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【連載小説】1. 二人と観覧車 / あの頃咲いたはずなのに

 まだ太陽は東寄りに位置している。

 住み慣れた街から車で二時間半。遠く離れた場所で、千雅(かずまさ)と世那(せな)は観覧車に乗っていた。前後のゴンドラには誰も乗っていないが、無邪気にじりじりと降り注ぐ陽の光が閑散さを一掃していた。
 千雅も世那もなかなか口を開こうとしない。ゴンドラ内は分厚い雲に覆われているように、どんよりと重苦しい空気が流れていた。

 大学三年生の財布の紐は、決してゆるくない。千雅はこの旅行のために、居酒屋のアルバイトの夜勤の回数を増やし、必死にお金を稼いだ。
 せっかくの旅行。不愉快な時間など、一秒たりとも作りたくはなかったが、その道中、静まり返った車内に耐え難い居心地の悪さを感じた。自分の心にはあまりにも指紋がついていなかった。

「あのさ」

 千雅が目線を落としたまま口火を切った。世那は、「ん?」と小さく返事をする。

「言いたいことあるならいいなよ、不満でもあるんでしょ」
観覧車の密閉された二人だけの空間が、普段は蓋をし、平常心を保っていた千雅の気持ちを放出させた。

 会話をしても、目を合わせても、プレゼントをしても世那の心には手が届かない。世那の心の周りには、隙間なくピンと膜が張り巡らされているようで、どんなに力を込めても、思いは全て自分の足元に跳ね返される。

 いつからこうなってしまったのだろうか。

 雲行きの悪さを自覚すると、千雅は、負けじと自らの心を膜で覆った。これ見よがしに連絡を無視してみたり、一緒にいる時間でもそっけなく返事をしてみた。報復心を栄養素として取り入れながら、世那との日常を形成していた。

 その一方で、二人でいることが習慣になっていたため、今更日常を一新するには心労が大きかった。同じ空間にいる「だけ」の綻びだらけの関係だが、二人ともある程度の我慢耐性があった。
「まあいいか」と蓋をすること、その蓋に正当性を持たせることを、当たり前のようにできた。

 二人が分厚い膜によって隔てられた空間に、今にも順応してしまいそうだった。
 歯がゆさともどかしさが充満していた。
 観覧車に乗り、心を取り巻いていた膜がようやく体外に出た。千雅は一糸まとわぬ姿で立たされているような恥ずかしさと怖さに襲われた。ただ不思議と、そこにはほんのりと安心感も含まれていた。

 世那は、視線を落としたまま固まっている。困惑しているというよりは、言葉を選んでいるようだった。落とした視線をあげながら、口を開いた。
「すごい言いにくいんだけど、服ダサいのを本当どうにかしてほしい」
 思いがけない指摘に、感情が追いつかなかった。

 ははは、なんだ、そんなことか。全然大したことじゃない。気遣って損したよ、ははは。

 伝えた方がいい台詞はすぐに思い浮かんだが、恥ずかしさがはっきりと宿り、裸の心から鈍痛を感じた。
「は、なんでそんなこと言われなきゃならないんだよ。ってか、思った時に言えよな」
 ちっぽけな自尊心が存在感を放った。
「思った時に言ったって、喧嘩になるだけでしょ。好きなファッションは、人それぞれなわけだし。あと、全然我慢できたよ、気にはなっていたけど。だから、言わなくてもよかったんだけど、言えって言われたから、言っただけ」
 やり場のない怒りが千雅を支配していく。

 誰かが悪いわけではないが、不満として確実に存在している。自分の未熟さが鈍痛を大きくしていった。

 せっかくの旅行なのに。
 ゴンドラを降りてからも漂う不穏な空気に、千雅は激しく後悔した。

「じゃあ、全身コーディネートしてよ、お願い」
 自尊心など捨てて、両手を合わせて世那にお願いできれば、事態はぐるっと反転したのだろう。頭で分かっていても、そんな余裕は持ち合わせてなかった。
 旅行の冒頭に持ってきた観覧車が尾を引き、その後食べ歩きをしたコロッケは、ソースをべったりかけても味がしなかった。

 しかし、時間が経つにつれて、鈍痛の中に潜んでいた安堵感がじんわりと全身へ広がっていった。痛みを負っても、心は遥かに軽かった。旅行を一通り楽しみ日が落ちた頃には、安堵感と旅行の思い出がかなり侵食していた。
 不満を溜め込みすぎず、衝突を恐れず伝えることの大切さが身にしみていく。

