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人を頼るという感覚を知ったのです。

(昨日の続き)

深夜1:20。山小屋を出発し、暗闇の中をヘッドライトをつけて進む。

道中は昨日の路面の傾向と同じように、少々手を使わないと登れないときもあるような岩場が続いていた。今つけているヘッドライトはレンタル品だったが、自分の想像していた以上に明るく、手元や足元を照らしてくれることによって比較的安心感がある。

その一方で、寝起きからの頭痛がずっと続く中、おそらく酸素不足になっているであろう重たい脳みそを連れて歩いていると、徐々に意識は朦朧としてくる。立っていられないほどではないが、ほとんど無意識で歩を進めている感覚だ。

その感覚は、そう、乗り物酔いの状態で吐きそうになるのを我慢している感覚に似ている。

私は小学生の頃、ピアノのレッスンに通うために毎週電車に乗っていたが、ほぼ毎回のように酔って嘔吐していた(もちろんエチケット袋に、である)。

余りにもその回数が多いので、いつの間にか乗り物酔いで嘔吐を我慢するやり方を無意識に身につけていたのだが、それがまさか富士登山のタイミングで役に立つとは思わなかった。

そんな中でも、不意に後方を振り返ると、夜空に煌めく星の数々と、眼下の山梨県の街の夜景が目に入ってきて、少し心が軽くなるような気がする。

途中の山小屋の周辺で休憩を取ることになって、近くに置いてあったしっかりしていそうなドラム缶に腰かけた。

自分のコンディションがあまりにも悪かったので、メンバーの1人が余りの頭痛薬を与えてくれたのだが、その頭痛薬が、本来は錠剤状態だったものがパッケージの中で粉々になってしまったものだった。

そのメンバーの名誉のために言っておくと、これは決して私に対する嫌がらせではない。本当は他にもキレイな錠剤状態を保っていたものが複数あったらしいのだが、それらは他のメンバーが既に服用してしまって、最後に残ったこれは誰かに渡すのは悪いと思って残っていたらしかった。

たとえ粉々だったとしても薬効が失われるわけではないと信じて、それらをありがたくいただいて服用した。

この一連のできごとを振り返って考えると、「もしかして、自然に人を頼ることができていたかも」、と思った。

私は、基本的に人を頼らず、何でもかんでも自分でやろうとする傾向を持つ人間だ。それもあって、他者からは、人を信頼しない人間であるとみられることもある。

しかし、こういう自分のコンディションが悪かったり、自分に余裕が無い状況になったときには、私も自然と周りの人を頼ることができるんだ、ということは、自分にとっての発見だった。(それはほんの小さなことで、例えば「水筒を持っていてほしい」とか、その程度ことだ。そういうことすらもあまり言い出そうと思えない人間なのだ、私は。)

その後、薬が効くまでのそれなりに長い時間、ひたすらに岩場を進み続けた。

(続く)

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