠けていた。相手が師匠であっても、だ。
 実際に開業してからも、どうせ話が噛み合わないだろうと、師匠に連絡することはなかった。塚原のことで悩んでいた頃、一度連絡しようかと迷ったことはあったが、結局はしなかった。「師匠」という、調律師としてこれ以上ないベンチマークがありながら、それを参考にもせず、相談もせず、一人相撲で自滅したのだ。
 でも、どのみち、私は師匠のように人を育てることは出来なかっただろう。そういう技術も能力もなければ、人間的にも「教育者」や「指導者」の資質に欠けている。そのクセ、「指導者」という肩書きだけに酔い、偉くなった気になっていたのだ。吉岡にも塚原にも、少しだけ立場が上にいるだけなのに、大きな勘違いをして苦しめてしまった。
 やがて、学校の人と上手くやれず、工房を出ることになり、自営を装う無職のようになり……ますます師匠から遠のいていた。いつか、仕事が安定したら連絡したい……そう考えていたのは本当だ。そして、もう少し頑張れば、その時が来るかもしれない……と思っていたのも本当だ。
 しかし、全てが遅過ぎた。師匠とは、結局それが最後の会話になった。



 数日経ってから気付いたのだが、師匠の死は、想像以上に私の心の奥深くを抉り取り、ぽっかりと大きな穴を空けたようだ。
 もう、何年も会ってすらいなかったのに、常に精神的な支柱として、私は師匠をすぐ傍に感じていた。技術的に分からないことは師匠に聞けばいい、知識の足りない部分は、いつでも師匠が教えてくれる……そういった甘えや安心感は、自営業者にとって「保険」のようなもの。実際に保険ヽヽを使ったことはなかったとは言え、もう二度と師匠に教わる機会はなくなったのだ。これで、本当に私を助けてくれる人はいなくなった。
 いつの日だったか、「もっと自己中に生きてもいい」と師匠は私に言った。今なら、その真意が理解出来る。当時の師匠は、私が会社に忠実で、自分を犠牲にして研修生の指導をし、会社の為に頑張っていると勘違いしていたようだ。その上で、そんなに会社に義理立てる必要はない、自分の人生を自由に生きろ、という意味での「自己中」だ。
 確かに、私は師匠の前では良い弟子でいようとした。その為に、会社での業務も真面目に取り組んでいた。社内のゴタゴタの際も、私は退職せずに残ることを選んだ。
 しかし、それは、単にその方が楽だったからに過ぎないし、会社の為なんて考えたことはなかった。師匠の弟子であることを優先して、真面目な社員を演じていただけだ。
 それなのに、師匠には「良い意味で」違って見えていたのだろう。人間的にも技術者としても、私にとっては完璧に近い存在だった師匠だが、たった一つだけ欠点があった。それは、人を見る目がなかったこと。厳密には、性善説がこびり付いており、どんな悪人も「本当は良いヤツなんだ」と信じ込んでいるのだ。なので、私や吉岡のような人間が持っている、生まれながらにしての「醜さ」や「残酷さ」を見抜けない人だった。
 その結果、当時の師匠の目に映る私と実際の私は、著しく乖離していたのだ。猫を被った姿を「真」と捉えていた。私の本当の属性には、全く気付いていなかった。だからこそ、独立を勧めたのだろう。
 実際には、師匠がいなくなってからの私が、本当の私だ。自意識過剰で嗜虐性の塊で、プライドだけはやたらと高く、弱いものいじめが生き甲斐な私。そして、究極のエゴイスト。師匠に言われなくても、既に自己中を極めていた。しかも、師匠の一言を都合良く解釈し、自分のエゴを正当化し、更に後押ししてくれた気にさえなっていた。
 その成れの果てが「今」なのだから、誰に言われるまでもなく、間違っていたことは明白だ。



 いつしか、学校と訣別して、五年ぐらい経っていた。相変わらず、調律師としての仕事では大きな飛躍はない。バイトも続けている。三十代後半の独身で、フリーターと大差のないフリーランス。世間一般で言うところの、完全なる「負け組」だろう。
 それでも、いつしかそれなりには食べていけるようになっていた。もちろん、常に仕事を求め、馬鹿げた仕事も喜んで請ける毎日には違いない。赤字と分かっていても、次に繋がる可能性に賭けて請けることもある。足元を見られ、有り得ない査定を飲まされることもある。
 毎日のように悔しい思いも味わったが、何とか衣食住には困らない程度の仕事は、ギリギリ確保出来るようになっていた。

 ある日のこと、私は始めたばかりの舞台設営のバイトで、県内最大の催事場に出向いていた。すると、何故かその会場に駒田も来ていた。奇しくも、再会を果たすことになったのだ。
 そのイベントは、プロアマ問わず、色んなジャンルのクリエイターが作品を展示販売するマーケットで、何年も続いている有名な催しだ。今でこそ、物販から外食産業、音楽ビジネスなど、多方面に展開している駒田の事業だが、その始まりは天然石の原石の販売や、天然石を加工して作ったハンドメイドアクセサリーのネットショップだったのだ。
 そんな駒田にとって、このイベントは原点回帰の場だったのだ。どれだけ会社が成長しても、毎年必ず出店しているとのこと。畳二枚ほどの小さなブースで駒田自らが店頭に立ち、天然石を使った様々な「作品」を販売しているのだ。

 イベント開催日当日の早朝、出店者やイベント関係者が忙しく準備に動き回る中、バイト先から支給された「つなぎ」のユニフォームを着て、私は黙々と玄関ホールにある舞台の設営で、他のスタッフと一緒に走り回っていた。照明や音響、大道具、小道具など、それぞれの専門業者が協力し合い、簡易ステージを作り上げるのだ。
 もっとも、私はこのステージが、何に使われるのかも知らない。運び込まれた土台となる木材を、言われるがままに、六角ボルトで組んでいくだけだ。物作りにおける末端の人間なんて、そんなものだろう。
 その時、近くを通り掛かった駒田が私を見つけたのだ。そして、そっと近付き、話し掛けてきた。
「やっぱり今本か? お前、何やってるん?」
「えぇ?  駒田か?  はははっ、えらいとこ見られてもうたな。バイト中や」
「元気そうやな。調律もやってるんか?」
「まぁ、ボチボチやけどな、まだしがみ付いてるで。で、お前こそ、こんな所で何やってんねん?」
「俺は、毎年このイベントに出店してるんや。今日と明日、どっちもブースにおるから、暇やったら遊びに来てくれよ。ブースは、B-221や」
「へぇ、そうなんや。じゃあ、明日の夕方冷やかしに行くよ。B-221やな。ついでに、終わってからメシでも行ける?」
「そやな、片付けはスタッフに頼んでるから、終わったらメシでも行こか。でも、融資の話とかはやめてくれよ?」
「分かってるって。じゃあ、親方に怒られるから、また明日な」
 こうして、翌日の夜に駒田とゆっくりと話す機会を得た。


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