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あの時の家族はもういないけれど、

2021年は、自分なりの「家族」の解釈を決めて向き合う一年にしたいと心の中でひっそり思っている。

かぞく、って何だろう。
わたしはまだ、自分で家族というものを作ったことがない。
なので、わたしの純粋な家族は、自分が生まれて育った場所に居た人々だ。
父方の祖父、祖母(二人はもう亡くなった)、父、母、姉、弟の7人家族。
今だにわたしのなかの「家族」はここからアップデートされていない。

実際のところは、年月を重ね、所属している一人一人に変化があり、そのたびにかぞくの形態は変わりつづけてきた。
減りもしたし、増えもした。
子どもたちそれぞれが実家を離れ、新しい家を作りはじめたことで「純正」家族の輪郭は、少しずつあやふやになっていったように思う。


そう考えると、わたしが生まれ育った家は、本当の意味ではもうない。
23年間くらい子どもとして暮らしたその場所には、今は姪っ子や甥っ子たちのおもちゃや絵本や衣服が散らばっていて、なんだかもう別の場所のようなのだ。

✳︎


うちは、父母共に学校のセンセーという共働き家庭で、家で過ごす時間はおじいちゃんおばあちゃんに面倒を見てもらっていたから、幼い頃からかなりのジジババっ子だった。

当時は鍵っ子の友だちも多かったけど、いつ帰っても家には祖父母がいた。
いつも人の気配があったから寂しいと思うようなことはほぼなかったように思う。

両親はいつも忙しく、あまり子を構う気質でもなかったので、大人になり、何となく大丈夫な感じ(穴はいっぱいあるけど決定的ではないと信じている)で生きていけているのは、祖父母二人のおかげだと心から思っている。

祖父はわたしが幼稚園の頃、若いママたちに混ざって毎日送り迎えをしてくれた。
「◯◯ちゃんのお母さんはチャーミングやなァ」などとわたしにこっそり言ってくるくらいには同級生のママたちにしっかり馴染んでいたように思う。

遠足などの行事ごとにもいつも付き添ってくれた。
山の中で活発にターザンごっこをする友達に混ざらず、もくもくと一人でどんぐりを拾い続けるわたしをそばでずっと見ていた。
わたしの後頭部がポコッとでっぱっているのを「知恵袋があるから賢くなる」と言って、よくなでてくれたのも覚えている。
(ちなみに知恵袋は今はびっくりするくらいしぼんでいる)

うちのなかで起きた初めの変化は、そんな祖父が小6の時に亡くなったことだった。

なんだかんだ祖母はやはりさびしそうで、わたしたち孫3人は今までよりさらに祖母べったりになった。
父も母もそれを良しとしていたから、うちはいつもおばあちゃんを中心に回っていた。

父や母に怒られると、いつも祖母が「まあまあ」と助け舟を出してくれたし、家出をして近所の公園でボーッとしていると迎えにきてくれるのはきまって祖母だった。
門限を破って洒落にならないくらい父と喧嘩をし、ご飯抜き(波平さんみたいな親)にされた日には、意地を張って何も食べないわたしに夜中にこっそりおにぎりを握ってくれた。


祖母は行事ごとをとても大切にする人でもあった。
お正月は、せまい団地(実家)に総勢20人以上親戚が集まって手づくりのお節を食べ、節分は豆と一緒にお菓子を撒き(子どもは這いつくばってそれを拾う)、年に1回だけ春にみんなで温泉に行った。
祖母が作ってくれた季節ごとのかぞくの決まりは今もわたしたちきょうだいの核にある気がする。


おばあちゃんが死んだのは3年前。
97歳という超大往生で、家族に見守られて家で亡くなった。
わたしだけがその瞬間に間に合わなかった。
本当のことをいえば、弱っていく祖母を見るのが苦痛でしかたなかったから、これは自分が招いた結果かもしれない。

何度も言うとばかみたいだけど、
わたしはおばあちゃんが死んだらまじで世界が終わると思っていた。
困ったときはいつもドラえもんを呼ぶのび太みたいに祖母に甘えていた。
今だってくじけそうな時は、心の中でおばあちゃん、やばいよ助けてーと念じたりしている。

