【紫陽花と太陽・下】第四話 修学旅行1
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「……んっ……」
静かな夜に、あずささんの声が小さく漏れ出た。
お付き合いし始めてからの日課で夜におやすみなさいのキスをしている。初めはものすごく緊張して毎度崖から飛び降りるくらいの心構えでしていた日課が、今ではだいぶ慣れてきたかと思う。
「おやすみ……あずささん」
「……おやすみ、遼介」
囁くのは、隣の部屋で起きているかもしれない椿に聞こえないようにするためだ。小学二年生とはいえ、同じクラスに付き合っている(!)男女がいると言っていた僕の幼い妹。最近の子どもはませているのか、それとも僕が小さかった頃はまるで興味がなくて気が付かなかっただけなのか、とにかく聞こえないように気を付けるに越したことはない。
頬を赤らめてぼうっと僕を見つめるあずささんがかわいすぎて、つい何度もキスをしてしまう。怖くならないように、がっつかないように。細心の注意を払って。
「……あと、一回、してほしい」
耳元で囁かれた。理性が吹っ飛びそうだ。
これが最後だ、と愛する気持ちを存分に込めて、おやすみなさいのキスをした。
朝六時。ふあぁ、と大あくびをしながらいつものように台所に立つ。
昔ほど早起きをしなくても朝の準備がなんとかなるようになった。ただ、これもいつかはまた変わっていくのだろう。桐華姉の出産予定日は十一月の中旬だ。初産なので出産日が早いのか遅いのかまったく予想が付かない。まぁそれは経産婦でも同じか。どちらにせよ、赤ちゃんが無事産まれたら朝の準備も今までとは変わっていくのだろう。それもまたどうにかやっていくしかない。
だいぶ前、あずささんが産前産後のママの本を買ってきた。相変わらずの勉強家だ。
僕と二人でその本を交互に読んだ。少し先の時期に始まる離乳食のこともちらっと読んだ。きっと離乳食を作るのは僕たちだと思っているからだ。
赤ちゃんの沐浴、オムツ替え、ミルクの作り方、などなど、事前に知っておいて損はない。あずささんは未知のことに対してはきっちり知識を仕入れる。桐華姉は当たって砕けろだ。僕は……姉みたいに当たって砕けてしまっては元も子もないと思っているので(命がかかっているし)、両者の良いところをうまく取って、のらりくらりやっていく。
あずささんは、今、高校二年生の十一月。
大多数の高校生にとっては楽しみでしかない行事である「修学旅行」が控えていた。
五泊六日という中学校の同じ行事よりも長い日程で行われるそれは、あずささんが最も苦手とする集団生活かつ学校行事だ。今回は、中学の時と違って僕は一緒の学校ではない。ましてや僕は社会人で学生ですらない。万が一体調不良で倒れてしまったら現地に行くまでにも時間がかかるし助けに行くことが難しい。
そこで僕とあずささんは予行演習をすることにしたのだ。
* * *
季節は遡り、七月頃。
「ひろまささん、ちょっと、ご相談があるのですが……」
桐華姉に聞かれないように、こっそりと僕とあずささんはひろまささんを呼び出した。
優しいひろまささんは穏やかな微笑を浮かべながらすぐに応じてくれた。場所は僕たちの部屋。机の上に資料を広げてある。
「どうしたんだい? 改まって」
「そんな大したことではないのですが……」
僕は机の上にある旅行雑誌と、なんだか我が家の話し合いの時によく登場するA4書類も一緒にひろまささんに見せながら、
「実は、僕とあずささんで旅行に行きたいんです」
と言った。
ひろまささんは目を丸くした。
「日程は一泊二日で、僕の休み希望はこれから取ります。一応候補日がこの日かこの日……なんですが、ひろまささんたちのご都合が悪ければ別日を検討します。僕たちがいない日の夜ごはんと朝ごはんは前もって作ってタッパーに入れておきますので、食べる前に温め直してもらえばすぐに召し上がることができます」
「すごいな」
「いえ、わがままを言っているのはこちらなので」
僕とあずささんは二人きりの旅行を計画していた。当初は修学旅行の行き先である京都を検討していたが、やはり遠いので移動に時間がかかってしまう。長旅はあずささんが慣れてからでもいいと思ったので、近場で温泉がある宿泊先を探した。
温泉、それは大浴場があるということで、僕たちはあずささんが一人でも大浴場を利用できるようになるため、そういう宿泊先を選んだ。学校行事はおろか旅行すら人生で体験したことのないあずささんにとって、大浴場は恐ろしい場所だった。中学校の行事では大浴場は結局精神的な面で利用することができず、個別にシャワーを借りて乗り切った。今回は慣れ親しんだ友達がいるので大丈夫だとは思うんだけど……。
「そうか……。修学旅行の練習で、か」
「はい。同性の友達がいるので、昔ほど不安はないと思ってはいます」
あずささんが控えめに説明した。
「なるほどね。日程は後でカレンダーを見るけど、たぶんこの日で大丈夫だと思うよ。あとは桐華への説明かな?」
「それもありますが、実は他にもお願いがあるんです」
「何かな」
僕はひろまささん相手だとここまでスムーズに進むことにびっくりしてしまう。桐華姉への説明は今から胃が痛くなるほど気が乗らない作業だ。ただ、今のこれは昔梨枝姉に助言してもらったネマワシとして、外堀から埋めていこうという作戦だ。
