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7/12火:人との対話には理解と共感の違いを。

私は、人の気持ちを理解するのが苦手だと思って生きてきた。

先日の織姫と彦星の話でも書いたように、基本的に私は人の気持ちに寄り添うということをあまりしない人間である。

しかし、よくよく考えてみると、必ずしも人の気持ちがわからないというわけではないのかもしれない、と考えるに至った。

相手の考えや気持ちを理解しようとすることには、大きく分けて2つの段階がある。

1つ目は、相手の考えや気持ちを正しく理解する、という段階だ。まずは相手が何を考えているのか、どういう気持ちなのか、その様子を観察したり、話に耳を傾けたりしながら、相手のことを推し量り、理解する段階だ。

そして2つ目は、相手の考えや気持ちを正しく理解した上で、それに納得したり、共感したりするかどうか、という段階だ。

このように考えた場合、1つ目の段階までは、聞き手の努力次第で必ず到達できるのではないか、と思う。その上で、2つ目の段階の共感に至るかどうかは、その人の価値観次第で決まるのではないか。

上記に照らして私の性質はどのように理解されるかというと、1つ目の段階については比較的よくできるように感じる。それは、相手の発言をよく聞いて、その意味内容を徹底的に理解しようとするクセがあるからだ。

一方で、相手と同じ気持ちになるのは難しいと感じる。むしろ、その気持ちも客観的に理解して、喜びに対しては「よかったね」と、悲しみに対しては「そうなんだ」と、悩みに対しては「(客観的には)こうだからこうしたら?」と、比較的ドライに対応してしまう。

だから、私が苦手なのは、人の気持ちを理解することではなく、人の気持ちに共感して同じ気持ちを共有することだった。

相手の考えや気持ちを理解することはできる。しかし、その考えや気持ちそのものに共感するかどうかはまた別の話であり、私は特に共感しづらい人間なのだろうと思う。

これが、「相手を理解する」ことと、「相手に共感する」ことの違いだ。

相手に共感できた方が人間的には素晴らしいとは思うのだが、これはもう私の性質だから仕方がないと思っている。

むしろ私が伝えたいのは、「相手を理解する」ことは、自分の努力次第で誰でも可能だということだ。

そして、それを諦めずに対話をすることこそがコミュニケーションにおいて最も重要だとすら思っている。きちんと対話の限りを尽くして、お互いの価値観が異なることがわかれば、必要以上にぶつかる必要もなくなるのだ。

だから、人の話を聞かない人に言いたい。
まずはきちんとお互いの話を聞こうではないか。
話はそれからだ。

ちょっと応援したいな、と思ってくださったそこのあなた。その気持ちを私に届けてくれませんか。応援メッセージを、コメントかサポートにぜひよろしくお願いします。 これからも、より精神的に豊かで幸福感のある社会の一助になれるように挑戦していきます。