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今、どうしていますか。

 私は、あの頃の私は人に優しくする余裕なんて無かったの。
 今はもう子どもも居るし、あの頃とは違う。
もう22歳になる。今の私は幸せだ。最初の旦那は離婚した。世間から見れば、もう2度目の結婚?って思うだろうけれど、私は今の旦那さんと出会えたから、そして、旦那の両親にも支えられているから、穏やかに暮らせてる。
 
 私は、高校も行ってない。中学時代は、あんまりいい思い出がないし、友達と呼べる子も作れなかった。今は寂しいとは思わないけれど、高校に通う友達のインスタ見ると、気が滅入ってた。

 母親とは、もう随分と会っていない。やばいやつだし、正直もう、関わりたくない。
 どこかで気にしている自分がいるのは、気づかないフリをし続けている。


 中学時代、、、最後の方はなかなか学校にも行けてなかったし、友達とは喧嘩してばかりだったな。あ、そういえば、保健室の、、、名前なんだったっけ、あの頃はきっと、あの先生、今の私くらいの年齢だった。

 あの人、よく泣いてたな。初めての職場で、うちらの学校なんて、ほんと運のない先生だった。

 私は、あのクヨクヨしてて弱そうで頼りなくて先生らしくない若いあの人が苦手だった。なんだか、私が慰めなきゃいけないようで。もちろん、私はそんな余裕なかったし、むしろ、あの人に頼りたくて、でもなんか頼るに頼れない感じが嫌で、よくイライラをそのままぶつけてたな。
 今もどこかの学校で、保健室の先生やってるんだろうか。嫌いだったけど、今考えると優しい人だった。頼りなかったけど、案外そんなものなのかもしれないって、今になって思う。

 母親に虐待を受けていた。私は、見えないところに自傷行為もしていた。あの時、もしあの人にもっと相談できていれば、私の中学時代の記憶は少し明るいものになっていたのだろうか。

 階段から突き落とされたことがある。あー、お母さんに愛されない私は、一生幸せになれないんじゃないか、このまま、死んでしまえればと思った。学校から児相に話がいったけれど、私が断固として行かなかった。行きたくなかったから。その理由は、携帯が使えなくなるから。当時付き合っていた彼と離れる事が、1番怖かった。今考えると、ロクな奴じゃなかったんだけど、当時は頼る人がアイツくらいだった。

 旦那と出会えて、今の幸せがある。旦那の家族にも感謝している。子どもが3人。お腹の中には新しい生命が。家族が増えていく。

 私は、母に優しくなれる日が来るのだろうか。自分でも、その日が来て欲しいのか、もう永遠とそれを自分が望んでいないのか、分からない。

 私にも、母との明るい思い出はある。母の機嫌が良い日は車で少しドライブした。浜崎あゆみの曲をガンガン鳴らしながら、2人で大声で歌った。

 母は歌う事が大好きだ。今は、薬物とお酒でボロボロなんだけどね。上機嫌になったら、今でも歌ってるんだろうか。1人で。男がまたできたかもしれないな。どうでもいいけど。

 私はね、子どもに子守唄を聴かせてるんだよ、私の膝の上で寝ている子どもに向かって、お腹の中にいるこれから出会う赤ちゃんに向かって。


お母さんにいつか、こんな他愛もない話ができる日が来るのかな。

元気でいてください。





私は、未熟でした。大学卒業したての23歳。
それは、あまりにも未熟でした。それなりに頑張っていたのは確か。だけれど、彼女には何一つ届けられなかった。後悔は拭えません。彼女が今どこかで幸せに暮らしていることを願って。。



 

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