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精神性が高い人間は自分の感情にフタをしてしまうのです。

以前、「自分には欲があまりない」ということを書いた。

そのことについて、自分の感覚と似たような感覚や思考を持っている人はいないかなぁと思っていろいろと探していたら、自分自身の性質とかなりフィットしていると思える記事を見つけた。

少し長くなるが、その中での説明の一部を引用しながら書いていく。

欲がない「ネガティブを嫌がる人」:幸もなければ不幸もない状態。あえて求める意識的な欲がなく、感情もない(自覚と表現がない)特徴があります。あえて求める欲は「自分を自分で喜ばす」ではなく、「自分で自分の不満足をなくす」という特徴です。優先度の低い欲に意識を向けず、その分を自分に不満足をなくす目的のために全部使うイメージです。満足を求める訳ではなく、不満足がない状態を欲し、満たしや喜びを求めません。

上記ブログより抜粋

今まで自分の力ではうまく言語化できていなかった感覚が、「不満足をなくす」という言葉で表現されている。

何か明示的に理解できる欲を求めているとか、自分にとってプラスの状況を生み出したいというよりは、「嫌なことをしたくない」「納得いかないことをしたくない」「悪い影響を受けたくない」のように、ネガティブな状況をニュートラルに持っていく方向に働く欲なのだと思う。

そういう感覚は、確かに今までの自分とも合致している。

子どもの頃から、自分が好きになれない人に対しては、喧嘩して意見を通すよりも、距離を取って干渉しないことで自分への影響が無いようにしていた。

数年前の読書欲が生まれたのは、自分にとって足りない知識がありすぎることに気づいたから、それを取り返すためだった。

そして今は、漠然とした閉塞感と共に今後ほぼ確実に沈みゆく現代日本に対して不安感を抱き、そこからのネガティブな影響をなるべく受けたくない、という感覚が常にある。

では、そういう「不満足をなくす」ような欲が表れるのはなぜなのだろうか?

欲がない人の原因:ネガティブを嫌がることを目的にすると、「自分を邪魔しないで」という目的になり、「誰も何もしてこないで欲しい」という悲痛の叫びになります。この欲の持ち方はとても特徴的で、一般的ではないために周囲からは欲だと認識されず、自分自身でも欲だと認識しません。自らを主体にする人間性がありながら主体的にできず、他の情報を基に生きる価値観や観念はほとんど幼少期に植え付けられます。我慢できる人、特に小さな頃に自分を抑え付けて耐えられる人は精神的な成熟があり、他からの影響・干渉を飲み込めてしまいます。主体性があるのに主体性を抑え付けられても我慢できてしまうので、違和感を感じないように自らを誤魔化すこともできてしまいます。しかし、主体性と精神性の高い人間性は消えないため、「自分が納得できるようにしたい」という目的を無意識に持ちながらも観念がそのための行動を止め、欲だと認識しないようになります。

同上

今年の1月頃に読んだ心理学の本を元に行った自己分析からもわかったように、自分が本来持っていた「主体性」「精神性」と、幼少期の体験が、やはりこの観念を生み出し、かつ欲の少ない自分自身の性質を作り上げたようなのである。

自分自身は人より精神的に我慢強いとか、文句を言わずに待てるとか、そういう性質があったということは自負しているが、それが返って自分自身のことを抑えつけ過ぎてしまっているのだということがよくわかった。

では、そういう人間として生きていく上で、より生きやすく生きるためにできることは無いのだろうか?

欲がない人に大切なこと:欲がない人は、・・・自らを抑えて他者を優先したり、自らを卑下して期待をしなかったりと、目的を持たないことで自らの心が傷つかないようにする自己防衛意識が高まり、不満足にならない目的が無意識に構築されていき、満足する以上に諦めや期待しないこと、飽きたり他の影響を少なくする生活環境になっていきます。この心理には抑圧されたことで作られた観念と、苦にならないと誤魔化せるほど我慢できてしまう精神性の高さが考えられるため、自分と他の区分け意識が大切です。無理矢理に好きなことややりたいことを見つける必要はなく、まずは自分自身を把握する作業です。重要なのが感情と本音表現です。我慢癖は本音も真意も隠してしまうので、鍵となるのは自分が本当に言いたかったこと、表したかったことを隠したか認めたかの自覚です。表現して外に出し、感情の認知を増やしていくと自分の感情が明らかになり、欲がある気づきへと繋がります。(その抑圧が)解放される時、才能と能力が本当に発揮されるご自身を垣間見ることとなります。こうなると幸せじゃない訳がありません。欲がない人のまま、自らを認知して発揮できる人は、幸福悟り人に近い状態です。

同上

私には「感情」が無いことがコンプレックスだった。

一般の人々の感情の平均の少しポジティブ側の気持ちを常に保ち、身の回りで何かが起きたとしても感情の起伏が小さい方の人間だった。

だから、周りの人の感情に寄り添ったり、共感するのが苦手だった。どうしてもドライに見てしまうのだ。

そのことを私は、「人間的感性の不足」と見て、これまで様々な経験を通して少しずつ身につけてきたと思っている。

しかし、その捉え方は正確ではなかった。

おそらく、私にも感情はあるのだ。自分の精神性や感情を抑え込む無意識的な抑圧が大きすぎて、その感情を自分で自覚できていないだけなのだろう。

だから私に必要なことは、本当の自分の感情に気づくことだ。
そして、その本音を表現することを恐れずに外に出すことだ。

思い返せば、このブログも、せっかく書くのなら私の本当に思うことを吐露しよう、と思って始めたのだ。1年前に比べれば、自分の思っていることをかなり表現できるようにはなってきているとは思うが、それでもまだ私の精神性には打ち克てていないと感じる。

これからは、より自分自身が何を思っているのか、自分の心の声と感情に耳を傾けて、それを言語化するようなクセをつけていきたい。

それが、私にとって自分自身の人間性を乗り越えるための最初のステップなのである。

ちょっと応援したいな、と思ってくださったそこのあなた。その気持ちを私に届けてくれませんか。応援メッセージを、コメントかサポートにぜひよろしくお願いします。 これからも、より精神的に豊かで幸福感のある社会の一助になれるように挑戦していきます。