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【連載小説】5. 晴れ渡る空 / あの頃咲いたはずなのに

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 世那はソファに横たわったまま、動けなくなった。ただただじっと痛みに耐えていた。
 昼食後から痛みを強く感じるようになり、だいたい二十分間隔で痛みが襲っていた。

「ただいま、大丈夫か?」
「結構痛いかも」
 千雅は帰宅してすぐ世那の手を握り、深呼吸を促した。
 次第に陣痛の間隔が短くなる。痛みも強くなってきているようだった。
 千雅は、手を握りながら、タイマーの時間を眺めている。

 陣痛の間隔が十分おきになったら、病院に連絡し、すぐに向かう。
 千雅は、事前に調べた情報を復習した。入院用の道具が入ったかばんは、確かに車に置かれてあった。後部座席の様子を思い返し、ふうと息を吐き、その時を待った。

「痛い」
 世那が陣痛を訴える。
 九分四九秒。千雅はすぐに電話をかけ、クリニックに現状を伝え、車で向かった。
「そんなに焦らなくても大丈夫だよ」
 千雅のあまりの必死の形相に、世那は痛みが和らいだのか、少しだけ余裕の笑みを浮かべていた。

 クリニックに着き、陣痛室に通された。
 千雅は、ベッドに横たわる世那の手を握り、ヒーヒーフーと声をかけ続けた。陣痛の間隔は五分になった頃から、なかなか短くならなかった。定期的に襲う痛みに、千雅の必死さを笑う余裕は無くなっていった。

 陣痛開始から十二時間が経過し、世那は静止していられなくなった。頻繁に体を動かし、痛みを体外へ放出しようと試みる。ようやく陣痛の間隔が短くなり、分娩室に移動する。
 分娩室き移動しても尚、千雅は世那の手を握り、声をかけ続けた。分娩室に入ると、世那は今までに見たこともない苦悶の表情を浮かべ、声を上げた。
 世那の高い声が、獣のように野太くなっていく。
 懸命に闘う姿が、千雅の握る力も強くさせる。世那が叫ぶ。千雅が強く握る。互いの力が最高潮に達した瞬間。
 蒼唯が産声をあげた。分娩室に泣き声が響き渡る。
 世那は産声で鼓膜を揺らしながら、呼吸を整える。千雅は生まれた我が子の方は見ず、涙と汗が結晶となって輝いている世那を見つめ続けた。蒼唯の姿は、まず世那に見てほしかった。

 助産師が歩み寄り、世那に生まれたての蒼唯を見せた。世那は苦しみからの解放感と我が子の愛しさで、頬が上がり、歯に力が入らないようだった。
 蒼唯はあまりの眩しさで開けられない目の代わりに、ちっちゃな口を目一杯開け、自らの存在を示しているようだった。千雅はインスタントカメラを取り出し、その様子を一瞬たりとも逃さないようシャッターを切った。次第にカメラがぼやけて見えにくくなり、正気を取り戻すように目を拭い、カメラに視線を注いだ。
 百瀬蒼唯。
 名前に込めた願いのように、立派に育ててやるんだ。
 こみ上げる気概がシャッターを押す指の力を強くした。

*****

 出産前と同様、もしくはそれ以上に出産後もやることは盛りだくさんだった。
 手続き関連だけでも、入院費の支払い、出生届の提出、児童手当の申請、健康保険証の申請、乳幼児医療費助成金の申請、出産育児一時金の申請など。

 家事に加えて、これらの手続き業務は、千雅が行った。
 書類の振り分けや手続き作業は仕事で、数え切れないほど行っていたはずだが、たいして力にならなかった。
 出産後から一週間経ち、蒼唯がようやく百瀬家に来た。二人で過ごすには十分なスペースがあったが、蒼唯のベッドができた今、見違えるほど窮屈になった。蒼唯の存在の大きさを表しているようだった。

「ベッドの組立までありがとね、千ちゃんがたくさんサポートしてくれて本当に助かったよ」
 蒼唯をあやしながら、世那が言った。
「全然だよ、世那もよく頑張ったね。かっこよかった」
 千雅は、世那と蒼唯の頭を優しく撫でて、蒼唯に目を向ける。
 ぷっくりとした頬を触ると、蒼唯は驚いたように千雅を見た。
 初めて蒼唯と目があった。サファイアのように澄んだ美しい瞳だった。 

