行き当たりばったりでもいい、誰かのために生きよう
我が道を行くスタイル
小学生のころ、アルバイトしていたんですよ。
小学校低学年のとき、東京の千歳烏山と芦花公園の間あたりに住んでいて、レトロな商店街にある八百屋さんのお手伝いですね。
晩ご飯の食材を買いにおつかいにいったら、八百屋さんに犬がいて、毎日触りに行ってたら手伝わないかって声かけられたんです。
領収書のつづりにゴム印で店判を押すというのをやっていました。
一冊ぜんぶ押し終わるとおばちゃんから50円か100円くらいお駄賃もらえて、ときにはお肉屋さんでハムカツを買ってもらったりしてました。
言われてみたら当時からフリーランスですね(笑)
あと、小・中は軟式野球をやっていました。
マンションのエントランスに映る自分を見ながら素振りを1日300本やっていたら公式戦の打率が5割を超えました。
やったことの成果や積み重ねを感じられたのは野球が初めてかも。今も野球は好きですね。
高校をフラフラと過ごし、大学はテニスサークルとゼミに熱中して真剣にやりましたね。就活もゼミ合宿を優先してました。
就活を本格化しようかな、と思い始めたタイミングで内定が出た、外資系の人材サービス会社に入社しました。人と話すのは好きだし、自分でも得意と思っていたこともあって人材業界を選びました。
振り返ると、当時はほとんど何にも考えてなかったかも(笑)
新卒で配属されたのは人材派遣事業。
大学では経営情報学を専攻していて、会社は「売上よりも利益が大切」と教え込まれていました。1件の契約あたりの粗利3万円くらいだから、10件の派遣契約を決めても30万円じゃないですか。
自分の給料分ぐらいにしかならないことに驚いて、利益率のよい商材を勝手に売り歩いてました。
派遣契約獲得の成績は中の下くらい、粗利額は年間で上位に入ってましたね。紹介予定派遣は単価は高いが継続しない、上司の言うことをきかない、普通のことをしない、でも利益は稼ぐという面倒くさくて扱いにくい部下だったと思います(笑)。
波乱万丈の20代~30代
そこから別の人材サービス会社に転職。
入社1週間後の人事面談で、1年後にグループ内の別の会社と統合するので統合先に移るか、転職するかを1年で見極めてほしいと言われました。
結果として転職するという道を選びました。
とてもホワイトな環境だったのですが、まだまだ自力がついてないのに、こんなにのんびりしてていいのかなと不安に駆られたのもあって、一念発起した記憶があります。
プロフェッショナルマッチング事業の立ち上げフェーズの会社に転職して、中小企業のオーナー経営者に提案営業をしていました。
上場企業役員クラスの方が退任されたあと、顧問として中小企業の経営支援する、そのためのマッチングプラットフォーム運営、というのが事業モデルなのですが、この経営支援というのが主に「販路開拓」でした。
当時まだまだ私も若くて入社してから気づいたのですが、多くの顧問が看板を失って使えるアセットがなくなるんです。なので鶴の一声で販路が開拓される、新しい取引先が増えるなんてことは実態としてほとんどなかったんです。
そのとき、自分自身の実力・地力を磨き上げたいと強く思いましたね。
その中でも稀に「鶴の一声」を持っている顧問がいらっしゃって、その方のおかげで大口取引になりそうなアポが組めたりするケースがありました。でも、中小企業側の営業部長がネクタイぐちゃぐちゃで顧問より遅れて来ることもあって、「受け皿側の体制が整っていないのでは」と感じるようになりました。
日本は中小企業がほとんど。
いい技術を持っているのに活かせていない。
安直ですが、日本をよくするには中小企業がもっとよくなる必要があるなと感じました。
先程の「ぐちゃぐちゃのネクタイでアポにくる」というのは表出した事例のひとつです。売上がのびる、今までにないクラスの企業を紹介してもらえるのに、自分がどう立ち回ればよいのか役割を分かっていないことが問題だと感じました。
ミッションとプロセスとスタンスが重要なんです。
これを分かっていない中小企業が多いことにニーズがあると思ったのと、ちょうど色んなご縁もあり、組織開発コンサルティング事業で起業とすることにしました。
当時、中小企業の人材育成費にかなりの額の助成金が出ることもあって、中小企業に直接負担がなく、大手と取引できるような自力づくりの支援ができる良いものだと確信しましたね。
ただ、法人設立準備中に東日本大震災があったことと、政権交代で助成金がなくなってしまったことで、人材育成にお金を出せる企業がガクッと減りました。組織開発・人材育成すぐに効果が出にくい投資領域なので、徐々に案件も減っていってしまいました。
