見出し画像

「遊山箱(ゆさんばこ)」に思いを馳せて


昨日のNHKあさイチで「遊山箱」が特集されていた。何気なくテレビを見ているうちに、あれ?ひょっとしてうちにもあったような?と、急に古いアルバムを引っ張り出して来た。

あった。

古い写真で申し訳ないが、1966年4月に撮られた物だ。私はたぶん2歳くらい。写り込んでいる四角い箱が遊山箱。そんな呼び名があるのは初めて知った。また、リンクにもあるように、毎年4月3日頃に子ども達だけでこの遊山箱にご馳走を詰めて里から山へ遊びに行く風習があったことも初めて知った。
父と母は徳島生まれ、私も徳島で生まれた。
だが、この写真は実は広島で撮られた物だ。たぶんこの春以前に父に転勤が命じられ、広島で暮らしていたと思われる。(記憶がない)

ただ遊山箱(我が家ではお弁当のお重と呼んでいた)は確かにあった。うっすらと記憶に残っている。確か濃い紅色で、白いウサギや桜の紋様があったように覚えている。

天気が良い花見の時などに母がこの遊山箱に巻き寿司やおにしめを入れてくれて持たせてくれていたのをぼんやりと思い出す。

私はこの遊山箱やそれにまつわる風習が徳島独特のものだと昨日まで知らなかった。
父も母も「遊山箱」とは呼ばなかったし、子ども達だけで里山に出かけた覚えもない。たぶん私は幼すぎたか、その風習が廃れつつあった頃に生まれたのだろう。

核家族の台頭や高度経済成長期の職住分離、遊山箱そのものの作り手やお料理の担い手不足、若い世代の都会への流出など様々な要因が重なって子ども達だけで里山にお出かけするこの遊山箱文化が廃れていった事は良く理解できる。

でも大正時代から昭和の中期まで続いたこのほのぼのとした子どもの為の風習はなんとも言えないノスタルジーを私に抱かせてくれる。

当時は四国は本当の意味での島であった。新幹線も飛行機も大鳴門橋もない。和歌山や大阪方面には舟で渡るしか方法がなかった時代だ。
四国4県内はおろか、徳島だけでも、河川や山に阻まれるとそこは全て遠くの集落であったに違いない。道路もそれほど整備されてはおらず、車の数も今とは考えられないほど少なかったはずだ。

そんな時代にも子ども達は各集落で皆大切に守られ、隣人達にも顔をおぼえてもらい、皆から祝福される存在であったに違いない。

子ども達だけで里山に行くのは山の神様が降りてくると信じられていたからと言ういわれもある。これは日本人ならではの神道的というか、八百万の神というか、土着的というか、とても興味深い。

私達日本人は生まれるとすぐに氏神様にお参りするお宮参りをする。その後七五三参り、毎年の秋の収穫祭、そして家を建てる、車を買う、受験に臨む、毎年の初詣、厄年は厄祓いと実はとても宗教的な行いをしている。でもそれらのイベントがあまりにも日常に組み込まれているので、私達は宗教行事という自覚がないだけだ。

そう言う意味でこの遊山箱とそれにまつわる風習はとても日本人が子どもをいかに大切に地域ぐるみで育て、見守ってきたかを証明するような大切な文化遺産のようなものだと思う。

たぶん徳島に限らず、日本のあちらこちらの地域でこのような子どもにまつわる風習や行事が沢山形を変えて存在していたのだろう。

子ども達は周りの大人たちから存分に愛されて、楽しい思いをして、神様をお迎えすると言う大切な役目を持っている。その社会を構成するメンバーとしてきちんと重宝されていたのだ。

山の神様は収穫をもたらす。その為にも子ども達の存在はとても大きかったのだろう。

子どももそうやって自身の役目を果たし、普段は家の農作業や下の子や近所の子の面倒を見たりしていたのだろう。或いは現在のように医療技術が発達していなかったので、幼くして亡くなる子も多かったに違いない。幸にして成長した子ども達はこのように毎年祝福されており、それが日常生活と地続きだと言うところがとても素晴らしく感じる。

でもそのように子どもを祝福する行事は今も形ややり方を変えて私達日本人のスピリットとして健在している。
海外の人と話していると、これほど子ども関係の行事がある国は珍しいとよく言われる。
日本は古来子どもファーストの国なのだ。

また、この「遊山箱」も昔とは違う形で、後世に継承していってほしい。

私の心の中とこのしょぼいモノクロ写真の中には確かに両親からたっぷりと受けた愛情が詰まった遊山箱がある。遊山箱は単なるお弁当箱ではない。その土地、その時代に、その地域や家族から惜しみない愛を受けた者の代弁者なのだ。

ここまでお読みいただき、ありがとうございました。


この記事が参加している募集

#ご当地グルメ

15,790件

#この街がすき

43,472件

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?