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【連載小説】14. 仕方ないけど / あの頃咲いたはずなのに

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 千雅はひとりグラウンドを走っていた。何を目標に走っているのかはわからないが、ただただ走り続けている。
 千雅を挟むように、左右には線が引かれており、その線は遥か遠くまで延びていた。
 息が切れる、体が重くなる、ふと今までの単身赴任を思い出した。
 三年間の単身赴任がもうすぐ終わりを迎える。前例のないアミューズメントパークの建設。
もがいて、苦しんで、落ち込んでばかりだった。何一つわからない状態で、上司と部下との板挟みになり、どうにか円滑に進められるよう、少ない知識を足でカバーし続けていた。
 どうせ報われないと思っていた仕事も三年間というゴールがあったからこそ、乳酸が蓄積した足を動かし続けることが出来た。振り返ると今までの自分を少し肯定できた。
目線をあげると、さっきまで見えなかったものが見えるようになっていた。
 世那と蒼唯だ。二人がこっちに向かって手を振っている。
あそこがゴールだ、あそこまでたどり着けば、この生活も終わるのだ。
 もう少し、もう少しで世那と蒼唯のそばにいられる。
 たとえ一人だとしても最後まで走り続けるのだ、ゴールで待っている家族のために。
どんなに転んでも、傷を負っても、めげずに走り続けるんだ。
 ただ、思いとは裏腹に体は言うことを聞かなくなる。
 右足の靴が脱げ、バランスを崩し、真正面から大胆に転倒する。膝が赤く染まっていく。痛みと苦しみ、恥ずかしさでなかなか起き上がれない。

「百瀬、頑張れー!」
「百瀬さん頑張ってくださいー!」
 左側から声が聞こえる。声の先を見ると、所長と岸の姿があった。膝の痛みも、すっと引いていく、疲れて乾ききった体が潤っていく、そして目から溢れ出す。
 頑張りを見てくれている人がいる、ひとりじゃないんだ。
 東京に来て初めての感覚だ。もしかしたら、目の前にあったが、見過ごしていただけなのかもしれない。体が軽くなっていく。次第に声援が水を打ったように広がっていく。散々罵られた職人、やる気を出していなかった横井と飯田。穿った目でしか見たことなかった面々が、千雅だけを見つめて声援をかける。
 優しく温かい風となり、千雅の心を撫でた。そして、涙となり溢れていく。
 溢れた涙で前が見えなくなった。拭っても、拭っても涙が視界をぼやけさせる。
 傷だらけの体にムチをいれ、両手で体重を支えながら、どうにか立ち上がる。涙があふれて止まらない。変わらず声援がこだまする。
 深呼吸をして気持ちを落ち着かせ、強く目を拭い、視界を開いて、前を見た。
 そこにはもうゴールが無かった。
 すぐそこに、たしかにそこにあったはず。ゴールには、世那と蒼唯が手を振って待っていた。
 ゴールどころか二人の姿もどこにも見当たらない。ただただ終わりのない道が続いていた。
 この道はどこまで続くのだろうか、見当もつかない。

「百瀬、頑張れー!」
「百瀬さん、頑張ってくださいー!」
 引き続き声援が鼓膜を揺らす。
 途端に、意味が変わってきたような気がする。応援なのだろうか。
 何のために走っているのだろうか。
 懸命に走るランナーではなく、まるで回し車を走り続けるハムスターのようだ。
 回し車に終わりなんてあるわけがない。
 ただ、応援されている以上、立ちすくむわけにも行かなかった。
 膝の痛みがどんどん増していく。乳酸が蘇り、体が重くなる。めげずに一歩踏み出し、また走り始めた。ゴールを見据えていた時のペースはまだ取り戻せないが、一歩一歩着実に。
 沿道の声援を通り過ぎる。声援が少しずつ遠ざかっていき、次第に声が聞こえなくなった。気づけばまた一人だ。
 不安と痛みがさらに押し寄せてくる。
 すがるように後ろを振り向く。
 そこにはもう誰もいなかった。
前方に広がる、誰ひとりいないゴールの無い長い道のりと同じ景色が後方にも広がっていた。
 孤独だ、結局孤独だ。何のために走っているのだろう。ただ、止まったら何もかもが終わってしまう。この何も無い世界に取り残されるのだ。もう少し走れば、また世那と蒼唯が見えるのかもしれない。だから、止まれないんだ。痛みとともに一歩ずつ着実に、道標もなく走り続ける。
 すると、何やら人影が見えた。「もしかして」
 千雅は再びスピードをあげた。
 痛みを堪え、がむしゃらに、確かに見えた人影に向かって走り続けた。

