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コーヒー日記②
コーヒーから考える、食の「遠近法」
どんどん物価が上がる今だからこそ、コーヒーを通して食の「遠近法」についてかんがえてみませんか?
食の遠近法には2つの側面があります。
■生産プロセスや品質に目を向ける
食品を選ぶ際に価格だけを基準にする。すると、どうなるでしょう。
作り手は1円でも安くつくることを重視し、生産プロセスや品質にこだわった「サスティナブル」な食品が少なくなってしまう。
品質が高い食べ物を将来に残していく、繋いでいく。そうした時間軸に沿って遠くを見渡す「遠近法」を失わないためにはどうすればよいか。
私は一つの提案として以前、「おもはせコーヒー」に関する記事を挙げました。
コーヒーがドリンクとして私たちに届くまでには、多くの「物語」があります。特に、スペシャリティコーヒーのプライスカードには、そうした「物語」が記載されていることも多いです。
物語を理解して、想いを馳せながらコーヒーを飲む、「おもはせコーヒー」。
食の「遠近法」を失わないためにも、試してみてはいかがでしょうか。
話すことと書くこと
古代から、書かれたものよりも実際に聞いた話の方が真理の基準である、とする考え方があります。
私は文章を書くことが好きなので、Instagramやnoteでこうして書いているわけですが、やはり会話の中でしか得られない学びも多くあります。
正直、私はかなりの出不精なので、出掛けるときには必ず「家にこもりたい」欲求が強くなります。ですが、帰宅後はおおよそ、「人と話せて良かった」と思います。なんだか不思議な感覚です(笑)
ルーティーン化、その先に
人間の行動をルーティーン化することによって、ある程度、メンタルの安定化に寄与すると思います。
コーヒールーティーンは、個人的にはかなりメンタルの安定に繋がっています。
ただ、全てをルーティーン化することは、そもそもできませんし、想像するだけで息苦しさを感じるでしょう。
では、私たちが行動をルーティーン化するのは何故か。
それは、一つはメンタルの安定ですが、もう一つは、逆説的に、自由な思考、行動をするためだと思います。
実際、コーヒーをゆったりと飲んでいると、様々な思考を浮かびませんか?
ルーティーン化=秩序化することで、自由な思考=逸脱が生まれる。
この、秩序と逸脱のせめぎあいが、私たちの生活を豊かにするのではないかと思います。
『小さく飽きる』の大切さ
私は、いつも情熱的で、一つのことに一心不乱に取り組む方をみると、ルサンチマンを感じずにはいられません。
そう感じる理由は、取りも直さず、私自身が「熱しやすく冷めやすい」からなのでしょう。
ですので最近は、「小さく飽きる」ということを心掛けています。
「飽きた」センサーを敏感にしておき、「あれ、ちょっと飽きてきたな」と感じたら取り組むのをやめてしまう。熱が冷めきる前に作業をやめていますから、時間が経つとまたやりたくなってくる。
まあさすがに、仕事だとそうはいきませんが。
でも、そのように意識してから、趣味が長く続くようになりました。
『小さく飽きる』の大切さ。参考までに。
ニーチェから学ぶ健康の定義
最近は、医療文人学に大変興味をもっています。
人間が病気とどのように向き合うか。
これは理学療法士という職業柄よく考えることです。
そして、そもそも健康とは何か。病気とは何か。
もちろん、WHOにおける「健康の定義」はある。
ただ、個人的には、一人一人が大切だと考える、健康の定義があってもいいと思います。
そうしたことを考えるうえで、哲学は、非常に良質なヒントを私たちに与えてくれます。
ニーチェから学ぶ健康の定義。私なりに解釈すれば、それは、「何かに挑戦していること」です。
疾患に有無に関わらず、何かに挑戦している人は健康である。
疾患、老化、死。これは、どうしても避けられません。
でも、何かに挑戦することは、自分でコントロールできますね。
むしろ、疾患、老化、死を抗えぬものと理解し、実際に疾患等に直面しつつも何かに挑戦する人こそ、「真の健康」といえるかもしれません。
そして、疾患をもつ方が、何かに挑戦できるようーつまり、「健康」になるようーに支援する。
これが、理学療法士の一つの定義かもしれません。
少しでも参考になりましたら、サポートして頂ければ幸いです。