「世那、なにか嫌なことあったら、気にせず言ってね」
 旅行の二日後、安堵感がすっかり正義感に変化した千雅は、小さく笑いながら言った。
「分かった、千(せん)ちゃんもちゃんと言ってね」
 世那は、おうむ返しをした。
「了解」

 以降、どちらも不満を漏らすことはなかった。
 すぐに逆戻り。千雅は、相変わらず居座り続けるしこりに辟易していた。
 不満あるなら、隠さずに言えよ。
 お互い不満があれば言うと約束をしていたものの、千雅としては、突破口は世那に譲ることが優しさだと思っていたため、先へ進めないもどかしさが、不満を増幅させていた。

*****

 世那を乗せ、車を走らせる。一時間半の道中は、やはり重苦しい空気が流れていた。
 日帰り旅行。真っ先に観覧車に向かった。まだ午前中。
 地元には観覧車が無い。乗るためには、旅行を兼ねるしかなかった。
 終わりよければ全て良し。前回の旅行がそこまで後味が悪いものではなかったことが、千雅を突き動かしていた。

「教えて、嫌なことあるなら。俺の何がだめ?」
 雲ひとつない青空に吸い込まれるように上昇していくゴンドラに乗りながら、千雅は尋ねた。

「そういうところ。全部私が中心になって、千ちゃんは自分のことを何も言わないじゃん。千ちゃんは私のどこが嫌なの? それもちゃんと言ってよ」
「いや、だって、それは......」
 華麗な返り討ちにあった千雅は、言葉が出なかった。

「気遣っているのは千ちゃんの方じゃない? 何でも言って」
 諦めの欠片もない、先を見据えた世那がそこにはいた。
「俺に対して、興味を持ってほしい。話題振ってくれたり、質問してくれたりしてほしい。受け身すぎて、すごい不安になる時がある。無理はしなくていいけど、そういう時がちょっとでもあれば嬉しいな」
「そっか、全然気づけてなかった。ごめんね。気をつける」
「こっちこそごめん、俺も自分のこと話すようにするね」

 観覧車は、頂上を過ぎ、徐々に高度を下げ始めていた。上昇していたときよりもゴンドラ内の空気は、澄んでいた。

「あのさ、何かあれば観覧車で言うって決まりにしない? 当たり前のように、思っていること言えたら良いし、そうしていきたいけど、帰ったらまた気を遣って言えなくなりそう。無理して言わなくてもいいなってまだ思っちゃいそうで」
世那はこちらを見ていた。

 観覧車を一周した十五分間で、世那の強いところも弱いところも初めて目の当たりにした。ようやくお互いの膜が取り払われ、裸の心で向き合うことができた。お互いの心に指紋がつく日を見据えながら。
 午前中の観覧車。二人にとっての支えになっていった。

*****

「ねえ、来週観覧車行こう」
「痛っ、叩かなくても良いと思うけどね」
「いやいや、そんな強く叩いてないから。いい? 空けててね?」
「分かった、空けとく」
 世那は、千雅のベッドから起き上がり、ベッドを背もたれにしている千雅に、強引に提案した。そして、千雅からリモコンを奪い取り、チャンネルを変えた。
 約束を決めて二ヶ月が経つと、千雅と世那の力関係は逆転した。
 言い合える場所、吐き出せる場所がある。
 圧倒的な拠り所を手に入れた余裕が、世那を「あの頃」に戻したようだった。
 千雅が尻に敷かれ始めたというよりも、世那は「あの頃」のように、無邪気で明るくなった。
 部員とマネージャーから、カップルに変わった時。
 「百瀬(ももせ)くん」から「千(せん)ちゃん」に呼び名に変わった時。
 早瀬世那(はやせせな)の略「はやせな」から「せな」に呼び名が変わった時。
 嫌なところなんて一つもなくて、世那との最高に楽しいこのひと時が一秒でも長く続けばいいのに。ただただそう思っていたあの頃の世那が、戻ってきていた。その様子を見て、千雅自ら張り巡らした心の膜は、すっかり剥がれていった。