*****

「鈴村さん、本当にありがとうございました。おかげで母子ともに健康で、出産を終えることができました。これから取り返すように働きますので、何卒宜しくお願いします」
 鈴村が出勤するやいなや、千雅は立ち上がり、深々と頭を下げた。
「よかったなー、百瀬もパパか。頑張って稼がないとな」
 鈴村は強めに右肩を叩いて、祝福をした。
 蒼唯が生まれてから、明らかに仕事の思い入れが変わっていた。「やりたいこと」「やりたくないこと」という自分中心の軸は、どこかに消え去っていた。
 世那、蒼唯を幸せにするためならなんだってやる。
 一家の大黒柱としての自覚がはっきりと芽生えていた。家に帰れば、世那と蒼唯が待っていると思えば、どんなことだって乗り越えられると思った。

 千雅が本格的に復帰して、鈴村は今まで滞っていた仕事を一気に振った。千雅は、まだ営業部に異動したばかりだったと再認識した。知識が殆どない中、わんこそばのように、ひっきりなし渡される業務に、疲弊しながらも必死で食らいついた。

「ただいまー、疲れたー」
「しっ! 蒼唯が起きちゃう、やっと寝たの」
 帰宅した千雅をすかさず制止した。千雅が小声で謝る。その様子を見て世那が微笑んだ。
「色々任せてばっかりでごめんね」
「大丈夫だよ、仕事お疲れ様」
 冷蔵庫からビールを取り出し、千雅に差し出した。そのまま椅子に座り、晩御飯のさばの味噌煮を食べる千雅をまじまじと見つめた。

 蒼唯が眠りにつき、夫婦での落ち着いた時間が流れた。
 千雅は、ビールを飲みながら、カバンを漁りはじめた。カバンの中から、ある冊子を手に取り、世那に見せた。
「どう? 良くない?」
 カメラのカタログだった。ミラーレスの一眼レフカメラがどっしりと構えて、こちらを見ている。

 蒼唯の可愛さを記録に残したい、あまりの成長の早さに、油断しているとすぐに大きくなってしまう。
 千雅は、なぜカメラが欲しいのか、思いの丈をぶつけた。カタログを持つ手にも力が入り、少しだけ曲がった。
 世那は、どうせすぐ飽きると後ろ向きな意見だったが、良い画質で残すことに意味があると、千雅も引き下がらなかった。結局、根負けした世那が譲歩する形で、ミラーレス一眼レフの購入が決まった。

 千雅は、足音を立てずに寝ている蒼唯に近づき、「やったよ」とガッツポーズをしてみせた。カメラを購入した千雅は肌身離さずカメラを持ち歩き、いつ何時シャッターチャンスが訪れても、必ず収めてやるという気合で溢れていた。その気合は、千雅に一年で三千枚ほどの写真を撮影させた。
 そして、この三千枚の中から、厳選した写真をつなぎ合わせ、一つの動画に編集し、蒼唯の誕生日に流した。
「あおい、パパにありがとうって言うよ。せーの」
「ありがとー!」
 世那と蒼唯の無邪気で弾んだ声が、一瞬で胸まで流れてくる。この「ありがとう」をもらう瞬間がこの上なく幸せだった。
 写真を撮って、誕生日に一本の動画でプレゼントする。
 これが蒼唯の誕生日の恒例行事になっていった。

 子育ての中で、千雅には役割があった。
 まず、お風呂。当初は世那に自由な時間を作ってあげるためという理由で、せめてもの気遣いのつもりだったが、蒼唯もパパとお風呂に入ることが楽しみになっていた。
 千雅が帰宅すると、玄関まで走ってきて、「パパお風呂ー」とスーツのジャケットの裾を掴みながら、ねだってきた。女の子としての素養がすでに身についているような気がして、成長の早さを感じていた。