 その姿を捉えそうになったところで、千雅は目が覚めた。
 枕には、寝汗が染み込み、Tシャツも汗まみれになっていた。   
 単なる夢に過ぎない。夢だ。夢だよ。うん、夢。
 言い聞かせるように頭の中で唱えるも、どうしても心まで届かない。
 あの人影は世那と蒼唯なのだろうか。そうだと信じて走り続けるしかない。
 カーテンの隙間から差し込んだ陽の光が、昨晩片付け損ねたカップラーメンを照らした。

*****

 千雅が帰ってくる週末も、蒼唯は一日中部活だった。
 そのため、家族での時間は夕飯のみだった。

「蒼唯、バスケの調子はどうだ?」
「んー、普通かな」
 蒼唯は部活に疲れたのか、淡々とご飯を頬張る。千雅は蒼唯の淡白な返事に少しおののいた。
「お父さんは、仕事忙しいの?」
 蒼唯が千雅を見て尋ねた。いつのまにか「パパ」ではなく、「お父さん」と呼ぶようになっていた。
「うん、結構忙しいね。ごめんな、あまり帰れてなくて」
「良いよ、全然。でもお母さん大変そうだから、早く帰ってきてね」
 蒼唯は、世那の大変さにも目を配れるほど大きくなっていて、家族旅行で観覧車に乗ったときの姿は、すっかり影を潜めていた。千雅は、単身赴任での失った時間の大きさを改めて実感した。
 自分の食器を自分で洗い、明日も朝早くから部活のため、蒼唯は早々に寝床についた。
 千雅と世那はソファに腰掛け、バラエティ番組を見た。世那はドラマに変えようともしなかった。

「あのさ」
 千雅が神妙な面持ちで切り出す。世那はリモコンを持ちテレビに視線を向けたまま、「ん?」と返事をする。
「単身赴任、延びるかもしれない」
 世那がすぐに千雅を見る。
「今回の案件までっていう予定だったんだけど、新たに美術館建設の案件が入ったらしく、これがまた大規模で、かつ統括できるメンバーが俺以外にいないみたいでさ。家族もあるからできれば戻りたいという話をしたんだけど、この案件までどうにかいてほしい、栄転だからもう少し頑張れないかって言われて。この単身赴任の三年間、大変なことばっかりだったけど、その分誰かに必要とされたり、感謝されることが嬉しくて仕方なくて。次の案件まで頑張れば、何倍にもして返すからもう少し頑張ってもいいかな?」
「期間はどれくらいなの?」
 世那はテレビから視線を外そうとしなかった。
「四年。過去の案件と比べても規模が大きくて」
 世那は息が少し荒くなった。
「ずるいよ、そんなの。もう答え決まってるじゃん。私がダメって言ったら、ひっくり返せるの? 無理でしょ。言いたいことは山ほどあるけど、どうせ無理なんでしょ。言ったとしても千ちゃんのストレスになるだけで、何一つ未来は変わらない。そんなのずるい。事後報告と一緒だよ」

 世那は、感情と理性の間で揺れ動き、溢れ出る言葉を必死に選んだ。
 家族の笑顔は見たくないの?
 家族に感謝されたくないの?
 私の立場になって考えてよ
 単身赴任が明けたら私に自由をくれるって言ったじゃん
 感情的に溢れ出てくる言葉たちは、放ったところで全てブーメランになって自分に返ってくる。そんなことは目に見えていた。
 「じゃあ皆東京に引っ越そうか」と言えるほど、蒼唯はもう小さくなかった。勉強も部活も楽しそうにしていて、友達にも囲まれている。それらを奪うことは出来なかった。
 栄転だからこそ、反対すれば私が悪者扱いだ。こんなことなら左遷であってほしかった。「辞めて帰ってきなよ」って笑顔で言えただろう。仕事を辞めても、蒼唯を養えるお金はちゃんと作れるのだろうか。そんな悩みよりも一緒に過ごせる嬉しさが勝っていた気がする。
それほど今の世那は、家族愛に飢えていた。心の支えが近くに欲しかった。
そんな弱さも、母としての自覚が立ちはだかる。

「ごめん」
 千雅が頭をさげて謝る。なかなか顔をあげようとしない。
「謝らないで。顔上げて。謝られると私が悪いことしたみたい」
「ごめん」
「だから、謝らないでってば」
 強い口調で謝ることを止める。千雅は、反射的に謝りそうになる。
「頑張った成果じゃん、栄転なんでしょ。凄いことだよ、さすが千ちゃん」
 世那は千雅に腕を絡ませ、身を寄せた。残り少ない力を振り絞って、妻としての役目を全うしようとした。千雅は世那の頭を撫でた。「ごめん」という言葉しか浮かばなかったのか、何も言葉は発しなかった。

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読書が苦手だったからこそ、読みやすい文章を目指して日々励んでいます。もし気になる方がいらっしゃいましたら、何卒宜しくお願い致します。