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第10章


 長い長い昔話を語り終えた駒田は、ふぅっと大きなため息を落とし、グラスの中で溶けつつある氷を眺めていた。氷は記憶と同じ。少しずつ溶け形を失っていく。これが思い出なら、いつまでも何処かに残っている。二つの違いは、いつでも自由に取り出せるものが「思い出」で、どこにあるのかさえ分からないものが「記憶」……そう聞いたことがある。
 溶けた氷は、潜在的な「記憶」として残っている。決して、消えてしまったわけではない。ただ、確実にコップの中にあるはずのに、姿形が変わり溶け込んでしまい、取り出したくてもなかなか取り出せないのだ。
 その点、駒田の話は、きっと「思い出」なのだろう。

「そんなことあったんや……」
「もう、随分昔の話やけどな」
「そのおっさん達とは、それっきりなん?」
「うん……一年後ぐらいかな、少し金回りがよくなってこの店に来たんよ。川田さんと保さんに会いたいんだけど、って似たようなおじさんに聞いたら、二人とももうおらんで、って言われた」
 そう呟く駒田の目は、少し寂しげに笑い、少し怒りに燃えていた。
「何があったん?」
「川田さんは、身体壊して部屋で一人で死に掛けてたところ、たまたま仲間に見付けられて、保護されて、何処かに収容されたって言ってたな。その時点で、誰も行き先は知らんし、生きてるのかも分からんって」
「そうなんや……家族もおらんかったんかな?」
「ああいう方達って、あまり家族とか過去の話はせぇへんからな。まだ何処かで元気に酒飲んでるといいな、って思うけど。もっとも、あれから二十年近く経ってるし、生きてたら今頃は七十は超えてるはず。八十前後かもな。まぁ、あんな生活してたら、生きてる可能性の方が低いやろな」
 遠くを寂しそうに見る駒田の表情は、とても穏やかで落ち着いていた。懐かしむようでもあり、何処か達観したような境地も感じた。

「保さんは?」
 そう聞くと、駒田は急に顔を曇らせた。そして、何処となく怒気を含む声で端的に答えた。
「殺されたらしいわ」
 予想外の返答に、私は「えっ?」と驚いたように問い返すしかなかった。いや、実際に驚いたのだ。
「どういうことやねん?  誰に殺されたんよ?」
「一緒に飲んだ日から半年ぐらい後に、この界隈でホームレス連続暴行事件ってのがあってな、保さんもやられたらしい」
「あ、大昔この辺でそんな事件あったな。犯人、ガキやなかった?」
「そう、それや。その報道は俺も知ってたから、もっと気に掛けるべきやったけど……弁明するとな、当時は俺もその日暮らしみたい生活やったから、ニュースを追いかけるゆとりもなくてな。それに、保さんも川田さんもホームレスではないし、保さん、名前も全然違うかったんよ。吉永修造って本名で報道されてたから、全く気付かんかった。『保』って字があれば、気付いたかもしれんけど、どっちにしても殺されたことには変わらんもんな。犯人は三人組のガキ共、確か全員中学生。そいつらにとったら、ストレス発散の遊びなんやな。十日で五人ぐらいリンチされて、保さんだけ死んだ」
 私は完全に言葉を失っていた。駒田にとっての恩人は、僅か数ヶ月の間に二人とも居なくなったのだ。駒田は、平静を装いつつも、目の奥に怒りの炎が燃えているのが分かった。それを見た私は、さり気なく話を逸らそうと考えていた。実際のところ、居た堪れなくなったのだ。
 しかし、なかなか口を開くことが出来ず、しばらく気不味い沈黙が続いた。

