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【連載小説】9. 頑張って踏ん張って / あの頃咲いたはずなのに

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 蒼唯は夏休みが明けても、一学期と同じ量のがんばりノートをこなしていた。相変わらず、算数の比率が高かった。
 百ます計算で一位をとる。蒼唯にとって百ます計算は、もはや「算数」というより「体育」だった。

「はい」
 勢い良く手が上がる。
 それは今日の授業でクラスに初めて響いた返事だった。

「一位あおいちゃん、三分二十秒」
 先生が読み上げたタイムをプリントに記載する。
 弾む気持ちが蒼唯を支配し、字が汚くなっていく。大声で叫び、教室中を走り回りたいほどの喜びだったが、みんながまだ計算に奮闘しているため、心の中で喜びを爆発させた。

 今日は、百ます計算の時間が長かった。
 いつもの制限時間は十分だったが、今日はなぜか十五分半もあった。追加された五分で次々と鉛筆が机に置かれ、先生の終了の合図が響いたときには、殆どの子が両手を腿に添え、背筋を伸ばしながら黒板を見つめていた。終えられなかった子が炙り出されてしまい、机に視線を落としたまま顔を上げにくそうにしていた。

 夏休み明けは、体育の授業が運動会練習になった。
 一年生の演目は、「かけっこ」と「玉入れ」だった。
 父と公園に行ったときは、ジャングルジムに登ったり、ブランコを全力で漕いだり、雲梯を一つ飛ばしで進んだり、わんぱくで体を動かすことが大好きだったので、運動会練習と聞くと、胸が疼きじっとしていられなくなった。百ます計算の原動力になっていた高鳴りと同じだった。

 今日はかけっこの練習だったが、あくまでも運動会練習のため、ただ競争をするだけではなく、入退場の練習もあった。
「足踏みはじめ!」の合図とともに、右足左足右足左足と腿と上半身の角度が九十度になるまで足をあげ、大きく腕を振る。
先生の「前進め」の合図で、所定の位置まで歩を進める。

 小学一年生にもなると、各々が自分の運動能力を自覚し始めており、入退場の様子で、運動会への意気込みが如実に現れた。
 入退場なんかさっさと終わらせて早く競技に移りたい子、運動が苦手で時間が過ぎるのを待つ子、先生の言う通りきれいな隊列を守る優秀な子。
 蒼唯は、先生の言う通り動くということが染みつき、誰よりも模範的だった。

「ぜんたーい、止まれ」
「いっち、に」
 掛け声とともに一斉に足を止めた。
 負けたくない気持ちが沸き上がり、緊張と興奮が入り混じった感情が蒼唯を取り巻いていく。
 絶対に一位になる。そう誓うように、ふうっと深呼吸をした。

 かけっこは六人ずつで行い、蒼唯は第三レーンで走ることになっていた。右の第四レーンに目を移すと、菜々が執拗に屈伸運動をしていた。普段の寡黙で控えめな性格とは裏腹に、蒼唯と同様、緊張と興奮でじっとしていられないようだった。

 前の組がスタートを切り、いよいよ蒼唯の番になった。ゆっくりスタートラインに立ち、もう一度深呼吸をした。菜々は興奮よりも緊張が上回っており、少々体が縮こまっていた。

「位置について、よーい」
 ゴールラインからの先生の声に合わせて、右足を後ろに下げる。
「どん」
 先生が勢いよく旗を振り下ろした。一歩目の右足をできるだけ前に、素早く出した。蒼唯は一心不乱にゴールに向かって走る。視界には誰も映らない。右側に一瞬人影が写ったが、すぐさま見えなくなった。そのまま、蒼唯の視界には誰も映ることなく、ゴールをした。
 百ます計算に続いて、一位。ゴールした瞬間、ガッツポーズをした。
「あおいちゃん速いねー」
 ゴールラインで先生が褒め称えた。蒼唯は笑顔でうなずき、もう一度ガッツポーズをした。
 その時、右側から強い視線を感じた。

 菜々が蒼唯を睨みつけている。

 菜々は一瞬蒼唯の視界にも映っていたが、次第に消えていった。菜々は、蒼唯に離され追いつけないことを察したタイミングで、全力疾走をやめたようだった。結果、最下位でゴールラインを割った。
 菜々は走ることに自信を持っており、競争したことは無かったが、自分が一番早いと信じて疑わなかった。自尊心を傷つけられたことが、相当悔しかったのだろう。ゴールをすると悔しさをぶつけるように地面を蹴ったせいで、菜々の周りにはまだ砂埃が舞っていた。

 ゴールラインのそばで、列になって待機する。列に合流すると、蒼唯はクラスのみんなにうんと褒められた。
 褒め言葉を浴びるに連れて、右からの視線が強くなった。ただ、今の蒼唯にネガティブな感情は一切入ってこなかった。努力が実を結んだ達成感でいっぱいで、その後のレースや退場練習は、気もそぞろだった。

