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EGOIST(最終章)

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最終章


 かつて、日雇い労働者やホームレスが溢れ、県内で最も貧しいと言われていた区域の外れに、小さな居酒屋がある。お世辞にも綺麗な店とは言えないが、昭和風情のような佇まいと庶民的な趣の気取らない家庭料理、そして「超」が付くほどの良心的な価格から、連日常連客で賑わっている。
 狭い店内は、上品とは言えない喧騒が飛び交い、タバコと炭の煙で白いモヤが掛かっている感じだが、あちらこちらで談笑の絶えない賑やかな店だ。
 ここに来る客の大半は、このエリアに今も尚居住している、日雇い労働者や生活保護受給者だ。街並みは随分と小綺麗になり、若い世帯も増えている地域だが、昔の名残は根強く残っていた。
 しかし、今、カウンターでは、この店に不似合いな初老の男性が一人で飲んでいた。ラフな格好ではあるが、身に付けているものは見るからに高級品だ。身なりも清潔で整っており、何よりもこの辺に住む労働者達とは違い、色白で膨よかな体型をしていた。
 どうやらその男もまた、見た目とは裏腹に、店の常連客らしい。一人で飲んでいるとはいえ、顔見知りの客に時々話しかけられては、笑顔で応じていた。それに、店主とも楽しげに談笑していた。明らかに、この店内では異分子のような存在だが、店にも常連客にも受け入れられており、打ち解けあっている感じだ。

 男は、柔らかな笑みを浮かべながら、店主に話しかけた。
「いよいよ、あと二週間やな」
「いつもおおきに。あとちょっとやから、もう閉店まで休みなしでラストスパート頑張るで」
「創業五十年ぐらいか? 大将は二代目やっけ?」
「丸四十八年や。父が開いた店なんで、ホンマは閉めたくないんやけど……跡取りおらんし、ぶっちゃけ、ワシがもう疲れたわ」
「何言ってんねん、まだ若いやろ?」
「何でやねん、もうジジイもええとこや。来年七十やで。脱サラして後継いで二十年……この辺もあの頃とは別の街みたいになったしな、お洒落な店も増えて若い子もたむろするようになったから、うちなんかもうお役御免って感じ、無理に続けなアカン理由なんかあらへんねん」
「そうか……時代には逆らえんわな。ホンマ、長いことお疲れさん。俺は今日が最後やな」
「えぇ? そんなこと言わんで、もう一回ぐらい来てや」
「そうしたいんやけど、明後日から遠出するからな、残念やけど……」
 この地域に根付き、労働者たちの交流の場でもあり、オアシスのような存在だったこの店は、どうやら、あと二週間で閉店することになったのだ。

