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ツルツルとした床の上で 同一性と多様性について


読むとは、「自分の物語」を紡ぐことではないか。

人は、自分の関心、共感のある箇所に自然と焦点があう。だから、読んだ物語について語ることは、自分を語ることでもある。

’ゴッホとtea’さんには、親しくしているイギリス人のチャットフレンドがいる。彼女のnoteに初めて出会ったとき「この彼とはどういう関係かな」と興味を惹きつけられ次々と記事を読んだ。

イギリス人の彼との出会いがあり、気持ちの揺れがあり、彼の複雑さがある。

「恋人」ではなく、かといって「フレンド」とも言い切れない微妙な関係のよう。

日本の文脈を共有するもの同士だといろんなことが「スムーズに」伝わるけど、イギリス人の彼とはそうではない。

彼と話すことは、’ゴッホとtea’さんに、もどかしさを感じさせる。

例えば「自分はホストにハマるようなタイプではない」と彼に言った時のエピソード。「ホストにハマるタイプ」というのがどんな人のことを指すのか彼にはピンとこない。

異なるバックグラウンドを持つ人との違和感は、彼女の日常の中にある。

「文脈」は、秩序を保つが、排他的でもある。

コンテクストによって支えられたツルツルの床の上を歩きながら「同じ」を大事にする時でも、はみ出してくるものがある。

「ジミー」を読んだ’ゴッホとtea’さんは、「社会派」の恋愛小説と言った。

そう。「ジミー」を、「日本」についての話と読むことも可能かもしれない。

もっとも、学校も会社も家庭もグループも、コンテクストによって支えられる想像上の「ストーリー」であって、国という単位だけを特別視できない。

私たちは、そんなものの寄せ集めの上にいて、それをしっかりした基盤と信じ踊ることも可能だけど。


「内側」と「外側」を分ける(実在しない)境界。

無自覚に行使される(根拠のない)暴力。


異なるバックグラウンドを持つ編入生が、自らを「ジミー」と名乗ることから、物語は始まる。

読みの視点には、その人らしさが出る。気づかずに「あなた」を語っている。

だから、それは素敵で面白い。もっと教えて欲しい、と思う↓


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