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7/1金:教育の第一段階には洗脳を。

久しぶりに、自分がちょこちょこと溜めていた「いつか書きたいことリスト」の中から文章を書いてみようと思う。

あるタイトルには、こう書いてあった。

「教育とは、洗脳である。」

こんなおどろおどろしいタイトルのブログを書く人間もなかなか少ないだろうと思うが、なぜこう思うに至ったかを書いてみようと思う。

ここで想定している教育というのは、思考の型を与えるような教育のことである。

相手に何か1つの思考法を身に着けさせるためには、徹底的にその思考法を使わせて思考の型を相手の中に形成する必要がある。

例えば、私の専門分野でもある「リスク学」で言えば、その思考法を一言で言えば「目的思考」である。すなわち、世の中に存在するリスクを分析するのに、これまた世の中に存在するリスク分析手法をただ使うのではなく、まず何よりも先にリスク分析を実施する目的を設定し、その目的を達成できるような仕方でリスクを分析するのである。

だから、目的によってはいくつかの手法を組み合わせたり、別の新たな手法を考え出さなければならない場合もある。とにかく、リスクという概念をうまく使いこなすためには、目的が最重要なのである。

こうした目的思考は、私がこの研究室に入って徹底的に先生方にそう問われてきたからこそ身についたものである。そして、その思考法は、その先生が言うことに洗脳されるほどにクセづかなければ身につかない。

その思考法を無事に身に着けて免許皆伝になったときには、その型を大きく壊して次のステージに進む必要があるが、まず第一にその道の思考の型を身に付けなければ、そこを破って新たな創造をすることもできないのである。

世の中の大発見やイノベーションというのは、全く新しい発見というよりもむしろ、元あった何がしかを徹底的に突き詰めた結果得られることが多い。
多くの場合は、そのイノベーションはそれが得られるまでの過去の知見に大いに依拠しているのである。

こうした観点から、「教育とは洗脳である」と考えるに至ったのである。

ただし、もう少し正確に言えば、「教育の『第一段階は』洗脳である」ということになるだろう。その第一段階を終えて免許皆伝した人間には、次の第二段階として、その洗脳を自分自身の力で抜け出し、新たな思考法を獲得する必要があるのだ。

私は、修士1年のときに1回目の免許皆伝を迎えた、というなんとなくの実感がある。

それまでは、自分自身の育ってきた環境の影響もあり、どちらかというと左翼的思想をよりどころにして生きてきた。しかし、修士1年で様々な本を読むようになって、自分自身の圧倒的な視野の狭さが身に染みてわかった。それを期に、これまで拠り所にしてきた左翼的思想に基づく自身の思考の世界観に対して、急激に違和感を持つようになった。今まで自分が信じて生きてきた価値観が、もしかしたら間違いだったのかもしれない、そんな思いに駆られたのである。

これは、先の話と照らせば、ある種の洗脳によって形成された思考の型を外的に破壊されたことにより、免許皆伝となって新たな第二段階を迎えたと捉えることができるだろう。

その後しばらくは、この捉えどころのない不安への答えがどこかにあるのではないか、という一心で、興味の赴くままにひたすらに本を読み続けた。結果的に、その時期は人生で一番読書した時期となった。

そして、今私の中に形成されている思考は、国家や人間集団の左右対立というのは、人間という生物種が持っている二面性に大きく依拠しているのではないか、という勝手な発見から、そうした本質的矛盾や対立を、常にうまくバランスしながら社会を運営していくしかない、というバランス論である。ここまで到達できたのは、先述の思考の型の破壊と免許皆伝があったからである。

しかし、今現在到達した思考の型もまた、破壊と免許皆伝をしなければならない時期に来ているのではないか、と思う。バランス論に留まるのではなく、その対立を乗り越えた第三の道を模索するという思考と意識である。私のこれから先の人生においては、そうした能動性が求められるのだと思う。

話が長くなってきてしまったが、人が何かの思考法を本気で身に着ける、あるいは身に着けさせるためには、第一段階として自分を洗脳するくらい、相手を洗脳させるくらい徹底的にその思考法を練習しなければならない。それが無ければ、次の段階への扉が開かないのである。

とはいえ、やはり「教育」と一口に言っても色々な考えを持つ人がいるだろう。私の頭の中でも、教育というものが何か1つの形態に収斂しているわけではない。

私が身に着けた「目的思考」で考えれば、教育とは、目的にはなり得ない。人に何かを教える、人を育てるという営みは、そこに何らかの目的があり、それを達成するための方法論に過ぎないのである。したがって、教育とは目的に応じて色々な形態があってしかるべきなのだ。

私は以前、教育とは何かを教え込むことではなく、生き様を見せることだ、と書いた。

この「生き様を見せる」教育は、まさに、生き方を教えるようなことを考えたときの教育である。それは、口で、言葉でとやかく言って伝わるものではない。長い時間をかけてやっと伝わるものでもあるし、教わる側の教わろうとする姿勢にも関わるものだから、教える側がコントロールできる問題でもないのである。

教育を考えるときにも、まず目的を明確にし、それを達成するためにはどのような方法論を取るのが最も望ましいのかをその都度考えなければならないのだ。


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