「しかし、この店はええ感じやな。駒田がフラっと入ったのも分かる気がする。それに、少なくても二十年ぐらいは続いてるんやろ?  この辺の労働者にとって、オアシスになってんやろな」
 何とか雰囲気を変えようと、私は店の話題を振ってみた。幸い、駒田も話に応じてくれた。
「そやな……でも、潰れかかった時期もあったんやで。ホームレス連続暴行事件から数年経ってからかな、行政がテント村を撤去してホームレスを追い出してな。まぁ、事件がきっかけになったんやけど、そこから数年掛かるのがいかにも行政のやることらしいわな。自立支援とか綺麗事並べて、この辺の環境を変えようとか言い出してな」
「あぁ、なんかそれ知ってるわ。サミットかなんかあったんやない?  その時にわざわざホームレスの事件を蒸し返して……昔、そんなニュースあったな。そうか、あの時の被害者が保さんやってんな」
「まぁ、そういうこと。テント村の撤去を始めた時は、既に保さんがられてから、四年も経ってたんや。とっくに事件なんて風化されてるし、普通のヽヽヽ住民にとっては、そもそも無関心に近い事件やしな。要は、サミットの為の見映えの為やな。大義名分に利用されただけ。その時だけ、一時的にホームレスは一掃されたけど、直ぐにまた戻ってきて……結局ホームレスが居なくなったのは、ほんの数年間だけ。でも、その僅かな期間でも、無理矢理に環境を変えると色んな歪みが出てくるんや。この店には痛手でな、客足が遠退いてもうて……店主も転職したかったみたいやし、この店閉めようかって話になったんや」
「でも、ずっと続いてるって……誰かが引き取ったんか?」
「あぁ、俺が買い取ったんや」
「……なるほどな。そうか、お前の店やったんか」
「厳密には、俺のグループ会社の一つが買い取った。だから、店長も俺のことなんか知らんし、俺もここで偉そうに振舞うつもりもない。でも、経理は直接チェックしてる。この店は、絶対に潰したらアカンからな。公園での炊き出しも、ずっとうちの会社の福祉事業部がやってる。ホームレスも生活保護で生きてる日雇い労働者達も、この地から追い出したらアカン。批判する奴もいっぱいおるけど、皆んな言うこと同じや。突き詰めれば、あんな奴らのために税金を無駄遣いするなって話」
「でもさ……言いにくいけど、実際そういう面も否定出来んのとちゃう?」
「まぁな……」
 そう言ったきり、駒田は黙ってしまった。いや、言葉を探してるようだ。そして、意を決したように語り始めた。

「ちょっと長くなるけど、言いたいこと言わせてくれな。人間って理性がなかったら動物と一緒やろ?  食べて寝てセックスして、それだけでいいんちゃう?」
「三大欲求って言われてるもんな」
「そうそう。でも、どうせならより良い物食べたいし、より快適に寝たいし、より良いパートナーと共に暮らしたい。健康に生きたいし、安全を確保したい。その為にどうするか?  って考えて、力とか能力とか頭脳とか知恵とかで差別化を図って、極端な話、社会ってその積み重ねで出来ていったんやない?  で、社会性なんてものが築かれて、全員で守るべき責任とか秩序も生まれて、法なんかも生まれて、税金を納めるようになって……いつしか、人間は生まれた地域社会の一部になることが強いられてるんよ。働くってことも、その準備として学ぶってことも、その一環やな。それはそれで大切なことやし、俺も社会の一部として責任果たさなアカンと思ってるよ。でも、どうしてもそれが合わない人もいて当然やない?  向き不向きなんて、人それぞれやん。だからこそ、職業も宗教も選択の自由が保障されてるんやろ?  そやのに、基本的な人間の部分で社会に合わなかったら弾き出されるって、おかしくないか?  法的な『義務』で生き方を制限するのは違うと思うねん」
「でも、言ってることは分かるけど、何て言うのか、やっぱり俺みたいな底辺の社会人でも、人様の税金で最低限とは言え生活が保証されて、言い方悪いけど、貰うだけの人生って、ズルいって思うけど?」
「そうか……まぁ、こういう話したら、皆んなお前と同じこと言うわ。働かんで税金も納めんクセに、皆んなの税金で生きてるってズルくないか?  ってな。だから、俺はいつも言い返すんや。ズルいと思うんやったら、お前もやれよってな。家売って、仕事辞めて、働かんとブルーシートで寝泊まりしたらいいやん。上手いこといったら、生活保護ももらえるかもしらんし、炊き出しに並んで、毎日空き缶回収したり日雇いの土方探したらいいやん。ズルいと思うんなら、今すぐやれよ。簡単に出来るやん。そう言うたら、みんな黙るんや。どう? お前も仕事なんかやめて、アパート引き払って、車処分して、ここで生活してみるか? 仕事せんでもいいし、生活保護もらいながら、ズルくヽヽヽ生きていけるか?」
「いや……そう言われると、やっぱり違う気はするな。卑怯かな?」
「誰でもそんなもんやと思うで。結局のところ、気に食わんだけなんや。自分の自由は享受するクセに、気に入らん選択は全否定。でもな、この辺で生きてる人達は社会が気に食わんで、そういう生活を選んでるんや。それも自由やない?  同じことやないか?」

