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たまに、大声で泣く。

本当はこれで、本当はこのままで何もかも素晴らしいのに。
(風に吹かれて エレファントカシマシ)


なぜか、定期的にエレカシに泣かされる。


たとえばCDを全て揃えてます、とか、ライブには必ず行きます、といったようなガチンコファンではないので、こんなところででかい声でいう話ではないんだろうけど、それが今日だった。

スポティファイでランダム再生された「風に吹かれて」の一節で、不意にブワッときてしまった。

この経験は実は二度目である。
一度目は、朝の情報番組にエレカシが生出演したとき。
その時は「俺たちの明日」だった。
この歌は知っていたし、ラジオなどでも耳にしていたし、なぜ今?って感じなんだけれど、ダムの決壊みたいにダラダラ涙が出た。
困る、もう仕事に行かなきゃいけないのに。

がんばろうぜ、って、ものっすごいシンプルなメッセージなのに、これは一体どうしたことなのだろう。
ともすれば、は〜?アタシ、もう頑張ってんですけどぉって感情にもなりかねないはずなのに、もうしみしみのおでん大根みたいな浸透圧で、わたしの心に一瞬で染み込んだ。
がんばろうぜ、って言葉の裏に、アンタ頑張ってきたんだよ、という称賛のメッセージがあるからだろうか。
これがエレカシの力か。

そして二度目が「風に吹かれて」である。

さよならさ
今日の日を
昨日までの優しさを
手を振って旅立とうぜ
いつもの風に吹かれて

春だからかしら、さよなら匂わせソングが心にクリティカルヒットしたのは。

わたしは今、ちょっとだけ風が冷たい春の朝、国立駅のホームで謎に泣いています。
全部、「本当は何もかも素晴らしい」のに、なんだか足りない部分があって、やっぱりまだまだ先まで歩かなきゃいけないのです。

考えてみれば、いつだってエレカシは、未来の希望を歌っている。
エレカシよ、全然普段追ってないのに定期的にこんな気持ちにさせてくれてありがとう。
久しぶりに泣いたわ。




普段はそんなに意識してないのに、ときどき、何かのスイッチで涙がどばどば出るのは、心の奥に小さな痛みの塊があるからだろうか。

普段は、顔を出さないその塊は、確かに心の中にあって、たまに何かのきっかけではじけて、ツボ押しされたみたいに鈍くて深い痛みが走る。
実際の経験による痛みもあるけど、本質的にはたぶんもっと奥のほうにある遺伝子レベルの感情。
涙を流すことによってそれは少し昇華する。

わたしの場合はエレカシだが、引き金は人それぞれで、映画のワンシーンかもしれないし、一枚の絵かもしれないし、誰かの一言かもしれないし、なんなら誰かの体温とか、肉体の重みなのかもしれない。

この「痛み」は、誰かと近しいものはあったとしても、本当のところは自分にしかわからない、自分だけのアイデンティティになりうる。
人間に色があるとすれば、一滴の暗い色の絵具を垂らすことで出る「深み」みたいなことなんだと思う。

◇◇

動物とか、子どもとか、老人とか、人によって涙腺刺激ポイントは違うと思うんだけど、わたしはことさら老人モノに弱い。
一番初めに、自分の心の中にそういうスイッチがあると知ったのは小学一年生の時だ。
幽遊白書コミックス1巻目で、おじいちゃんとタヌキ(ガンコで嫌われ者のおじいちゃんに助けてもらったタヌキが孫に化けて会いに来る的な話だった気がする)が出てくる読み切りがあって、わたしは生まれてはじめて自分のことではないことで号泣した。

エレカシ大号泣はその感情と近い。
しかし、最近は、「はじめてのおつかい」でももれなく泣く。こうなるともはや誰に感情移入しているのかわからない。

人が急に大号泣しているのを見ると、無条件に好きになってしまう。痛みを持った人が好きだなあと思ってしまうのは、その痛みに人間としての可愛らしさを感じてしまうからなのか。これも遺伝子レベルの話なのだろうか。


よくわからないが、涙はもうとまったので
また1週間コツコツ働こうと思う。




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