「ちゃんといい子にしてたー?」
「うん、おさかなもね、ぜーんぶたべたよ」
「おー、えらいねー、ピーマンもちゃんとたべた?」
「ピーマンはたべない」
「頑張って食べないと、ママが一生懸命つくったんだよ」
「だってにがいんだもん」

 蒼唯はいじけながら、パパの顔に湯船のお湯をバシャバシャかけた。蒼唯は、お風呂の時間が忙しいパパと過ごせる数少ない時間だと、子供ながらに認識しているようで、一日の出来事を何でも話してくれた。その結果、いつも長風呂になってしまい、
「二人とも大丈夫ー? のぼせるよー」
とママを心配させるほどだった。この声が聞こえると、蒼唯とパパは顔を見合わせて微笑みあった。

 また、休みの日に公園に行くのも、千雅の役目だった。
 家から歩いて五分程の場所の公園に手をつないで行った。蒼唯は、砂遊びが好きで、砂遊び用のちっちゃなスコップを持って、公園に行くようになった。穴をほったり、お城を作ったり、砂遊びをしている蒼唯は、パパの声が聞こえなくなるほど、夢中になっていた。

「パパみて、お家作った。ここがパパの部屋、ここがママの部屋、ここがあおいの部屋でー、それからー......」
 蒼唯は百瀬家を砂で表現した。今の家よりも明らかに部屋数が多かった。蒼唯は純粋にそれぞれの部屋を作ってあげただけだが、千雅は人知れず心に深く刺さった。
「大きな家に住ませてやりたい」と小さく決意をした。

「すごいなー、あおい。天才だねー」
「でしょー、へへへ」
 蒼唯は砂まみれの手で頬を触ったせいで、顔に砂がついた。
 また、砂遊びと同じくらい、体を動かすことも好きだった。ベンチから向こうにある木まで思いっきり走り、滑り台は毎回何往復もした。目を離した隙に、一人でジャングルジムに登ろうとしたり、ブランコに乗ろうとするほど、活発だった。

 ただ、蒼唯は、誰もいないときでないと砂場に近づかなかった。天真爛漫な性格だと思っていたが、人見知りの一面もあった。公園が賑わっているときは、パパと一緒にベンチに座り、その場から動こうとしなかった。

「パパ、お散歩しよう」
「え、砂遊びしないでいいの?」
「しない、お散歩が良い」
 賑わっている公園にいる蒼唯は、三歳児とは思えないほど、大人びていた。外の世界への恐怖や制約を幼いながらも感じていた。

 蒼唯が三歳になると家族旅行に行くようになり、蒼唯五歳の時に初めて観覧車に乗った。
 おとなニ枚、こども一枚。
 観覧車での思い出は、全て「おとなニ枚」で刻まれていた思い出が更新されていく。

 列に並び、待ち時間を過ごす蒼唯は口数が少なくなっていた。人が多いからなのか、見たこともない乗り物におののいているのか。理由はわからないが、何かに圧倒されているようだった。
 チケットを渡し、ゴンドラに乗り込む。千雅と世那は、蘇るデートの思い出が重なり合い、気分が高揚したが、蒼唯は景色を見るやいなや、大声で泣き出した。あまりの高さに怖気づいたのだろう。

 まだ時計でいうと『4』くらいの位置。序盤も序盤だった。
 以降は、蒼唯は一切景色を見ようとせず、千雅の胸に顔を埋め、一切動こうとしなかった。後半に差し掛かると、蒼唯は泣き疲れたのか、千雅の胸でそのまま眠りについた。
「蒼唯高いところ苦手なんだね」
「そうだね、いつか好きになってくれると良いんだけど」
 千雅は蒼唯の頭を撫でながら、つぶやいた。蒼唯が泣いているとは露知らず、外は無邪気に光を放っていた。

「百瀬、ちょっといいか」
定時が目前に差しかかった時間に、営業部長の吉澤が声をかけてきた。突然の営業部長からの呼びかけに自然と背筋が伸びた。
会議室までのほんの数メートルの距離を移動する間でも、憶測が広がっていく。
ただ、心なしか余裕があった。おそらく、これも世那と蒼唯のおかげなのだろう。
千雅は毅然とした態度で会議室に入った。

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