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EGOIST(第12章)

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第12章


 翌朝、私は駒田の楽器レンタルの会社へ連絡してみた。自分がフリーの調律師であることを伝え、どんな仕事も喜んでお請けするので、機会があれば使って欲しいと頼み込んでみた。すると、一度来社して欲しいと言ってもらえた。簡単な面接を行ってくれるとのことだ。滑り出しは順調だろう。
 指定された日にレンタル会社を訪問し、簡易的な面談を行なって頂いた。経歴や動機について、手短な説明を求められたが、淀みなく答えることは出来たと思う。しかし、登録はしてくれることになったが、実際に仕事を卸すことは難しいようだ。
 どうやら、基本的に人手は足りているとのこと。月に数回、調律の仕事がブッキングすることがあり、その時だけ外部の調律師に委託するそうだが、塚原以外にももう一人助っ人が登録されているそうだ。万が一、二人とも来れないようなことがあれば、私に声を掛けてくれることにはなったが……過去には一度もそういう事例はなかったそうだ。
 ただ、仕事は増加傾向にあるので、将来的にはお願いすることも出てくる可能性はある、ということなので、そうなってくれることを期待するしかない。
 私は、駒田の名前を出しそうになったが、辛うじて思い留まることが出来た。もしここで名前を出していれば、月に数件の仕事と引き換えに、駒田からの信用を失っただろう。その程度の理性が働くようになっただけでも、ほんの少しは成長出来たのかもしれない……そう自分に言い聞かせ、実質的に空振りに終わった面談の部屋を後にした。
 結局、そのまま数ヶ月、仕事の依頼はなかった。面談後の数日間は、着信がある度に「もしかして!」と期待したが、やがて期待は諦めに変わり、いつしか完全に忘れていた。
 そしてまた、バイトと調律師の仕事を掛け持ちする生活に戻った。もっとも、レンタルの仕事が数件入ったところで、バイトにも依存しないといけない生活には変わりがない。今では、最低限の衣食住には困らない程度の収入こそ、何とか確保出来るようにはなったが、完全に頭打でもあり、それ以上の発展は見込めない。それに、ちょっとしたイレギュラーな事態やトラブルが発生すると、全てを失う可能性もある不安定な状態だ。綱渡りのような生活が、この先もずっと、延々と続く可能性が高い。
 駒田が話していたように、調律師を続ける「目的」は何なのか、自分なりに見つけ出さないといけないだろう。今は、目的どころか、この先自分が何を目指し、何処に向かおうとしているのかも分からない。一度立ち止まり、振り返り、じっくりと考え直さないといけないだろう。それなのに、惰性と意地が同じ方向を向いており、ブレーキが効かない状態のまま、ズルズルと続けているだけだ。
 もし、このまま何も目的のようなものが見つからないのなら、直ぐにでも見切りを付けた方がいい。今後の大きな発展も見込めないくせに、いつか好転するかも、と根拠のない期待を抱いて、もう何年間も休みやすくて辞めやすいバイトを転々としている。
 調律師の継続に固執しなければ、もっと割りの良い長期のバイトも探し易いだろうし、正社員への道も全くないわけではない。派遣登録にもギリギリ間に合う年齢だし、体力的にも、まだ辛うじて肉体労働にも耐え得るだろう。そう、「調律師」というタグさえ外せれば、選択肢はグンと広がるのだ。
 そう分かっていても、フリーランスの「調律師」という立場に拘っている自分もいる。その目的さえ、見出せないままに。全てが悪循環だ。



 面談から半年ぐらい経ったある日の夜、携帯に着信が入った。もう、楽器レンタルの会社のことはほぼ忘れていたが、こんな時間に電話を掛けてくる心当たりもなく、久しぶりに「もしかして?」と期待した。しかし、ディスプレーに表示された名前はあまりにも意外過ぎた。
 なんと塚原だったのだ。