 世那は今何を考えているのだろう、俺のことをどう思っているのだろう。
 この二ヶ月間、そんなことを考えなくなったような気がする。

 世那と一緒にいる時間を、当たり前のように楽しく過ごしたい。  
 二人で最高の時間を創りたい。
 そう考えるようになっていた。「あの頃」のように。

 悩みというのは、このかけがえのない最高な時間の奥底でじっくりと熟成され、積み重ねた幸せを一瞬で切り裂くその時を、じっと身を潜めて待っているのだろうか。

 「あの頃」を取り戻した世那からの「観覧車」という言葉は、タイムスリップの終わりを告げる合図のような恐怖が帯びていた。

 二ヶ月ぶりに乗る観覧車。午前中。相変わらず晴天だった。
じりじりと照りつけていた陽の光は、前回よりも控えめになり、少し肌寒くなっていた。千雅は自分で選んだ皺のついたシャツを羽織っていた。

 今の世那はどっちの世那だろうか。観覧車というロケーションのせいで、感情が読み取れなくなった。
 ゴンドラに乗るやいなや、世那が切り出す。
「観覧車は、一周二十分です。なので、一人あたりの持ち時間は十分、頂上ついたら攻守交代でいきましょう。先攻後攻はじゃんけんで」
 世那はそう言いながら、グーにした手を突き出した。
 「あの頃」の世那だ。まとわれたコミカルさから千雅はそう読み取った。

 ジャンケンポン。世那が先攻。
「えーとね、まず千ちゃんは香水つけすぎ。何回プッシュしてるの? 近づいたらね、すごいんだからもう。何もつけないでも臭くないんだから、そんなにたくさんつけなくて大丈夫」

「あとね、漫画ばっか読まないで。私が話しかけても何回も無視してるよ? せめて返事はしてよね。漫画読みながら寝たりするから、ベッドに漫画が散乱して、横に寝る時に私がいちいち片付けてるんだからね」

「あとね、一緒に飲みに行く時、全然割り勘でいいよ。私がトイレ行ってる間に、支払い済ませてくれてありがたいけど、無理しないで大丈夫。私もバイトしてるし、全然払えるから。対等でいたいし」

「あとね......」

「いやいや、頂上過ぎたから。交代だよ交代」
「あ、思い出した。私ん家では、トイレは必ず座ってして。すごい飛び散ってるの」
「いや、あの、もう頂上超えて......」
「便器にも飛び散っていれば、地面に飛んでるときもある。必ず座ってして下さい」
「はい、じゃあ千ちゃんの番」
 もう残り四分の一しか残っていなかった。

「ちょ、え、まずは、ゲーム一緒にしたい。俺がゲームしてる時、すごいつまらなそうに眺めてるから、あれ止めてほしい。一緒にしてくれたら嬉しいけど、しなくてもつまらなそうにはしないでほしい」

「わかった、気をつける」

「えーっとね、あと......」
 観覧車は高度が下がりきり、降下から横移動になっていく。
「あとは、もう少しエッチしたいかな」
「え?」
 世那は口を開けながら、左側をチラチラ見ている。

「はーい、おつかれさまでしたー。足元お気をつけてお帰り下さいー。ありがとうございましたー」
すぐに、ゴンドラの扉が開いた。千雅は耳に帯びた熱が一気に上がっていった。
 耳の熱が顔、全身へと行き渡った千雅をよそに、世那は口に手を当てて、笑いを堪えながら、その場をあとにした。

*****

 秋がすっかり顔を出し、朝日が登っても肌寒かった。
 掛け布団は、ベッドの下に落ちてしまっていた。
身に纏うものが何もなくなり、ケータイは充電器を差し損ねていた。

 掛け布団を整えられるほど目は覚めていなかったため、世那は口を開けて寝ている千雅に擦り寄り暖をとった。
 千雅の立派な体毛が世那の肌を撫で、少しこそばゆくなる。
 じんわりと温もりが全身を支配していくが、背中とお尻は、依然冷え切ったままだった。背面の冷えが、眠気を覚まし、徐々に視界がはっきりとしてくる。カーテンの隙間から陽の光が差し込み、昨夜の残骸を照らしていた。

 無造作に並んだゲームのコントローラー、積み上げられた漫画の山、へこんだチューハイの缶。
まるで門出を祝うかのように、陽の光はさらに強くなり、照らされる幅が広くなっていく。

 世那は、そそくさとベッドの下に落ちた掛け布団を持ち上げ、寝ている千雅と自分にかけ、頭まですっぽりと被った。覚めていく目を固く閉じ、さらに千雅に擦り寄った。千雅は細目でその様子を見ながら微笑み、世那の頭を撫でた。
 次にお互いが目を覚ます頃には、もう午後になっていた。

