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格調高い文章っぽく書く方が自分の気持ちが乗るのです。

私は文章を書くとき、話し言葉というよりも書き言葉で、「ですます調」よりも「である調」で、少々格調高い文章に見えるように書くようにしている。不思議とその方が自分の気持ちが乗るような気がしているからだ。

私の好きな、というか気に入っている表現の1つとして、何かを強調する言葉として「大変」という副詞をよく使うことがある。

例えば、「とても立派である」と書かずに「大変立派である」とか、「超もったいない」と書かずに「大変もったいない」と書く。

普段の日常会話の中ではもうあまり出会うことが無くなったこの表現をなぜ意識的に使うようになったかというと、そのきっかけとなる出来事があったからだ。

具体的な年齢は忘れてしまったが、あれはまだ私が小学生の頃、一人で電車に乗ってピアノのレッスンに通っていた頃である。そこでは、ピアノの技術的な指導ももちろんのこと、今の私が持つ絶対音感(の一歩手前)の音感を培った音感教育、さらには楽典と言われるような、楽譜に記載されている各種の記号の意味についてなど、様々にご指導いただいていた。

あるとき、先生と楽譜によく使われる強弱記号の話になった。

先生「『f』(フォルテ)これはどういう意味ですか?」
とと「『強く』」
先生「じゃあ、『mf』(メゾ・フォルテ)これは?」
とと「『やや強く』」
先生「じゃあ、『ff』(フォルティッシモ)これは?」
とと「『とても強く』」
先生「違います!他の表現は無いかしら?」

それなりに強く否定されたので、私はびっくりしてしまった。

とと「えーと、えーと、・・・」
先生「『大変強く』です!普段『大変○○』とか言わないかしら?」

そう言われて私は、なるほどと思い、深く納得した。確かに言われれば意味は分かるし、どこかで出会ったことのある表現でもあるし、一般用語というよりも楽典にふさわしい格調高い表現でもあると思った。単純に私の脳内の語彙として使える状態に無かっただけだ。

それから以降私は、まじめな格調高い文章を書くことが求められる際は、この『大変○○』という表現を使うようになった。

そして、この表現を使うたびに、ピアノの先生とのこのやり取りのことを思い出すのである。

なぜこのエピソードが脳内に色濃く残っているのか、未だによくわからない。もしかしたら、先日も書いたように、自分がある解を正解だと思い込んでいることについて発問され、それに対して深い納得が得られるような答えを提示されたときに、感動と共に記憶に残るのかもしれない。

先生は数年前(もっと前?)にすでに御病気で亡くなられているのだが、そんな思い出が強く残っているのもどうなのだろう(もちろん他の素晴らしい記憶もたくさんあるが)。

こうした、当時にしてみればちょっとした出来事でも、現在の自分に色濃く影響を与える出来事もあるものなのである。

ちょっと応援したいな、と思ってくださったそこのあなた。その気持ちを私に届けてくれませんか。応援メッセージを、コメントかサポートにぜひよろしくお願いします。 これからも、より精神的に豊かで幸福感のある社会の一助になれるように挑戦していきます。