【紫陽花と太陽・下】第五話 修学旅行3
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車窓から見える景色はどこも秋一色だった。僕の住んでいる小さな街を出てすぐは家々と大小さまざまな建物が連なり、秋めいたものは見えなかったが、だんだんと木々が多くなってイチョウやら紅葉やらの葉の色が目に飛び込んでくるようになった。
僕は普段あまりお出かけというものをしないので、久々の遠出に胸がドキドキした。子供のように窓の外をずっと見ていたら、
「遼くん、もうずーっと景色ばっかり見てるな。なんだか子供みたいだね」
と縁田さんに言われてしまった。少しむくれる。僕は確かに未成年ではあるが小さな子供ではない。
隣に座った縁田さんが、前の座席の背もたれに備え付けられたテーブルに置いてあるマグボトルをぐびりと飲んだ。朝に自分で淹れたという熱々の珈琲が入っていると言っていた。ペットボトルや缶の珈琲は飲まないのかと尋ねると、急いでいる時は買うけれどたいていは自分で淹れたものを持参する、と言っていた。
マグボトルは僕も持参していた。僕はと言うと、飲み頃のほうじ茶を入れてきた。
「珈琲を入れてくるという発想はなかったです……」
水筒やマグボトルには、お茶を。そうずっと固定概念で十七年生きてきたが、珈琲を入れてもいいのか。わざわざ自分で淹れるだなんて、ちょっとこだわっている感じがしてかっこいいと思った。
「前に遼くんと会ったのが、もう一年半も前になるなんてなぁ……」
「確かに、すごい時間経つの、早いですね」
「あっという間だなぁ……」
縁田さんが呟いて、もう一口珈琲を啜る。
今日の早朝、僕と縁田さんは連れ立って電車に乗り、京都を目指していた。
外を歩くとけっこう寒くなってきたので、僕は明るい茶色のダッフルコートを着て来ていた。開けっぱなしの前から黒い布がチラリと見え隠れする。縁田さんは上質そうな灰色の厚手のジャケットを羽織り、中に濃い灰色のタートルネックのニットを着ていた。遠目から見たら親子かと思うかもしれない。
電車が秋の中を飛ぶように走っていく。
◇
「あずさ、体調はどう?」
もうすぐ風呂の時間というタイミングで、さくらが心配そうに私に尋ねた。
「大丈夫だ。一緒に……入ってくれるか?」
「もちろん」
「日向は? さっきから姿が見えないが……」
「トイレ行ってるよー」
同じクラスメイトで一年生からの付き合いの、さくらと日向。私の初めての友達だ。あ、遼介と剛も友達という枠ではあるので、初めての「女の」友達だ。
彼女らは私の過去の一部を知っている数少ない人間だ。私は小さい頃、家の跡継ぎのため男として育てられてきた。だから口調が他の女のような柔らかいものにはならなかった。慣れとは恐ろしいもので、厳格な父に叩き込まれた男言葉を(まるで勇ましい騎士を彷彿とさせる)自分でちっとも変えることができないでいた。さくらと日向は気にしないでいてくれた。優しさに甘えてしまう。
私は普通の育てられ方をしてこなかった。家族旅行などというものは一切してこないまま中学生になってしまった。家族の団らん、というものもなかった。遼介の家のテレビで時々出てくる、シチューやスープのコマーシャルのような場面は、私の人生の中では考えられない出来事だった。
旅行をしたことがなかったので、今日の修学旅行のような、大浴場で同性と皆一様に風呂に入るということは恐怖でしかなかった。他人に裸を晒す? 皆何とも思わないのだろうか? どうして楽しそうに風呂へ歩いて行くのだろうか。
中学二年生の宿泊学習や三年生の修学旅行では、結局私だけシャワーを借りてしのいだ。大浴場に歩こうとすると、脂汗が出て呼吸がおかしくなり、しまいには座り込んでしまうのだ。
遼介にはものすごく迷惑をかけてしまった。行事という行事でバタバタと倒れる私を彼がいつも介抱し、別部屋で私が落ち着くまでそばにいてくれたのだった……。
私は拳を作り、反対の手で着替えセットが入ったエコバッグを握りしめた。
「行くぞ」
今回こそは遼介がいなくても、一人で対処してやる。さくらと日向も一緒にいてくれるのだ。倒れて家に連絡などという事態は絶対に阻止しなければならない。
「あ、日向おかえり」
「ただいま。……あずさ、気合すごいね。ただの風呂だよ?」
「分かっている」
私はずんずんと大股で大浴場に向かった。日々私の親衛隊だと自称するさくらと日向が、くすくす笑いながら隣で見守ってくれた。