 男は、ふと真顔になって店主に尋ねた。
「そう言えば、最近、今本は来てない?」
 常に笑顔を絶やさない店主の表情が、一瞬だけ曇った。
「いまもっちゃんか……それが、もう数週間は来てへんねん。このまま最後の挨拶もせんと、お別れになるのかもな」
「何か聞いてる?  ってか、その顔は何か知ってるんやろ?」
「はははっ、駒さんには嘘通じへんな。でも、ワシも人伝に聞いただけや。いまもっちゃんは……ホンマかどうかは知らんけど、ワシの聞いた話やと、不正がバレてナマホ打ち切られたらしいわ……アイツ、ちゃっかり年金貰ってたみたいやな」
「四十ぐらいまでは、細々とやけど働いとったもんな。国民健康保険は払ってたはずや。それに、その前は正社員で仕事してたから、厚生年金も数年分は払ってるやろうし」
「どんな裏技使ったんか知らんけど、年金貰ってるの隠してナマホ申請してたみたい。ちょっとぐらい年金もらってても、ナマホは貰えるのに。まぁ、減額にはなるんやろうけど、正直に申請した方がええのにな」
「アイツ、そんなことしてたんか」
「らしいな。同じことして、詐欺罪で訴えられたケースもあるみたいやで。いまもっちゃんの場合、年金なんて数万しかもらってへんやろうから、そこまで悪質やないし、知らんかったって言い張って、過失で言い逃れも出来たやろうに」
「もう、貰われへんの?」
「よう知らんけど、不正でもらった分を返金するとか、改めて申請し直して天引きされるとか……まぁ、ちゃんと反省して謝って、正しく手続き踏めばまた貰えるんやないかな? そこまで冷たい国やないやろ? 年金もらいながら、ナマホ受け取ってるヤツ、なんぼでもおるしな。皆んなにも、ちゃんと手続きやり直せよって言われてたのに、そこまでして端金はしたがね欲しないわ、とか、まぁ逆ギレやな。で、部屋出なアカンようになったんやって。しばらくならうちにいてもええぞって誘ってあげたヤツもおったんやけど、いまもっちゃん、変に見栄っ張りやん?  人に頭下げるの苦手そうやし。その気になれば俺には手に職があるんや!  何とかなるわ!  とか言うて、それっきりみたいやで。多分、違う場所でホームレスやってんちゃうかな」
「何で、違う場所に行ったんや?」
「いやいや、それはワシがそう思うってだけの話や。実際、この辺では見かけんしな。ここにおれば仲間もいっぱいおるのに……アホやな。まぁ、いまもっちゃんの性格からして、落ちぶれたところを知ってる人には見せたくないんちゃうかな。根はええ人やのに、損な性格やもん。頑固で意地っ張りで、プライド高くて、ちょっと自己中なとこあるやろ?  手先は器用やし物知りやから、仲良う付き合ってる人もいたけどな」
「今本は……手先は器用やけど、生き方は不器用やからな」
「確かにそうやけど……でも、いまもっちゃんのアカンところは、自分も風呂無しの1DKやったクセに、一応アパートに住んでるってだけでホームレスを散々見下しとったからな。世間一般からしたら、どっちも大差ないのにな。自分がホームレスになったら、ここにはおれんやろ」

 店主の話を聞いた初老の男は、寂しそうに少し笑った。
「……そうなんか。アイツ、まだそんなこと言うとったんか。結局、人ってそう変われるもんやないんやな」
「駒さんさ、前から聞きたかったんやけど、いまもっちゃんとは古い付き合いなん?  二人とも時々店来てくれはったけど、一緒に来ることはないやん?  お互い相手のこと聞いてくるのに、一緒におるところは誰も見たことないねん。変な関係やなって皆んな思ってるんやで」
 いや、何十年も前、先代が経営している頃に、二人で来たことがある——男はそう言い掛けたものの、結局は口に出さないことにした。もう、どうでもいいことだし、説明を求められると面倒だと思い直したのだ。
「まぁ、何年も前の話やけどな、友達やった時期があるだけや」
「友達やったら、助けたったら良かったのに。駒さん、見るからに裕福そうやん。実は、いまもっちゃんにも駒さんに経済的な援助お願いしたらええやん!   って話したことあるねんけど、アイツには迷惑掛けられへんわって笑ってたんよ」
「そうなんや……実はな、大昔に頼まれたことはあったんよ。でも、返すアテもないヤツに金なんか貸せるか!  って突き放したんや。俺としては、アイツに成功して欲しかったから、発破かけるつもりやったんやけどな。一時期はそれなり順調に仕事回しとったから安心してたんやけど……そうやな、結局こんなことになるんやったら、ちょっとぐらい助けてあげても良かったんかもな。もちろん、今からでも相談に乗らんことはないんやけど、まあ、アイツ次第やな。わざわざこっちからは動かんよ。一応まだ友達のつもりではあるんやけど……」
 そう言ったきり、初老の男は黙り込んでしまった。

 そして、男は、グラスの中で無抵抗に溶けいくだけの氷を、じっと眺めていた。


(了)


(※)クローン病の症状には個人差があり、食事の制限も病状により様々です。ステロイドの投与も、必ずしも一般的とは言えません。
 また、クローン病が直接の原因となり死に至ることは、殆んどありません。残念ながら、合併症による敗血症、或いは病変部位の癌化などで死亡するケースはありますが、死亡率は一般の方とほぼ変わらないと言われています。
 本作により、クローン病、及びクローン病疾患者に対し、誤った認識や偏見が生じないことを、切に願います。


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