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「ブルシットジョブ」とクラウドファンディング

以前、デイビッドグレーバー「ブルシットジョブ」の感想を書きましたが、当時はブルシットジョブの醍醐味を世界にブルシットジョブが溢れてしまったことへの反省として捉える風潮があって、それへの違和感を感じて唐突に書いたものでした。

個人的には、むしろブルシットジョブが生み出されることはメリトクラシー社会を緩やかにする装置として機能しているし、ブルシットジョブがなくなって有用性と報酬が完全に一致した社会に我々は耐えられるのか?という問いについて考えることにあったと考えています。

今回はブルシットジョブに出てきた「ブルシットジョブ」「シットジョブ」「リベラルエリート」という3つの職業類型を使って別の事象について書きたいと思います。

本のおさらい

世界の職業は「有用性」と「報酬」という分析軸を使うと

「ブルシットジョブ」は社会の役に立たないけど給料は結構貰ってる
「シットジョブ」は社会の役に立っているけど給料は低い
「リベラルエリート」は社会の役に立っているし、給料も高い

の3種に分類されます。

そして、社会にとって有用な仕事を行なっていることが精神的な誇りと結びつくとすると、

・ブルシットジョブは給料こそ高いが仕事への誇りはない

・シットジョブは誇りは高いが低給料なので物質的な欲望を満たせない

・リベラルエリートは誇りも物質的欲求の充足感も高い

という状態になります。

グレーバーの主張では、リベラルエリート(社会企業家やNPO法人、医者、弁護士など)が精神的にも物質的にも満足しやすいことからその他大勢の人間から妬まれやすいということを言っています。

そのルサンチマンを収める方法として、リベラルエリート自身が、ブルシットジョブとシットジョブにそれぞれ欠けている精神的な満足と物質的な満足を満たすための媒介になっているのではないかと考えています。

ここから僕は具体的に、とある大手企業従事者がNPO法人を通じて「エッセンシャルワーカー」と呼ばれる人々に支援していたエピソードを思い起こしながら書いています。

(1)まず、リベラルエリートは金銭的なサポートが必要なシットジョブ従事者へ何らかの支援活動を行います。

(2)そしてブルシットジョブ従事者はリベラルエリートが行うクラウドファンディングなどを通じてシットジョブへのサポートとして金銭的なサポートを行います。

(3)その見返りとしてブルシットジョブは労働によって調達できない精神的な誇りを獲得します。

金銭的には余裕があるブルシットジョブから金銭的なサポートがリベラルエリートを通じてシットジョブに向かい、逆に金銭的なサポートをすることを通じてブルシットジョブは精神的な充足を得ます。(※物質的サポートはブルシットジョブからシットジョブへ直接向かう可能性もあります。)

以上はあくまでも身の回りのエピソードでしたがブルシットジョブの3プレイヤーを登場させることで一般性を含む事例として語れるかなと思いました。

お互いが欠けているものを充足しあう関係性は良いバランスだなと思う一方で、これを続ける限り、リベラルエリートやブルシットジョブは、誇りを調達する機会としてシットジョブを永遠に必要としてしまうので、子離れできない親みたいな気持ち悪さがあります。従って僕自身は若干クラウドファンディング的なものに冷ややかな態度ではあります。

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