 年が明け、大学四年生が、すぐそこまで見えてきていた。社会という、これから何十年も生きていく環境についての情報が、「大変そう」しかないことに不安が大きくなっていた。
千雅は車を走らせ、世那は助手席でナビゲートをした。

 インディゴのデニムシャツにベージュのチノパン。後部座席に黒のダウンジャケットが投げられている。世那に選んでもらった洋服で、全身をまとっていた。

「これを着ていれば、とりあえず大丈夫」
 購入する際に世那が放った一言を額面通り受け取り、冬はこの一パターンのコーディネートで乗り切ろうとしていた。

「千ちゃんは、就活どうするの?」
「建設系かなー、工学部だし。興味ないわけないでもないし」
「そっかー、理系は良いねー。就活になると文系って本当何も持っていないんだなって思う」
「そんなことないでしょ。世那はコミュニケーション能力もあるし、好かれるし、どこ行ってもやっていけるよ、きっと」
「そうかなー、だと良いんだけど。あ、次左ね」

目的地まで残り一㎞とカーナビに表示される。左にハンドルを着ると、大輪の花が視界に飛び込んでくる。壮大に待ち構え、すべてを包み込む寛大さがあった。

 残り五〇〇m。近づくにつれて、ゆっくりと反時計回りに円を描いていることが、見て取れるようになった。
 残り二〇〇m。観覧車の駐車場が見えてきた。

「あのさ、言うこと無いかも」
「え?」

 世那がつぶやいた。とりあえず駐車場まで向かっていく。
 遊園地で、観覧車以外の他のアトラクション目当てのお客さんも多いせいか、昼から駐車場はかなり埋まっていた。入り口から一番遠い場所に車を停めた。

「うん、千ちゃんに言うこと無いね。なんかもう言えちゃってる。着くまでに何があるかなーって考えてたけど、何も思いつかなかったし、不満あったら普段から言えるようになってるなって思って」

 11:38。
 観覧車の中心に表示されている時間を見ながら、世那は話した。
「んー、確かに無いね。何かあったら普段言ってるし、これもコーディネートしてもらったし、香水臭くもないよね?」
 世那は千雅の左肩に鼻を近づけて、右手の人差し指と親指をくっつけて、OKサイン出しながら頷いた。

「観覧車に来る必要もなくなったね。良かったけど、なんか少し寂しいね。良いんだけど」
「じゃあ、夜来ようか? まだ夜景見たこと無いもんね」
「たしかに。こんなに乗ってるのに、夜景見たこと無いなんて、なんか笑っちゃう」
 世那は、軽く手を叩いて笑った。

 12:00。
 午後になった。千雅は車のサイドブレーキを下げ、車を発進させた。

 翌日、旅行の締めくくりに、再び戻ってきた。
 昨日の午前中とは打って変わって、きらびやかな光を放出し、のどかなこの街で、圧倒的な存在感を誇っていた。十二月から二ヶ月間、この遊園地には、イルミネーションが点灯している。全国区の知名度を誇っており、駐車場には遠方からのナンバープレートも目立っていた。

 真冬にも関わらず、行列がなっていた。両手をこすり合わせたり、ポケットに手を突っ込んだり、僅かな暖を起こしながら、その時を待った。
 三十分ほど並び、ようやくゴンドラへと乗り込む。夜の観覧車は、昼よりもプライベート空間に感じた。陽の光は差し込まず、ネオンの光が眼下に広がっていた。まばゆい光が、かけがえのない思い出を増幅させていった。

 観覧車が、不満を吐き出す場所から、思い出を共有する場所へと変わっていく。
 千雅は、窓にくっつき眼下のイルミネーションに夢中になっている様子を、後ろから眺めた。

 世那は、艷やかで、色っぽくて、輝いていた。空には星がきらめいている。イルミネーション以外の輝きも見つけ、いつまでも経っても忘れることの無いよう、この状況を全身で記憶しようとした。

*****

 あの観覧車に乗ってから、七年が経過した。今でも鮮明に覚えている。
 千雅は変わらずこの土地に住んでいた。
 仕事が終わり、スーツに身を包んだ千雅は空を見上げた。

 相変わらず観覧車もイルミネーションも無いが、闇夜のおかげで、星はより輝いていた。
 視線を戻し、かばんを持つ左手に力を込めた。その薬指には、新たな光が宿っていた。


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