「ホテルの宿泊予約がどうしても僕たちだけでは取れないんです」
お金はある。働いて貯めたから何も問題はない。
問題は、僕たちが未成年だということ。未成年は予約が取れなかった。保護者の同意書の提出が必要とのことだった。
「これが、予約時に必要な同意書です」
前もって宿泊先に電話で問い合わせて取り寄せた書類をひろまささんに見せた。
ひろまささんがなぜか苦笑して言った。
「分かったよ。すごいね、ここまでもうやっちゃうんだね」
「?」
ひろまささんが同意書と宿泊先のホームページをスマホで確認しながら、頷いた。
「保護者とありますが、父はいませんし、僕にとって義理の兄でも大丈夫かどうかまでは、さすがにまだ確認してませんが……」
「あ、こんばんは。少しお伺いしたいことがありまして、お電話しました」
僕が言い淀んでいる途中で、すぐにひろまささんがどこかに電話をかけた。話を隣で聞いている感じだとどうやら宿泊先のホテルに電話をしているようだ。サラサラと流暢にいくつか確認をし、頷いて、再度確認を経て、ひろまささんは電話を切った。
「予約取れるよ。今、確認したから」
僕たちは目を丸くした。すごい、こんなに早く決まるなんて。
日程だけは後で確認するとして、予約はネット上でできるらしい。
「備考欄、というところに、電話で確認済みということと同意書持参って書けばいいから、と先方は言っていたよ」
突然ビジネスマンのひろまささんが現れて、きっと職場でもこうやってテキパキと仕事をしているんだと思って驚いた。かっこいいなぁと思った。
「ところで……」
羨望の眼差しで僕がひろまささんを見ていると、やがて彼はニヤリと笑って聞いてきた。
「実際のところ、お二人は付き合っているのかな?」
その後僕が何をどう説明したのかは忘れてしまった。旅行の目的はあずささんの修学旅行の予行演習だと言ったはずなのに。心の裏側……下心? 本音? が見えてしまっていたということか?
遼介くんたちが桐華へ伝えた時のフォローをどうしたらいいかなと思ってね、などとひろまささんはしれっと答えていた。大浴場の練習だけなら近所の銭湯でもいいのでは? と思ったんだと言っていた。わざわざ一泊する理由はどうしてか。
それはやっぱり、一日中誰にも遠慮せずあずささんと一緒にいたいからだ。
この家でお付き合いとなると、確かに朝も夜も寝食を共にしているが家族の目もある。おおっぴらにいちゃいちゃはできない。僕だって人間だし、いちゃいちゃしたい。
僕が三白眼でひろまささんを睨んでいると、ぶっと吹き出した彼が、分かりました、と呟いた。
……一体、何が、どう分かったのだろうか。
数日後、桐華姉への説明は意外にも反対されなかった。これもひろまささんの魔法なのだろうか? 僕とあずささんはかなり緊張していたけど、はぁと詰めていた息を吐き出した。
「……私、星を見たいと思ったんです。その、夜に外を出歩いたことがなかったので……。父や兄からは禁止されていましたし、怖かったのもあります。……この旅行では隣に遼介もいますので、安心して星を見れたらいいなぁって思ったんです」
あずささんの言い訳(?)は効果絶大だった。いちゃいちゃの「い」の字もない。というか、そういうことを考えているのは僕だけで、あずささんは本心から予行演習と星を見たいと思っているのかもしれない。
僕は自分のあさましい気持ちを呪った。
「素敵ね。そう、今まで星を見てこなかったのね、考えてみたらそうよね。大丈夫、遼介がいるからたくさん見て旅行を楽しんできてちょうだい! こっちのことは大丈夫だから!」
桐華姉が拳を握りしめてあずささんを激励した。それから僕の方をキッと見やり、言う。
「あんた、しっかりあずさちゃんを守りなさいよ! 星が見たいって言ってるんだから、星が良く見える場所くらいちゃんと下調べしておきなさいよ! それから場所までの地図もちゃんと準備しておきなさいね! あんたすぐ迷子になるんだから。迷子センターで呼び出しなんてされたら結局あずさちゃんが大変なことになるんだからね‼︎」
「いつの話をしてるんだよ……」
「お出かけっていったら迷子になってたじゃないの! あずさちゃん、昔ね、同じ年だっていうのに剛くんに迷子センターまで迎えに来てもらって泣きながら戻ったことがあってね……」
「うわぁぁぁ、そんな話、もう昔の話だって‼︎」
「うるさいわね! あんたも剛くんくらいしっかりしてもらわないと、いつまでもあずさちゃんに助けてもらってばっかりじゃ、そのうち愛想尽かされてこの家を出てっちゃうからね‼︎」
「……ひどい」
ひどい。いくらなんでもひどい言われようだ。
隣のあずささんをちらりと見ると、口に手を当てて肩をふるわせて笑っている。
……まぁいいか。桐華姉のこの口ぶりだと僕たちが深い仲ということは微塵にも思っていないようだ。あずささんが笑っているなら、もうそれだけで、十分だ。
そんなわけで、無事、僕とあずささんは近場の温泉旅行を堪能したのだった。
(つづく)
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