 思えば、あの事件以降、結局塚原とは連絡が取れないままだった。でもまぁ、損失はすぐに弁償してもらったし、今更謝罪なんて求めていない。それに、あれからもう五年以上も経っている。
 駒田の会社で少しだけ接点が出来たとは言え、会う機会は全くなかった。それに、私は彼に取って代わることは出来なかった「敗北者」だ。そのことを、彼が知っているのか否かは定かでないが、知っている上で「ざまぁみろ」と言いたいのかもしれないし、もしかすると謝りたいのかもしれない。
 何であれ、今となっては、私には特に彼と話すことはない。だからと言って、そのまま無視するのも抵抗があった。躊躇いはあったが、結局電話に出てみることにした。
 緊張しながら通話ボタンをタップすると、彼は、電話が繋がるや否や泣き出した。電話口で何も言葉に出来ず、ただむせび泣いていた。いつか、私が激しく罵った後のように……そのまま数分間、彼の号泣に付き合った。
 その時、突然何かが繋がった気がした。いや、もつれた糸がほどけたのかもしれない。コップの中に溶けた氷が、逆再生で形を取り戻すような感覚だ。

 あの時のチョコレートは、本当にお客様に貰ったのか?  それとも……
 そして、あれは本当に事故だったのか?  或いは……

 いやいや、そんなわけないだろう……必死に打ち消そうと試みるも、突如頭に浮かんだ「もしかして」という直感は、完全には拭い切れない。
 何れにせよ、私はチョコレートを冷淡に拒絶した。その後は、日毎冷たく当たるようになっていき、あの事件が発生した。本当に事故だったのか、彼なりの報復だったのか、他の意図があったのか……。
 いや、もうどうでもいいではないか。最終的に私と塚原は決別した。それから五年以上の歳月が流れたのだ。彼がどこで何をしていたのかは知らないが、不治の病とゲイという問題を抱えつつ、必死に仕事と向き合いながら生きてきたに違いない。

「もういいよ……」
 私は無意識にそう告げていた。色んな意味を込めたつもりだ。その内の、幾つが伝わったのかは定かではない。
「本当に申し訳ありませんでした。私のせいで……」
「元気なんか?  病気は相変わらずか?」
 私は、あまり塚原に喋らせないように、話題を変えてみた。直感的に、喋らせてはいけない気がしたのだ。きっと、彼はいつまで謝り続けるだろう。もういいと言っても、ずっと、ずっと。

「三年ぐらい前に新薬が出まして……その、私に合うみたいで……」
「おぉ、良かったやん」
「今は……ステロイドは使わなくても……あの、炎症は抑えられらように……なので、食事も少しは……」
 彼は泣きながらも、途切れ途切れに話を続けてた。どうやら、以前より病状は改善しているようだ。
「そっか……じゃあ、今度メシでも行くか?  お茶だけでもえぇし」
 そう誘ってみると、電話越しでも分かるぐらい、塚原の泣き声は大きくなった。喜んでいるのか、悔しいのか、悲しいのか、怒っているのか……果たして、この中に正解はあるのだろうか?
「すみませんでした……ありがとうございました……」
 むせ返るような嗚咽の合間に、塚原は辛うじて二つの単語だけ絞り出した。 おそらく、塚原もシンプルな二言に、色んな意味を込めていたのかもしれない。その全部を拾ってあげられたのか、今となっては確認しようもない。食事の誘いも返事はもらっていないが、それも永久に確認出来なくなった。
 その僅か二日後、塚原は死んだ。

 その情報は、奇しくも、駒田の会社から知らされることになった。塚原が旅立ってから数日後、初めて調律の依頼が入ったのだ。塚原が急に亡くなったので、代わりに調律をお願い出来ないか? と。
 話を聞くと、あの電話の数日前、体調が急変した塚原は緊急入院することになったそうだ。あの電話は、病室から掛けたのだろう。
 私は、フリーになってから、初めて調律の依頼を断った。



