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戦国時代や飢饉のあった鎌倉時代、室町時代では、貧乏な農家は口減らしのために子どもを売り飛ばしたり、捨てたりするのが常識でした。働けなくなった老人も同じです。山に捨てる姥捨山という風習があったのです。

現代の姥捨山

2042年、日本は少子高齢化と経済格差が深刻化していた。働き盛りの世代は、低賃金と長時間労働に苦しみ、子育てや介護を両立させることは困難を極めていた。一方、働けない高齢者は、年金や医療費の負担が重くなり、生活に困窮する人も少なくなかった。

そんな中、政府は「高齢者支援法」を改正し、働けない高齢者を専門の施設に収容する制度を導入した。この制度は、高齢者の生活を支援するという名目で行われていたが、実際には、高齢者を社会から隔離し、経済的な負担を軽減するためのものであった。

ある日、東京都内の高齢者施設「希望の家」に、80歳の女性・佐藤千代子さんが収容された。千代子さんは、夫を亡くし、一人暮らしをしていたが、腰痛の症状が進み、一人で生活するのが難しくなったため、施設に入所したのだ。

希望の家は、老健施設と介護施設を併設した大型施設で、入所者は約100人。施設内は清潔に保たれており、職員の対応も丁寧だった。しかし、千代子さんは、施設にいることに違和感を感じていた。

千代子さんの周りには、認知症や身体障害で寝たきりになった高齢者ばかりだった。彼らは、施設のテレビやゲームを楽しんだり、職員と会話したりしていたが、千代子さんは、彼らと心を通わせることができなかった。

千代子さんは、施設の外に出たくても、外出許可がなかなか下りなかった。職員は、千代子さんを外出させることで、何か問題が起こることを恐れていたのだ。

千代子さんは、施設で一日一日を過ごすうちに、だんだんと生きる気力を失っていった。彼女は、施設の窓から外を眺めながら、昔を思い出していた。

千代子さんは、裕福な家庭に生まれ、幸せな家庭を築いていた。しかし、夫の死後、彼女は一人ぼっちになり、孤独にさいなまれるようになった。腰痛の症状が進み、一人で生活するのが難しくなった時、彼女は施設に入所することを決意した。

しかし、施設に入ってからは、ますます孤独感が増していくばかりだった。千代子さんは、施設から出られない自分を、姥捨て山に捨てられた老人のように感じていた。

ある日、千代子さんは、施設の廊下で、ある老人と話をした。その老人は、千代子さんと同じように、腰痛で施設に入所していた。しかし、その老人は、千代子さんと違って、明るく前向きな性格だった。

老人は、千代子さんにこう言った。

「ここにいても、何もすることがないなら、外に出てみたらどうだい?きっと、何か新しい発見があるよ。」

千代子さんは、老人の言葉に勇気づけられ、外出許可を申請した。職員は、千代子さんの外出に反対したが、千代子さんは、どうしても外に出てみたいと訴えた。

そして、ついに、千代子さんの外出許可が下り、彼女は施設を出て、街に出た。

千代子さんは、久しぶりに街を歩き、人々の笑顔や、街の活気に触れ、心が癒された。彼女は、老人の言葉を思い出し、何か新しいことを始めようと思った。

千代子さんは、施設に戻った後、ボランティア活動を始めることにした。彼女は、引きこもりの人の支援ボランティアをSNSで始めたのでした。

外の世界をSNSでリアルに発信することで視野を広げてもらい価値観を尊重することを伝えたかったのです。

ボランティア活動を通して、千代子さんは、自分の存在意義を見出すことができた。彼女は、一人ではないことを知り、生きる希望を取り戻すことができた。

千代子さんは、これからもボランティア活動を続け、SNSを通じて希望を与えていきたいと考えている。

現代の姥捨山は、表面上は生かされていますが、それは、医療や介護などと名を変えた姥捨山なのです。しかし、千代子さんのように、希望を持って生きる人もいるのです。