* * *
「あー! 気持ちよかったぁー!」
「だねー。あずさ、すごいじゃん。倒れないで入れたよ!」
「……」
のぼせて倒れるのを防ぐため、ペットボトルの常温の水を飲む。ペットボトルの蓋だって遼介がいなくても開けられるようになったのだ。こくこくと喉を鳴らして水を飲んだ。少し冷たくて気持ちが良かった。
「……ありがとう。二人がいてくれたおかげで、無事に完遂した」
「おおげさだよ」
「私はむしろ眼福だったから」
眼福? キョトンとして日向を見た。日向がニヤッと笑って私の肩をポンポン叩いた。
「あずさのプロポーションがむちゃくちゃすごくて、やぁー羨ましいなって思ったよ」
「分かるわー。胸とか、サイズ何カップなのさ?」
「カップ?」
「下着類、どこで買ってるの? 遼介くんと一緒に買うの?」
私は小首を傾げた。日用品、食材以外の買い物は、未だに百合さんに電話をして買い出しに出ている。
どうやらカップとは胸のサイズらしいと判明した。アンダーとトップの差。私はまた一つ知らないことを知った。下着は下着専門店で百合さんの指導の元、店員さんに試着室でサイズを測られ買っている。昔買ったものと同じ種類で、成長に合ったものに買い替えているだけだ。新しく買ったら古いものを捨てる。下着の総枚数は変わらない。
それにしても、前に遼介と一緒の旅行で大浴場を経験しておいて良かった。入浴に際しての約束事のプレートも確認できたし、身体を洗う場所で他の人の動きも(こっそりとだが)見て、ある程度の予想も立てられた。
今日は本番を無事完遂できた。大丈夫、少しずつ、やれることは増えてきている。
「やっぱりさ、遼介くんに触られてると、胸って大きくなるのかね?」
「さくらぁー、じゃあうちらは自分で触らんと大きくならんよねぇー」
私はさくらの言葉に固まった。顔から火が出るほど、いや実際火を吹いているのではないかというほど、かーっと熱くなってしまった。手から着替えセットが入ったエコバッグが落ちて、ペットボトルが転がってしまった。
「ななななな、なにを、さくらは……」
「あはは、図星だ。いいなぁ、羨ましいなぁ」
「さくら、その辺にしておかないと。さすがのあずさも怒るって」
「……」
涙目になってエコバッグを拾った。触られたことはあるのだ。さくらだって、前にお付き合いしている人とそういうことはしていたと言っていたのに(最近別れたらしい)。悪意で言っているわけではない。こんな時にどう返したらいいのだろうか。
私には、まだまだ未知のことがたくさんありすぎる……。
◇
スマホのメールを眺めながら、俺は呟いた。
「嘘だろ?」
隣で俺の呟きを聞きつけた同じグループの翔がくるりとこちらを向いた。
「どうした?」
「いや……友達が……」
そう言って、再度スマホの画面を見た。三回も見た。文面はやはり同じだ。
俺はとりあえず返信は保留にして、翔に話してみた。
「俺らの最後の自由行動って美術館だったよな」
「そうだよ」
「午前中だったよな」
「ああ」
「それって、何か後で調べたことを報告とかすんだっけ?」
「模造紙にまとめるまではしなくても、口頭のプレゼンで少しは話すんじゃね?」
「じゃあ……」
美術館の入場チケットは『グループ全員分はなくてもかまわない』ということになる。提出しないからだ。修学旅行はただの楽しい旅行じゃない。修学するために後々グループごとに報告する作業が待っている。実にめんどくさい。
「一人、ボイコットしてもばれねぇかもな」
ボソリと俺は呟いた。え、と翔が耳ざとく反応する。
「もしかして、さっきのメール、彼女?」
「ちがう。友達だ」
「女友達だ」
「ちげぇって」
男子高校生の会話なんて、こんなもんだ。普通ではない遼介との会話はこういう風にはならない。もっと重く、人生観を揺るがすような相談だったり報告ばっかりだ。
俺はしばらく無言で悩んだ。考える時の癖で、額に手を当てた。
翔が急に押し黙った俺を見て続きを待っているのが分かる。
俺はざっと頭の中で作戦を立て、抜け落ちてそうな箇所は後でこじつけをするとして、翔に声をかけた。
「翔」
「何だよ」
「ひとつ、協力してほしいことがある」
メールは、遼介からの頼みだった。普段人に頼みごとをしない奴からの頼み。これには俺一人では対処できない。協力してくれる奴らが必要だ。
(つづく)
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