 そう言ったきり、駒田は黙ってしまった。私も駒田の勢いのある熱弁に飲み込まれ、口を挟めなくなっていた。二回目の沈黙の時間だ。
 幸い、険悪な雰囲気にはならない。昔の同級生とは言え、対極とも言えるぐらいに全く違う人生を歩む二人だが、それなりの信頼関係は築けているのだろう。社会的な成功を手中にした男と、ギリギリの生活を懸命に生きる男……今では、住む世界が全く違うにしろ。
 とは言え、そのことを差し引いても、私には駒田の話が極論に聞こえた。いや、暴論、若しくは妄想と言ってもいいレベルかもしれない。勿論、全てを否定するつもりはないし、同意出来る部分もある。でも、現実に生活保護を意図的に悪用している人も沢山いる。自己本意に起因するミスで、やむを得ずに借金を重ね、ホームレスにまで墜ちた人もいる。彼等に、崇高な哲学や精神などあるとは限らない。
 そう、彼等全員が、自由な生き方を求めているのではない。そんな綺麗事ではない……少なくとも、私はそう思っていた。かく言う私自身も、それに近い境遇にまで墜ちている。だからこそ、そのことを知っているのだ。

 しかし、数分貫いた無言の後、駒田がボソッと呟いた全く別の話題により、私と駒田に明確な接点が生まれた。
「調律師か……俺はとっくに諦めた肩書やけど、今は音楽ビジネスもやっててな、楽器レンタルの仕事も始めたんや。と言っても、俺は出資だけで、部下に別会社作らせて全部任せてるんやけどな」
 駒田が音楽産業に進出したことは知っていたが、具体的な話を聞くのは初めてだ。
「マジで?  ピアノもレンタルしてるんか?」
「もちろん。って言うか、ピアノがメインやな」
「じゃあ、調律どうしてるん?  っていうかさ、融資なんてもう頼まんけど、ピアノレンタルやってるんなら、ちょっとぐらい仕事回して欲しいな」
「もちろん、俺もそれぐらい考えたことはあるよ。でも、悪いけど俺は一切口出さんって決めてるからな。そりゃ、俺が調律は今本を使えって言えばそうなるんやろうけど、企業に限らず、国も部活も自治会もPTAでも何でもそうなんやけど、組織のトップが公私混同したらその組織は腐ってくると思ってるねん。楽器レンタルの会社は、任せてる部下に責任も含めて全部丸投げしてるんよ。逆に言うたら、俺が私情挟んで口出ししたらやる気なくすやろうし、成功した時の手柄も失敗した時の責任の所在もあやふやになるやん。悪いけど、俺からは紹介出来んけど、自分の力で仕事取りに行くなら、もちろん止めへんよ」
「分かった。そういう所、見習わなアカンな。その会社のこと、教えてよ。また今度、お前のダチってことは言わんと、自力で開拓してみるよ」
「あぁ、そうしてくれると助かるな」
「ちなみに、今は調律師雇ってるんか?」
「確か、一人正社員で雇ってるはず。内勤外勤、両方兼任でやらせてるらしい。でも、外の調律がブッキングする時もあるんで、その時は何人かフリーの調律師に声掛けて外注でやらせてるみたい。お前が入る余地があるとしたら、そこやろな。まぁ、せいぜい月に数台やろうけど」
「そうか……まぁ、今の俺には一台でもありがたいよ。使ってもらえるように頑張るわ」
「あっ!  そう言えば、昔、お前の工房におったヤツ、塚原って名前やなかった?」
 久しぶりに「塚原」の名前が出て、一瞬頭が真っ白になった。彼と連絡が取れなくなって、五年以上経っている。そして、ジワジワと彼の犯した失敗が脳裏に蘇り、妙な苛立ちを堪えるのに必死だった。
「うん……塚原や。もう、忘れ掛けてたけどな。アイツがどうかした?」
「でも、やっぱ別人かな?  フリーの調律師の塚原ってのに時々調律を依頼しててな、前からオモロいヤツって話聞いてて俺も最近何回か会ったけど、生きてるのが楽しくて仕方ないって感じの陽気なヤツなんや。お前が面倒見てた塚原とは別人かも」