「今日ね、百ます計算もかけっこも一位になったよ、すごいでしょ」
「ニつも一番になったの、すごいじゃない! パパに言っておくね」
 母は蒼唯の頑張りを目一杯褒めた。しかし、蒼唯は満足することなく、今日もきっちりがんばりノートに励んだ。算数だけでなく、漢字の練習もした。
 この日から、蒼唯は百ます計算の一位の座を誰にも譲らなかった。クラスのみんなからは、蒼唯は勉強も運動もできると尊敬の眼差しで見られるようになった。
 ただ、菜々はかけっこでの敗北以来、蒼唯を睨み続けていた。
 菜々は、勉強は大の苦手だった。
 苦手なのか、やらないだけなのかはわからないが、百ます計算は、一度も時間内に終了したことはなく、がんばりノートは提出しないこともしばしばだった。
 勉強に対する劣等感も、運動が出来るという自信で補えていたが、その自身も早々に蒼唯にへし折られた。やり場ない気持ちは、蒼唯をにらみつけることでしか消化できないようだった。
 今日も菜々は、百ます計算を時間内に終えられなかった。半分も回答できておらず、本気でやることをやめていた。かけっこの練習も本気で走らなかった。

 運動場から教室へと戻っていく。談笑するみんなと距離を置き、菜々はとぼとぼと教室へ向かっていた。 
「菜々ちゃん、一緒に教室行こ」
 蒼唯はみんなの輪から離れ、菜々に話しかけた。菜々は驚いた顔を浮かべながらも、一切返事をせず、そそくさと歩いた。蒼唯は諦めず声をかける。
「ねえ、待ってよ。菜々ちゃん、一緒に行こ」
 菜々は仕方なく歩くペースを落としたが、話しかけようとはしない。蒼唯は菜々の横を歩きながら、話しかける。
「菜々ちゃん足速いのに、なんで本気で走らないの。絶対一位なれるのに」
 菜々は足を止めた。視界から菜々が消え、蒼唯はとっさに後ろを振り返った。
「蒼唯ちゃんがいけないんだよ」
「え?」
「勉強もできて、足も速くて。勉強もできない私のことも考えてよ。蒼唯ちゃんがいなければ、もっと楽しかったよ」
 菜々はそう言い捨て、走って教室に帰っていった。かけっこの練習よりも、断然速いスピードで。蒼唯とできるだけ距離を置くように。
 蒼唯は走り去っていく菜々を呆然と見つめることしかできなかった。菜々の姿が見えなくなったことを確認し、とぼとぼと一人教室へと向かった。

 蒼唯は、先生の言うことを破る勇気は無かった。
 百ます計算もかけっこも今まで通り全力でやる。ただ、菜々の言葉が鮮明に残っていたため、決して喜ばない。結果が出たあとの態度で、できるだけ菜々に償うようにした。何も悪いことはしていないけど、悪いことをしているような気分になった。
 菜々は、依然百ます計算もかけっこ練習も頑張らなかった。蒼唯は、菜々が算数の問題に悩んでいる様子を見つけると、教えてあげようと近づいたが、菜々ちゃんは教科書を閉じて席を立った。
「ごめんなさい」と思ってしまうのは、何故だろう。嫌いになるにも勇気が必要だった。

*****

 世那は、蒼唯の異変を見逃さなかった。
 何かあったでしょと尋ねると、蒼唯が決壊したように、嗚咽した。
 世那は、蒼唯に寄り添い、背中をさすった。少しずつ穏やかになり、涙声で菜々との出来事を話した。
 蒼唯の話を聞き終わると、世那はゆっくり話し始めた。
「ここ痛い? 苦しい?」
 世那は、蒼唯の胸を触った。蒼唯は鼻を啜りながら頷く。

「これはね、蒼唯が優しくなっている証拠だよ。菜々ちゃんのことをちゃんと考えてあげているから心が痛くなるの。蒼唯はちゃーんとお友達に優しくしている、偉いよ」

 世那は胸の手を頭に移して、ポンポンと撫でた。
「でもね、痛くても、苦しくても、すぐにお友達を傷つけちゃダメ。だからといって、簡単に謝るのもダメ。助けてあげるの。一緒に楽しむにはどうしたらいいんだろうって、まず考えるようにしなさい。蒼唯は、何も間違っていなくて、頑張っているんだから、自信は、持ちなさい。それでも直らないようだったら、ちゃんと話すこと。喧嘩は一番最後よ。これは約束ね」

 世那が続ける。
「蒼唯が、お友達に優しくしていることは、絶対誰かが見ていて、必ず伝わってるから、めげずに手を差し伸べるの。いつか何倍にもなって返ってくるから、絶対大丈夫」
 蒼唯は涙を一生懸命拭き、縦に大きく首を振った。