 塚原は、かなり早い段階で、自分の死期が近いことに気付いていたのかもしれない。少なくとも、長生き出来ないと予想していたのだろう。だから、彼は焦り、生き急いだ。
 そして、人生の最終章は、自身の性的マイノリティーをカミングアウトし、難病と闘いながら仕事に打ち込み、努めて明るく振る舞い、カウントダウンされていく人生を思い存分に満喫した。きっと、死と直面し、死を悟り、死を受け入れたのだろう。何も恐れず、何も恥じず、自分らしく生きる道を見つけ、正々堂々と真っ直ぐに歩んだ。塚原は、計り知れない精神力を備えた、とても強い人間だったのかもしれない。

 私は、自分勝手な感情だけで、塚原の貴重な時間を奪ってしまった。おそらく彼は、残された時間を少しでも有意義で濃密度に過ごしたかったに違いない。
 それなのに、私は塚原を邪魔者扱いし、不当に虐め、苦しめたのだ。何故、あんなに邪険に扱ったのだろう?  何故、優しく接してあげなかったのだろう?  何故、突き放したのだろう?  何故、チョコレートを受け取らなかったのだろう?  何故?  何故?

「私にはこの道しかありません」
 ある日に発した、塚原の言葉をふと思い出した。
「いつまでここに居る気やねん?」という、私の何気ない質問に、珍しく彼が感情的になって言い返したのだ。しかし、その時は、私もネガティヴな感情を爆発させてしまい、ここぞとばかりにキツい言葉を浴びせてしまった。
 今なら私にも理解出来る気がする。きっと、彼にとっての調律師という仕事は、駒田の母にとってのビール瓶の欠片のように、かけがえのない思い入れがあったのだろう。当時はそんなことにも考えが及ばず、私は彼の言葉を全否定し、彼の思いを取り上げようとしたのだ。
 多分、私は潜在意識の奥深くで、塚原のことが羨ましかったのだろう。純粋に、真剣に、命を削ってまでして取り組んでいることに。私にはない強い思いを、塚原は持っていた。そのことが羨ましくて、同時に悔しくて、受け入れられなくて、認められなくて……ついには、取り上げてやろうと試みたのだ。
 そう、今はっきり分かったが、私にはこの仕事に対して、塚原のような強い気持ちはない。継続する「目的」なんて何もない。いや、随分と前から、そんなものは無かったのだ。

 電話の向こうに聞こえた塚原の噎び泣きが、 脳裏から離れない。彼は何を思い、どれだけの勇気を振り絞り、私に電話を掛けたのだろう?  もっと、色々と話し合うべきだった。
 それに……私の方こそ、塚原に謝罪しなければいけなかった。何かがちょっと違っていだけで、ひょっとすると毎日楽しく過ごせたかもしれないのに。そう、私さえもう少し……何とか出来たはずだ。

 その夜、様々な感情が入り混じり、交差し、撹拌され、混乱した。
 どうやら、私は常に自分のことしか考えてなかったのだ。利用することを望んだくせに、利用されることは拒絶した。人のモノは欲したが、自分のモノはしまい込んだ。与えられると受取るが、与えることは拒否した。駒田に言われた言葉の一つ一つを、今になってようやく本当に理解した。
 吉岡にも、社長にも、専門学校の理事長にも、もちろん塚原にも、私は常に不誠実だった。自分にとっての損得にしか関心がなく、人が自分の為に動くことを当たり前のように思っていた。人の利益を妬んだ。自分の不利益は憎んだ。私自身は、決して人の為に何かをすることはなかったのに。
 私は、深い懺悔の念から自己嫌悪に陥り、そして、そのままベットに突っ伏した。目を閉じると、やはり塚原の泣き声が脳内を巡る。この声は、いつか消えるのだろうか?

 布団に顔を埋めたまま、私は己のエゴを呪った。そして、今更一寸の罪滅ぼしにもならないが、ただ純粋に塚原を偲んだ。
 すると、どういう訳か、涙が溢れ出し止まらなくなった。この期に及んで、あんな奴の為に泣きたくない、と意地を張る私を戒めるように、脳内に塚原の泣き声がこだまする。それはやがて旋律を帯び、私の嗚咽と妙に調和した。初めて、二人で何かを成し遂げた瞬間だ。
 その時、ふと、アイツが笑ったところを、一度も見たことがなかったことに気付いた。
 泣き声は、止みそうにない。


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