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演じている。自分が見ている。#本とエッセイ『舞台』

そろそろ気合いを入れ直しときましょう。
どうも、コーシです。

”10代の頃”と言う言葉を使えるようになったので、使ってみる。

10代の頃、というか思春期の頃、自分の声がとても嫌いだった。それは声質や、声の高さではない。自分の声の変幻自在さが嫌いだった。
特に声変わりをしてきた時はとても聴いていられなかった。

家族といる時は、少し高い声が出る。
友人といる時の声は、まぁうるさく無い程度の声。
先生と話す時は、ちょっと透き通ったような声。
好きな人や気になっている人と話す時は、思いっきり低い声。

自分の意識の外側から操られるように変わる声がとても嫌だった。と言うか、ひとりになった瞬間に客観視をしてとんでもない羞恥に襲われていた。

あと単純に、好きな子と話す時に声が低くなる自分が気持ち悪すぎる
今頭の中でその声を思い出して再生すると、なんかもう、犯人の声。顔にモザイクがかかっていないと説明がつかないほど低い声だった気がする。

おそらくこの違和感というか羞恥心に気がつき始めた時は、ただただこの声に対してのみ、嫌悪感を抱いていた。
しかし今(ここ2年くらい)になって気がつくのは、その嫌悪が行き着く先は”声”を経由して、自分の精神性だったのだと思う。

なぜ声が変わるのか。
もっと踏み込もう。なぜ、「演じているのか。」

誰かに評価されているわけでも無いのに。
でも不特定多数の人間に嫌われたくないと感じてしまうのが正直な心で。
しかし声が変わったからと言って話す内容や人格が変わるわけでも無くて。

好きな子と話している私は”ダンディー”を目指していたのだろうか。だとしたら中学生女子に”ダンディーを好きになる感性”を求めている自分にも鳥肌が立つ。


まぁ冷静に考察し表現すると、”それっぽさ”から生じる様々にがんじがらめにされていた(いる)、ということだろう。

自由奔放に個人の生活の中で人と接する人になりたいと思いつつ、”子供らしさ”や”同級生らしさ”、”生徒らしさ”、”ダンディーらしさ(?)”に縛られる自分。

上記の”それっぽさ”を意識するあまり、真似事感、演技感が滲み出てしまう自分。

”それっぽさ”によって構築されていく環境で過ごす自分。

こういった、客観している側の自分とされている側の自分のギャップを目の前に突きつけられた時、とんでもなく恥ずかしくなっていた。

多分これはほんの一例に過ぎなくて、これまで幾度となく気が付かないふりをし続けてきた自覚がある。
それをし過ぎて麻痺をした自覚もある。

そんなことを言っている今も、ふとした時に”それらしいことを語るエッセイスト”や”それらしい絵を描いているアーティスト”、”20歳”になりきれない自分に恥ずかしさを抱くことを避け続けている。
”遊び半分”という割には真剣にやっていることにも気が付かないようにしている。

それに気づいてしまったら、私は公開ボタンを2度と押せなくなってしまう

てか、多分、気づいてる、、。

いや、ここは気づいていない程でいないと、、。

いやいや、俺は”本当に”気がついていない、、。

いや、いやいや、いやいやいや、、。

おそらくこの感覚は一生麻痺しないだろう


人は「誰も見ていないよ。」と言う。

オードリー若林のエッセイから言葉を引用させてもらう。
「自分が見ている。」

世の多くの人は、恥ずかしさと言う感情は第3者がいて初めて生まれる感情だと思っているのでは無いだろうか。
私に関して言えば絶対に違う。

恥ずかしさなんて結局はいつも自己完結なのだ。
相手すらいらない。
自分がモニターで自分を監視して、恥ずかしくなったら「今、恥ずかしいですボタン」を思いっきき押す。そして自分の中で大きな警報が鳴り響き、羞恥と自己嫌悪にさらされる。

なんなら、相手や第3者がいることで、”なにか”には属すことができる気がするので恥ずかしく無いのかもしれない。

私は宙ぶらりんで、どこかにしがみついていて、それでいて平気な顔をしている自分に対して最大限の羞恥を感じるのだ。


この本を読んで、初めてこの部分にたいじさせられた。いやでも向き合わなければならなくなった。
くっそぉ、そうなんだよな、、。と何回心で呟いただろうか。

以前、『人間失格』を読んだ時に公開したエッセイ。
今はその存在がとんでもなく恥ずかしい。

 フクダコーシ しそとツナ缶。
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