そのタイミングで、知人からIT・WEB業界のヘッドハンターとして一緒にやらないかと声がけがあって、そこにジョインして一緒に事業を大きくしていく選択をしました。
法人を経営している立場でしたので非常に悩みましたが、当時の組織コンサルのお客さんである経営者は口々に「今の若い人たちは何を考えているのか」「これからはどんな世の中になっていくのか」「例えばITとかどんな感じ?」という「若者の目線や近い未来」を知りたがっていたし、そこに全く応えられない自分がいたので、当時の先進分野に身をおくべきと決断しました。
ちょうどスマホが一般化して、3Gから4Gくらいの高速通信に変わり始めたでころだったと記憶しています。
製造業などレガシーな産業からIT・WEBに特化した人材業に飛び込んだので、当初は右も左もわからず、色んな人に教えを請いまくりました。
思い出補正もあるかもしれませんが今のベンチャーよりも非常に荒々しくて、アドテク黎明期からWEBマーケティング業界の移り変わりを眺めたり、コンサル to ベンチャーキャリアの流れのど真ん中に居たり、クライアントの上場を間近でみられたりと、激流にもまれながら非常に良い経験ができたと思っています。
その後数年が経過して、当時の仲間が家業を継がなくてはいけないということで紹介業は解散になりました。
それからペルソナジョインに至るまではフリーランスでRPOをやっていました。
当時ヘッドハンティングで繋がったお客さんに声をかけていただいたので、WEB・IT業界が多かったですね。
とあるホールディングス傘下のグループ企業に採用コンサルタントとしてガッツリと入りこんでいたのですが、ある出来事があって採用がすべてストップになりました。
ちょうどフリーランスRPOコンサルタントとしても4~5年くらいが経過しようとしていて、ひと区切りとして、3ヶ月くらい趣味の釣りだけをする放浪期間をつくろうかなと思っていました。
そんなときに、ひょんなきっかけでペルソナの代表佐野と出会うことになりました。
佐野との出会い
佐野と共通の友人から「お久しぶりです、採用支援の案件をお願いしたいのですが相談可能ですか?」と連絡があって。
前述の通り、大型のRPOの案件が終わって放浪をはじめるタイミングということもあり、案件を担当している佐野とつないでもらいました。
第一印象は気のいい好青年、という感じでしたね。
実際に会って自分の経歴を話していたら
「富田さん、めちゃくちゃもったいない。放浪とか、案件を1件ずつやるとか、フリーランスとか、そんなんじゃ日本の経済の損失だ」と言われて(笑)。
そして「一緒にやりましょうよ」と。
おだてられてることももちろん分かりながらも、そのおだて方というか、
盛り上げることに長けていて、尚且つ誠実さもあって。モチベーターとしてとても優秀だなと思いました。
才能として、人を不安にさせない、気楽にもさせない、ちゃんと責任を負わせることが天然で備わっている人なんだと思う。
解明しようとしても無理だと思う、理屈じゃなく天性だから。
初めてあったその日に、佐野の支援をフルコミットでしようと決めました。
僕のスタンスは、佐野ができないこと、知らないことを支援すること。佐野がつくりたい世界をつくる。踏み出したら危険だと思うようなことがあったらアラートを出す。そんな役割ですね。
ペルソナのこれから
個人としても会社としてもDX職種の採用支援に強みを持っていますが、要件定義含めどう進めたらよいのか困っている企業がたくさんあります。
知らない、できないという採用周りの課題感があって、そこを解決して人事が気持ちよく仕事ができるようにしたい。
これからもあらゆる組織のプロセスに常に介在して、採用の高度化に伴走していきたいですし、改めてエージェント業の価値を再定義して、採用の良い循環を生み出せたらと思っています。
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#1 ペルソナ創業の思いとこれまで
#2 ペルソナの事業や制度について
#3 若手社員から見たペルソナ
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ペルソナで働くということ
個人事業主が3年間ペルソナで過ごした結果
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