✳︎✳︎


祖母が亡くなったとき、誰よりも大きな声で泣いたのは母だった。


母と祖母は外側から見たら仲が良い方だったけれど、やっぱり嫁と姑の関係だったからわたしたちには悟られないよう母なりに常に祖母に気を遣って暮らしていたように思う。

だからなのか、わたしたちが祖母に懐くほど、自分は子どもと距離を置いているようなところがあった。
フルタイムで働き、そのあいだ子どもの面倒を見てくれる祖母の手前、帰ったら家事をきっちりやらなくては、といつもキリキリしていた。
幼い頃、母とゆっくり何かをしたり、話をした記憶があまりない。

亡くなる2ヶ月前、祖母が一気に弱り、自宅介護になった時、母はつきっきりで身の回りのことをしていた。
意識が混濁して、夜に奇声をあげたり、一人ではもうトイレにもいけなくなった祖母の横に毎晩布団を敷き、細切れに眠る。


反対に、日に日に弱っていく祖母を見て、父はすごく動揺していた。たぶん父もわたしと同じ気持ちだったんだろうと思う。
おばあちゃんがいなくなったら世界が終わる、と思い込んでいる、初めて見る顔だった。

母は強かった。
「死」という文字がかなりの濃さでちらつき始めた頃、自分のことはほっぽりだして取り憑かれたみたいに祖母のそばにいた。

タールのような便が出始めて、こうなると本当にもう死が近いとネットで読んだ時、わたしは体が固まったみたいになって、どうしていいのかわからなかった。
母はひるまず、祖母を抱えておむつを変えた。
何も食べられなくなり、ゆっくりと死んでいく祖母の口元に水を含ませたガーゼをせっせとあて続けた。水さえ飲んでくれればまだ生きていてくれる。

そんな母の姿に血のつながりっていったい何だろう、と思った。
これまで、母を少し下に見ていた父の態度が変わったようにも見えた。

家族の前で実はあまり感情を出してこなかった母がわんわん泣いたあの日、どんな気持ちだったんだろう。
何十年もかけて積み重ねた「かぞくのかたち」がきれいに壊れた瞬間だった。

わたしたちが安穏にただ子どもでいられたあの家には、他の家と同じような親子の甘ったるい愛情表現などは皆無だったけれど、
たったひとりだけヨソのうちからやってきた母が「かぞく」という体裁を必死で守っていたことがわかった瞬間でもあった。

そこから母はとても自由になった気がする。

✳︎✳︎✳︎

わたしたちが正しいと信じていた「かぞく」の枠から離れた母は、今、とても楽しそうだ。
姉や弟の子どもたちの面倒を気ままに見ながら「やっとちゃんと子育てしてるわ」と言っている。

おいおい〜、わたしらはいったい何やったんや〜と思うが、でも、まあいいかとも思う。


真夜中に、ここまでながながと書いてやっと少しわかった。
わたしは自分の「かぞく」がとても好きだ。
家族というものが苦手だとずっと思いこんでいたけど、わたしはわたしが大好きだった場所が変わっていってしまうのが単純に悲しかったのだと思う。


何さ、みんな好き勝手に変わってさ。
わたしだけ置いていってさ。
子どものわたしが端っこの方で拗ねている。
もう迎えに来てくれるおばあちゃんもいなくなってしまったから、さびしくてねじくれて、宙ぶらりんのまま、自分からどんどん遠ざかってしまったけど、今でもあの安心の場所に戻りたくて仕方がないのだ。
あのかたちが完璧なのに、わたしが新しく作るなんて嫌だったんだよなぁ。
だけど、変化したからこそよかったこともある。
かぞくは新しくなっていくものだ。
わたしだけがそこにじっと立ち止まっていただけで。



そういえばこのあいだ、弟から、弟の娘を抱いてにこにこしている母の写真が送られてきた。

ちょっとだけわたしの小さな頃に似ている姪っ子を嬉しそうに抱っこする母の顔を、わたしは知っていた。
もうこの世のどこにも存在しない、わたしとわたしのかぞくはちゃんとしあわせだった。
その証拠みたいな写真だった。

もう、大丈夫なのかもしれない。
わたしはわたしの温かいおうちを作ろう。
まずは「ひとりかぞく」からはじめよう。

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