 工房を辞めて以来、毎日が死に物狂いで生きてきた為、塚原のことなど思い出すことさえなかったが、どうやら彼は彼で同じ業界で細々とやっているという話は、全く接点がないとは言え、風の噂で聞いていた。おそらく彼のことだから、私なんて比にならないほどの苦労をしてきたであろう。
 もっとも、私と違って彼は裕福な実家暮らしなので、衣食住の不安はないだろうが。
 駒田の知っている「塚原」が、果たして本当にアイツのことなのか確信が持てなかった。と言うのも、話を聞く限り、あまりにも印象が違うのだ。
 私の知っている塚原は、初対面の人には、不貞腐れたような陰鬱な表情から「暗い」人間と思われるだろう。「大人しい」のではなく、「不気味な」暗さだ。服装もいつも地味だし、髪型も昭和の真面目人間のような無個性のスポーツ刈り。
 しかし、駒田の会社で使っている塚原は、とにかく根明で陽気な人物なのだとか。明るい茶色に染めた長髪、片耳にピアス、ラフで派手な服装……テレビ業界人のような、若しくはサーファーのような出立ちらしい。もし、あの塚原だとしたら、俄かに信じ難い話ではある。
 余談になるが、「その塚原」が「あの塚原」かどうかはともかく、駒田の知る塚原に関しては、とても調律師として相応しいビジュアルとは言えないだろう。もし、当時の私の工房にそんなチャラい格好で来たら、私は激怒して追い返しただろう。師匠なら、間違いなく即日破門だ。
 しかし、今の私なら、さすがに推奨こそしないものの、それはそれで良いのでは?  と思えるようになっている。世の中の風潮が変わったこともあるが、多分、私も少しは変わったのだろう。

 まさか、あの塚原なわけがない、印象が違い過ぎる……と思いつつも、駒田の話を聞いていると、同一人物としか思えない事実が一つだけあった。そっちの塚原も、難病を患っているらしいのだ。
 詳しい病名までは聞いていないそうだが、かなり厳しい食事制限があるとのこと。決して珍しくないとは言え、それほど頻繁にあるとも思えない「塚原」という苗字で、かなり珍しいであろう難病疾患を有する者となれば、やはり確率的に同一人物の可能性が極めて高い。
 それだけではない。大凡の年齢や体格も合致している。そして、どちらも調律師。せめて、居住地や下の名前などが分かれば確定出来るのだが、駒田もそこまでは知らないらしい。

「やっぱり、あの塚原っぽいな。アイツ、クローン病っていう難病に罹っててな、当時は制限どころか、食事そのものが出来へんかったで。鼻からチューブで食事ヽヽしてたわ。調律師で、難病で、塚原って名前の三十前後の男、この地域に何人もおらんやろな。全然見た目のイメージも性格も違うけど、変わったんかもな」
「そうかもな。まぁ、俺は元の塚原を知らんから何とも言えんけど、確かに確率は高いやろうな。しかも、ゲイやろ?」
「えっ?  ゲイ?  それは知らん!  聞いてへんよ」
「あ、そうなん?  うちで使ってる塚原は、ゲイを公表してるわ」

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