「蒼唯はまだわからないと思うけど、パパって凄いんだよ。みんなに優しくて、みんなに凄いって言われていて。だから今は東京で頑張ってる。蒼唯もちゃんとお友達に優しくしたら、パパみたいにすごい人になれるよ」
 世那は、蒼唯を強く抱きしめた。蒼唯は、胸の痛みにどうにか寄り添おうとした。

*****

「仕事お疲れ様、結構遅かったね。ちゃんとご飯食べてる?」
「うん、食べてるよ。忙しくなって自炊は殆どできてないけど、野菜はちゃんと食べるようにしてる」
「なら、良かった。バランス良く食べてよね」
 千雅はケータイを耳に当てながら、食べかけのカップ麺をテーブルの奥の方にずらした。

「でね、蒼唯凄いんだよ。百ます計算もかけっこもクラスで一番になったんだって。がんばりノートで毎日計算頑張ってたからさー、嬉しかったよ」
「凄いな、見ないうちにどんどん成長していくね」
 千雅は、少し寂しくなった。
「ただ、ひとつ問題があって。蒼唯が勉強も運動もできるから、それを見て同じクラスの子に妬まれてるみたいなの」
「え、いじめられてるのか? 大丈夫?」
「今日様子がいつもと違ったから、どうしたのか聞いたら、大泣きしちゃって。結構辛かったみたい。でもね、心が痛いのは蒼唯が相手を思いやっていて、優しくなっている証拠だよ、パパは誰にでも優しくして頑張って今すごい人になってるから、心が痛くても相手への思いやりを忘れなければ、パパみたいにすごい人になれるよ。って言ったら、元気取り戻したの。やっぱ、千ちゃんはすごいね」
「俺は全然すごくないよ。でも良かった、いじめられていなくて。蒼唯にもし何かあったら、東京で落ち着いていられないよ」
「ごめんね、変な心配させて。蒼唯は離れてても千ちゃんの背中を見て頑張ってる気がする。私と二人のときと、千ちゃんが帰ってきたときでは、まるで、目つきが違うんだよ」
 千雅は、どんなときでも相手を褒められるのは、世那の才能だと改めて思った。
 自分も蒼唯も、世那の言葉がなければとっくに心が沈んでいただろう。すぐに恩返しができない距離のもどかしさを強く感じた。
 また、今の自分が、世那に見えている「千ちゃん」ほど頑張れていない気がした。
 この痛みは、自分が優しくなっている証拠なのだろうか。
 仕事において優しさとはなんだろうか。
 そもそも優しさなんて必要なのだろうか。
 「優しさ」に対して、懐疑的な思いを抱き始めていることは口が裂けても言えなかった。今の千雅の心をむしばむ痛みは、他者への思いやりではなく、自らの迷いから来るものだと確信していたが、父として言ってはいけない気がした。
 世那との電話を切ったあと、千雅はテーブルの奥に置かれたカップラーメンを自分のもとに引き戻すことが出来なかった。食べかけのカップラーメンをそのままにし、痛みに寄り添うように眠りについた。

 一週間後、蒼唯は七歳になった。蒼唯のひたむきな姿勢と抱えている悩みを考えると、明らかにケーキのろうそくの数が少ないような気がした。親の目を見張るほどの成長を遂げていることは、父として誇らしかった。
 家族旅行以来の家族団らんの輪の中には、イチゴのホールケーキがある。七本のろうそくの灯が、それぞれの顔を照らしている。千雅の「せーの」の掛け声で、ハッピーバースデーを歌い始めた。
「ハッピバースデーディアあおいー、ハッピバースデートゥーユー」
 蒼唯が精一杯息を吹く。一発で吹き消し、部屋が真っ暗になった。千雅と世那が拍手をして、電気を付けた。

 蒼唯は一週間前の大泣きが嘘のように、大喜びしていて、手は常に高く上げられていた。誕生日プレゼントの一輪車を渡したときには、腕の高さでは喜びが表現しきれず、ずっとジャンプをしていた。
 蒼唯が自転車に乗れる瞬間は見届けられたが、この一輪車が乗れる瞬間は、見られるのだろうか、もしかしてもう乗れてしまうほど成長しているのか、千雅は、成長の早さに気持ちが追いついていなかった。

「蒼唯にね、一個謝らないといけないことがあるんだ」
千雅が口を開く。
「いつもは動画を渡していたんだろ? 単身赴任でどうしても作れなかった。ごめんなさい」
「なんで謝るの?パパはいつも頑張っているんでしょ、頑張っているのに、謝るのはダメだってママが言ってたよ」
 蒼唯の真っ直ぐな言葉に、千雅と世那は顔を見合わせて笑顔になった。
 俺は頑張っているんだ。
 千雅の中で蒼唯の言葉を頭の中で何度も繰り返し、原動力へと変えていった。

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