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7/7木:織姫と彦星には自律心を。

今日は七夕だ、ということに、日付を入力してから気づいた。

まだ純粋だった遠い昔のあの頃は、無邪気に短冊に願い事を書いていたような気もするが、その無邪気さを失ったのも、私は周りの人よりも早かったような記憶がある。どうせこんな短冊に書いたところで願いなど叶わない、最終的には自分が叶えようと頑張るかどうかだろ、と思っていた。

正直に言えば、初詣で毎年神様にご挨拶し、何かをお願いする人々の感覚も未だに全く理解できない。神頼みする前に、まず自分が頑張らないと、と思ってしまうのだ。(もちろん、いよいよ神頼みが必要になるくらい頑張っている人もいるだろう。)

まぁ今思えば、短冊に願いを書くという行為は、その願いが叶うように、というよりもむしろ、そのとき自分が何を願っているのかを自分で認識するために書いていたのだろうな、と思う。

七夕の話に戻ると、例の織姫と彦星の話なんて、もう全く頭の片隅にも無かったけれど、よく考えてみると、どういう話だったのか全く記憶にない。

そこで、織姫と彦星の伝説について改めて読み直すために、国立天文台のサイトを見た。

ざっくりとした内容を書くと、神様の娘として真面目に働いていた織姫に全く出会いが無いことを憂いた神様が、真面目な青年だった彦星を織姫に引き合わせることにしたら、結婚した2人が想像以上に仲良くなってしまい、仕事を全くしなくなったので無理やり引き離し、真面目に仕事もする代わりに1年に1回だけ会うことを許した、という話だった。

勝手なイメージで、何だか素敵な恋愛をした話なのだろうと思っていたら、結構な部分が神様の都合で決められている話だったのか、と思ってちょっと幻滅した。

神様のご厚意によって2人が出会うことができた、というのは確かにそうなのだが、それによって仕事が回らなくなったからと言って2人を引き離すというのは、少々勝手が過ぎるのではないか、神様のお節介が招いた結果ではないか、と思ってしまった。

これは一体どう理解すればよい話なのだろうか。

子どもたちへの教訓的メッセージとして理解するなら、恋人と遊んで過ごすだけじゃなくて、きちんと真面目に仕事もしなさいよ、ということなのかもしれない。

また別の観点で考えると、元々真面目だった人にもやはり色欲というものはあって、その発露には抗いきれないということへの戒めとも捉えられる。

さらに言えば、そもそも織姫や彦星がもっと自律的に交際相手を探しに行っていれば、神様のお節介などなくても、自らの力で、自らが思うタイミングで会えるような交際相手と巡り会えたかもしれないのである。

こうした物語の捉え方は人によって異なり、多面的であって良いのだと思うが、その捉え方には、その人の人間性や今考えていることが色濃く反映されるものだ。

ここまで書いてきた内容を振り返ると、私はやはり自立心・独立心が強い人間であり、物事を客観的に見る人間なのだろうと思う。自立・自律することに価値を置き、何かに頼ることはあまりない。そして、織姫や彦星の気持ちに寄り添うことなど全くせずに、客観的に、むしろ神様の立場を戒めるようなものの見方すらしている。

そういう自分とも、うまく付き合っていかなければならない。

しかし、ここ数年間の学びにより、こういう自分の性質も自分で自覚し、相手の気持ちに愛を持って寄り添ったり、仲間を増やしてコミュニティを作り、その中で一緒に何かをやることの価値にも改めて気づいたりした。

そういう学びを積み重ねながらこの後も生きていきたい。

最後になるが、国立天文台のサイトでのその後の解説が面白かった。

織姫と彦星、それぞれに該当する2つの恒星(ベガとアルタイル)は、実際には約14.4光年離れており、本当に移動するとしたら、たとえ光のスピードであったとしても1年に1回会うことなどできないらしい。

こういう伝説やフィクションの話について、客観的・科学的に捉えようとする視点に、私も共感してしまうなぁとつい思った。

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