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ダサさ。

夏宣言(ガチ)。
どうも、コーシです。

ここ最近のエッセイネタ不足はというとそれは絶望的なものなのだが、文章を書き終えた時のスッキリ感だけを求めて今日もタイピングしている。

なぜ、ここまで書くことが見つからないのか。
この疑問に対するアンサーの今回はかなり簡単なところにある。

それは”偉そうに語れることが何もない”ということだ。
私は”偉そうに語る”という文言を決してネガティブなものとは思わない。
それだけ自信を持って話せることがあるということは、人生において誇れるものがあるということだ。
よく「自慢話や昔話ばっかりするやつは〜」のような知らん人から知らん人への批判があるけれど、人の人生の話を常に面倒や厄介としか思えない側の感性を疑う必要もあると思う。
正直うざったいと思っちゃう時もあるけど心に余裕があるならできるだけ学びたい。

さらに言えば、昔話や自慢話をしてその場が保たれるその人が羨ましい。
もはや最近焦りすら感じ始めている。
お酒を堂々と飲める年齢になったものの、ジョッキやワイングラスを片手にして語るのに似合うエピソードなんて一つもない。
私が語れるエピソードに似合う姿勢が”手はお膝”状態だ
対面に座る人間はオーラ等の魅力諸々を奪われたモナリザと話している気分になること間違いない。


かなり挑戦とまでは言えない程度に色々なことに手は出している。
故に議論は新しい結論は新たな場所に着地する。
”ネタはあるが偉そうに語れる代物じゃない”のだ。
あんまり大きいことが言えない、というか全て若干ダサい。
そういえば残念ながらダサいエピソードに関してネタに困ったことは無い

でももういい加減さ、ダサさで勝負したくないのよぉ。
シャレオツに歩いて、シャレオツに自分と世の中を分析して、シャレオツに楽しいことを楽しんで、シャレオツな知識を蓄えて、シャレオツなカフェで、シャレオツに座りながら、シャレオツな文章を書きたい。
しかしそこには圧倒的な自信と誇りが必要なのだと思う。
仮にシャレオツな日があったとしてそれを文章にできる自信がない。
そして等身大を認めてくれと叫べるほどの思い切りもない。

”自信と誇りがある風”に生きることは得意だと思う。
そういう人に憧れて、真似してきたから。
ただ、中身を文章にしたり絵に描いたりするとなると、オリジナルで勝負するとなると、ダサさを伴った何かで勝負するしかない。
ダサさで勝負を申し込んだ試合は絶対にかっこよくなることは無い。

そんなダサさを詰め込んだエッセイを書いて、たまに気に入った文章が書けると”個人的な推し記事”としてマガジンに登録するのだが、あのマガジンに登録されているエッセイは軒並みスキ数が低い
もう、八方塞がりじゃないか。
あのマガジンに登録されているものが諸悪の根源な可能性がある。
こうなってくると自分のダサい/シャレオツの感性すら信じられない。
そうなると文を書くなら自分のことを書くしかない。

やはり先人たちは偉大だ。
こうやってグダグダ考えても、結局行き着くところは”続けるしかない”、なのだ。
”続けるしかない”という、誰もが言われた、感じた、言った事柄を理解するのにさえも、こんなに考えなければいけないのか、俺は。


いつか、誰かの心を射抜くその時が来るまで、noteにはダサい格好でしがみつこう。
ここまで続けてしまった以上引き返したくない、と言うダサめな理由を添えて。
いつか程よくスマートな、シャレオツな大勢でしがみつけるその日まで。

 フクダコーシ しそとツナ缶。
 Instagram @f.kohhhhhshi_(アート投稿中!)
 Twitter @FKohhhhhshi


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