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ご近所バース?柳瀬博一さん(東工大教授)のお話から

「ご近所バース」(柳瀬博一さん、平野友康さん)の講座、すごくよかった!「蜃気楼大学」でのものだ。とてもすばらしかったので、ぜひ多くの人に見てほしい。

キーワードは、環世界、カワセミ、ご近所、コロナ禍、流域、地形、生き物、見立て、世界の発見、見ること、身体など。

平野さんが聞き手となり、解説をつけたりいい質問をしてくださったので、柳瀬さんの頭のなかが垣間見えるような気になる。そして、1時間半、知的に刺激されまくりで、「得しちゃったな」となる。

私が個人的に興味をもったところをメモ代わりに書いておく。柳瀬さんがおっしゃたこととの一部と、そこから私が刺激されて考えたことだ。(私の思考は・・・のあと)

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・「環世界」ー生き物は、感覚器を入力として、それにあわせて世界が見える。つまり己の見える世界をつくる。だから、私たちのいる世界とは、(私たちの見えないものも含まれて存在していて)すでに「バース」なのだ。

・コロナ禍によって、多くの人たちは、「身体」か「ご近所」に目を向けるようになった。

・・・遠くに行けないことによって、身近なものに目を向けるというのは、生き物としての人間が、遠くに伸びることが止められたときに近くに目を向けることによって「環世界」を広げるということか。広げるという「運動」が生き物にとって本質的なものかもしれない。

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・柳瀬氏は、「見立て」こそが、AIにはできないことであるという。
・・・生き物は感覚器から入力することで、その世界観に基づいて動くわけだが(人間も)、AIの入力は、他の生き物(人間)に頼ることになる。
この場合の「手足がない」は、物理的な話でなく、「ここにいって情報を仕入れよう」という「見立て」がないことだ。「意志がない」というのは、そう考えると、異様で不気味なものだ。意志はないのに作業だけあるのだから。

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・「見立て」と芸術ー柳瀬氏は、赤瀬川原平氏の「トマソン」を例に、人がどのように認識を広げるかということを示す

・・・物語とは、痕跡と空白との間を埋めようとする「運動」ではないだろうか。

物語の元は、よく「イマジネーションだ」といわれ、ふわふわした空想をもとにしているように聞こえるけれど、私の実感でいえば、まったく身体的な作業である。

書かれることは、身体のなかにあり、書くことも読むことも、身体を通してしか行われないし、それは、伝播させるための素朴で身体的な行為であると思う。

AIは、できあがった「物語」をいくらでも作ることができるのだけれど、「物語を立ち上げる」という「行為」はできないだろう。「トマソンのようなもの」はつくれるけど「トマソン」はつくれない。

物語に感動が埋め込まれているとすれば、私は、そこに「身体」という、今ここにある、物理的に制約された「物体」と関係するような気がするのだ。
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物語は二次的なもので、私は、「伝播する」ということが本質的だと思っている。だから、心が震えることも、もしかしたら、「トマソンのようなもの」には宿っていないのかもしれない。

頭ではなく、身体に「物語」は埋め込まれており、同時に、作家と読者の「身体」がなければ、そもそも物語が伝播しない。それは、感覚の話であり、AIには、感覚はないのだ。

どちらにしても、今ここにある、私たちを束縛する、生命条件の「身体」が、重要なものであると思うのだ。

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・講座では「自分一人称だけになっていくとつまらない」というようなことをおっしゃっていた。

・・柳瀬氏の『親父の納棺』で父親の手を握り返すというシーンを思い出す。「受容体」として自分を立ち上げるときに、語りえないものからの何かを受け取ることとなり、死者から握り返される「自分」は、それを感覚器として入力している。

自分からではなく、死者(他者)である父親からの物語を「受け取る」感覚。そのような繊細で受容的な、感覚器としてのあり方が、私たちに問われているのではないか。

それは、AIにはできない、人間としてのあり方のようなものであり、人間中心で「主体」こそが重要だと推し進めてきた近代社会とは違う意味での、新しい人間のあり方であると思う。

それが私たちを、ディストピアに向かわせるか、豊かな世界に向かわせるかを、分けるような気がする。

何を入力するかは、AIではなく、私たちが決めるのだから。

身体がある、私たちが。

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というわけで、本当に素晴らしかった! 今、まさに聞きたいような話があった。書籍もいいけれど、こうやって、柳瀬さんが、まさにいま考えていることの一端を知ることができてすごく貴重だった。

それはそうと、終わったあと、柳瀬さんと写真をとった(自慢笑)。
実は、これだけでも「行ってよかったな」と思った。

私たちが記念写真をとりたい理由とは、一緒に同じ場所にいるということの奇跡を感じるからでないかと思う。




私たちは、生き物で、身体に縛られている。それは、限界ではある。

だけど、私は、同時に、それでこそ、その時間に、同じ場所にいるということを「奇跡」として感じることができるのだとも思うのだ。

身体ということ。

「ご近所バース」の講座は、私にとって、ずっと、そのことの話だった。


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柳瀬博一さん(東京工業大学教授)の著書↓


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