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博士論文は著者のこだわりをぶつけるものなのです。

昨日、人生においては自分自身の納得感が得られるかどうかが大事そうだ、ということについて書いた。

今の自分がもはやこの研究を続ける気が無くなっているのはおそらく、この「研究」というものについて既に納得感を得てしまったからではないかと思う。私は、自分なりに「何かを獲得できたという充実感」があれば、それで満足できてしまう体なのである。

それは、今の研究テーマがテーマとして完結した、という意味ではない。自分という人間が研究者(ひよっこだが)として過ごした期間に納得感がある、という意味である。

しかも、博士という学位にこだわりがあるわけでもない。

いつだか、研究室の教授が言った。

「ドクター(博士)とは、これから先、広い世界に向けて旅立つためのパスポートである。」

博士というのは、少なくとも3年間、学問研究に取り組むことを通して、自分の研究テーマについてはもちろん、研究とは何か?学問とは何か?人間とは何か?などといったことについて徹底的に考えた人間である証ではあるのだが、博士を取得したからといって、それは必ずしも何かの実力を証明するものではない。あくまで、これから先の人生での行き先を増やすための1つの証明書に過ぎないのである。

このパスポートを持って、私は一体何がしたいのか?
正直に言えば、別に特にやりたいことはない。

そんな気持ちでいるのになぜ進学することにしたかと言えば、その理由は自分でもわかっている。

私が「不満足をなくす」タイプの人間だからである。

つまり、「博士が取りたい」という気持ちというよりは、「博士を持っていれば、いつか役に立つときが来るかもしれない」とか、「『博士の学位を持っていないとできないこと』ができなくなることが嫌だ」とか思って、進学したに過ぎないのである。

あぁ、なんと消極的な理由だろうか。自分で振り返ってみても、決して胸を張れた理由ではない。

確かに正当化することはいくらでもできる。

ここで長い時間学んだからこそ、仮説検証サイクルの適用性に開眼し、愛とは何かについて自分なりに理解し、自分がやっていることの意味や社会的な意義を問うことの重要性にも気づくことができた。

大事なのは、あることに挑戦して成功するかどうかではない。
金を稼ぐことでも、他者から褒められることでもない。

自分で自分のやったことや学んだことに納得できるかどうかが大事なのだ。

だから、自分が納得できていないことを納得いく形になるまで取り組む、これが自分にとって大事なことなのではないか。

そしてその納得感というのは、他者に決められることではなく、自分自身のただのこだわりに過ぎない。

そのこだわるポイントは、おそらく他人とは違うだろう。

しかし、そのポイントが人と違うからこそ面白いのだ。

研究室の教授によれば、博士論文にはそういう著者のこだわりが宿るらしい。

今現在獲得したことにそれなりに満足してしまっている自分が、一体どんなこだわりを博士論文にぶつけることができるのか。

わからないながらも、頑張って取り組んでいきたいと思う。

ちょっと応援したいな、と思ってくださったそこのあなた。その気持ちを私に届けてくれませんか。応援メッセージを、コメントかサポートにぜひよろしくお願いします。 これからも、より精神的に豊かで幸福感のある社会の一助になれるように挑戦していきます。