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【連載小説】13. 見えない葛藤 / あの頃咲いたはずなのに

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 納期まで残り半年を切った。
 今のところ、問題なくスケジュール通りに進んでいた。

 営業部は新規クライアントでの実績を今か今かと待ち望んでいた。千雅には、事業所の上層部との会議、現場統括以外に営業担当との連携も増えていた。

「百瀬さん、僕が対応できる作業って何かありそうですか?」
 岸が声をかける。ここ最近、千雅に偏っていた業務を現場のメンバーが自分ごと化するようになり、手が空くと、自分に出来ることは無いかと能動的に動くようになった。
 千雅が仕事を振り分ける余裕が出来たこともあるが、地道にさぼらず、コツコツと頑張る姿勢が、今年に入って事業所内に広がり始めていた。今年は昨年にも増して作業量は多くなっていたが、残業時間は昨年同様に留められていた。
 また、自分では思いつけないヒントをもらえたり、職人さんとのコミューニケーションを円滑に図れたり、去年では出来なかったことが、出来るようになっていた。
 岸はここ一、二ヶ月で極端に残業が増えた。率先して手を上げることが増え、業務が急激に増えたためだった。

「岸、もう終わりそうか?」
「は、はい。もう終わります。すいません、遅くまで残ってしまって」
「よかった、よかった。無理はしすぎるなよ」
「ありがとうございます。あの、百瀬さん。この後ちょっと空いてますか?」
 会社の人と飲みに行くなんて歓送迎会でしかなかったため、後輩であれどこか緊張感があった。また、自分に極端に仕事が拠っていたのは、メンバーとの距離があることが理由なのかもしれないと、今までの自分を顧みた。

「岸が飲みに誘うなんて珍しいな、どうした?」
 生ビールを一口飲み、グラスを置きながら尋ねた。
 岸は、何か物言いたげな表情を浮かべていた。
「百瀬さん、東京の事業所は今年までですよね?」
「うん、そうだけど、それがどうした?」
 千雅の問いに対して、しばらく沈黙が流れた。岸は少し俯き気味だった。不穏な空気へと変わっていく。すると、岸の強く、真っ直ぐな視線がこちらに注いだ。

「実は、母ががんを患ってしまいまして。早くに父親を亡くし、母子家庭で一人っ子なので、母を見守れる人がいなくて。僕も東京に出てきた身なので、地元に戻りたくて」
「そっか、それは大変だな。所長にも話しておこうか?」
 千雅は、岸を気の毒に思いながらも、自分から切り離された話では無いような雰囲気を察していた。
 岸は、両手を腿に添え、千雅を見た。

「百瀬さんより先に、僕が戻る形になっても大丈夫でしょうか?」
 嫌な予感が的中した。自分の進退にも関わるとなると、途端に岸の心配が出来なくなった。
 ただ、会社の人事を一平社員が決められるわけもないので、どこか遠い話にも感じた。そのまま岸が続ける。
「所長には先に話していて、会社の人事だから何とも言えないとは言われたんですが、一つ問題があって」
 千雅は少し胸騒ぎがした。

「所長曰く、来年に美術館建設の案件を受注する予定らしく。ネオランド同様前例がなく、規模も過去最大らしく、信頼と実績のあるメンバーを配置したいとのことで」
 上層部しか知り得ない情報を岸が知っている状況、直属の上司である自分を飛び越えて所長に相談している状況に少しだけ腹立たしさを覚えたが、一旦心を落ち着けた。

「なるほど、それで?」
「できれば、百瀬さんに残ってほしいと言ってました。百瀬さんが抜けた場合、その穴は僕を中心に埋める形になると思います。百瀬さんのパフォーマンスを僕含め残りのメンバーが出せるとは到底思えないですし、案件規模を見ても百瀬さんが不可欠だと思いました。一後輩がこんな事言うのはおかしな話ですが。とりあえず、所長は百瀬さんの残留を望んでおられていて、もし百瀬さんが残留した場合、異動の枠に僕が入るのは交渉の余地はありそうとのことでした。おそらく近いうちに所長から話が来るとは思うんですが、所長伝えで聞くと、僕が横取りしようとしていると受け取られかねないと思って、先に直接伝えた次第です」
 千雅は、ジョッキを掴んでいる右手を離すことができず、そのジョッキは小刻みに揺れだした。
 怒り、喜び、やるせなさ。一言では片付けられず、様々な感情が入り混じり、震えとしてあらわれた。

「なるほど、そうか。お母さんはどういう状況なの?」
「幸いにも末期ではなく、まだ手の施しようがあるのですが、出来るだけそばにいたくて」
 岸はうつむきながら、気持ちを吐露した。
 千雅のグラスは更に揺れる。自分が承諾をすれば、全てが丸く収まる。震えの所在は、殆どがやるせなさになっていた。
「そりゃ大変だな。ただ、所長から連絡が来ないと俺は何も動けないから、少し待ってくれるか。ひとまず今は、お母さんとできるだけ連絡取るようにしなよ。残業も極力控えたほうがいい」
 千雅は、どうにか先輩としての威厳を絞り出した。岸は、千雅の威厳を真正面から受け止め、しみじみ味わうようにビールを流し込んだ。

*****

「ねえ、オレンジのバスパン、洗濯されてないじゃん、明日の部活はちひろと同じ色にしようって約束してたのに」
 蒼唯がお風呂場から走って、キッチンまで戻ってきた。世那は洗い物をしながら、足音に驚いた。余韻で、部活の汗の匂いが世那に届く。
「あ、ごめん、ごめん。洗濯出来てなかったね、他の色でも良いでしょ」
「えー、ちひろと約束したのにー、もう」
 蒼唯は友達を失ってしまったと言わんばかりに肩を落とした。 
小学三年生にとって、部活でズボンの色を揃えるというような小さな約束が、友達の証になる。破るなんてあってはならない。無邪気さの中にも派閥や群れの意識が、蒼唯にも芽生え始めているようだった。
 蒼唯を軽くあしらいながらも、なぜ洗濯物にオレンジのバスパンを入れなかったんだと後悔を浮かべながら、茶碗についた硬い米粒と格闘する。

 何か私にも良いことはないのだろうか。
 世那は、代わり映えのない毎日を創出することに対して、心が折れそうだった。
 ゼロかマイナスか。誰にも心配されない、波風を立てないことが大成功。
 誰かちょっとは褒めてよと思うがままにわめきたかったが、母親としての確固たる自負がしっかりと歯止めをかけた。
 蒼唯がベッドに入ると、世那は束の間の一人の時間を楽しんだ。今となっては好きになったバラエティ番組を見て、思わず一人で笑ってしまう。どんよりと重くなった心が軽くなった。「今年まで」という声が頭の中で響いた。

【今週末帰るね、久しぶりに休み取れそうで!】
【お、本当に! やったー、待ってるねー】
 千雅からの連絡で、すっと心が軽くなった。
 オレンジのバスパンなんてとっくに頭から消え去り、眠りについた。

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読書が苦手だったからこそ、読みやすい文章を目指して日々励んでいます。もし気になる方がいらっしゃいましたら、何卒宜しくお願い致します。