ツルツルとした床の上で 同一性と多様性について
読むとは、「自分の物語」を紡ぐことではないか。
人は、自分の関心、共感のある箇所に自然と焦点があう。だから、読んだ物語について語ることは、自分を語ることでもある。
*
’ゴッホとtea’さんには、親しくしているイギリス人のチャットフレンドがいる。彼女のnoteに初めて出会ったとき「この彼とはどういう関係かな」と興味を惹きつけられ次々と記事を読んだ。
イギリス人の彼との出会いがあり、気持ちの揺れがあり、彼の複雑さがある。
「恋人」ではなく、かといって「フレンド」とも言い切れない微妙な関係のよう。
日本の文脈を共有するもの同士だといろんなことが「スムーズに」伝わるけど、イギリス人の彼とはそうではない。
彼と話すことは、’ゴッホとtea’さんに、もどかしさを感じさせる。
例えば「自分はホストにハマるようなタイプではない」と彼に言った時のエピソード。「ホストにハマるタイプ」というのがどんな人のことを指すのか彼にはピンとこない。
異なるバックグラウンドを持つ人との違和感は、彼女の日常の中にある。
*
「文脈」は、秩序を保つが、排他的でもある。
コンテクストによって支えられたツルツルの床の上を歩きながら「同じ」を大事にする時でも、はみ出してくるものがある。
「ジミー」を読んだ’ゴッホとtea’さんは、「社会派」の恋愛小説と言った。
そう。「ジミー」を、「日本」についての話と読むことも可能かもしれない。
もっとも、学校も会社も家庭もグループも、コンテクストによって支えられる想像上の「ストーリー」であって、国という単位だけを特別視できない。
私たちは、そんなものの寄せ集めの上にいて、それをしっかりした基盤と信じ踊ることも可能だけど。
「内側」と「外側」を分ける(実在しない)境界。
無自覚に行使される(根拠のない)暴力。
異なるバックグラウンドを持つ編入生が、自らを「ジミー」と名乗ることから、物語は始まる。
*
読みの視点には、その人らしさが出る。気づかずに「あなた」を語っている。
だから、それは素敵で面白い。もっと教えて欲しい、と思う↓
いつもありがとうございます。いま、クンダリーニヨガのトライアルを無料でお受けしているのでよかったらご検討ください。