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日々よしなしごと~習い事の楽しみ~

先週末から連休のイベントも含めて習い事が続いた。
先週はこのnoteでも書いた「金継教室」、連休最後の日は、お茶仲間たちと主催した一日限りの陶芸教室。基本的には抹茶茶碗を作るという企画。
お弁当も準備し、ランチの後はお菓子にお抹茶を楽しんでいただくというもので、昨年も実施した人気の企画だ。
作陶は、主催する私たちがやりたいことで、どうせなら参加者募集して、お茶もお出ししよう!ということから始めたことだった。
この写真は、外に椅子を持ち出して黄金色の田んぼを眺めながら、お弁当を召し上がっていらっしゃるところ。なんとも穏やかな平和な風景だったので
拝借。

私も、またまた無謀にも光悦の茶碗をお手本に作ってみたものの、ものの見事にどんくさい姿の茶碗になってトホホな作陶であった。
しかし、それはそれで楽しい時間だったし、登り窯で焼かれてくるのを心待ちにしようと思う。

翌日は習字教室。
そう前回のnoteで書いた美老女の大先輩もいらっしゃってましたよ。
もちろん、私などはほとんど小学生と同じようなお手本を見ながら、教室で一時間と少し集中して書いて、先生に提出してチェックしてもらう。ただこれだけのこと。
私の場合は、いわゆる段を目指すのではなく、とにかく筆で字を書くことに慣れて、少しでも美しく書けるようになりたいだけ。細字の練習もしているが、これはもっぱら家での宿題にしている。

その翌日は、月に2回のお茶のお稽古。
以前は月3回だったが、今は諸事情で2回で隔週のお稽古なのだ。20代の時に10年ほど稽古に通っていたが(今の先生とは別の先生の下で)、結婚や出産を機に一旦離れていたが60歳から再開。
まさに60の手習いなのである。
お茶の世界は元々好きで、若い時と違ってただお点前の作法を極めたい、というより、今はお茶の世界をより深く知りたいという気持ちが高まったように思う。
だからこそ、流派を超えたお茶仲間との出会いをあえて作り、その仲間たちと小さな茶会を開催するようになった。

実は、習字をやりたいと思ったのもお茶を始めたからなのだ。
というのも、お茶の習い事の最終目標ともいえる「茶事」(懐石料理と濃茶席と薄茶席でもてなすこと)をする際、招く側も招かれる側も、まずは巻紙による手紙のやり取りから始まると知った。
そんな本格的な「茶事」に招くことはもちろん、招かれることも正直あるかどうかすらわからない。それほどの達人の茶人たちによる究極の茶の楽しみ方なのだから・・・しかし、それでもお茶を学ぶことは、それにまつわるいろんなこともある程度できるようになりたい・・・
ということで、筆で字を書くことなど大の苦手だったのを少しでも克服して、せめて自分の名前と手紙くらいはなんとか書けるくらいになりたい、と一念発起して習い始めたのだ。なので書道を極める?のは私の目指すところではないので、とにかく愚直に習字に徹することにしたのだ。

とはいえ、書も始めてみると味わい深いものだと、こんな私にも少しはわかるようになった。
美術展で書の軸など、結構見るようになったかも(読んでみようという気になったというか)

金継も茶の湯から始まったと以前に書いたけど、茶碗づくりも、当然名作を多く作った光悦などの茶碗をよく見るようになって、その美しさが少しは自分なりにわかってきたから・・・なんてカッコイイけど・・

つまり、私の習い事はお茶を共通項としているという訳だが、とはいえ教えてくださる先生方は別々だし、教室の方たちも全くかぶらない。それぞれの空気というか世界の中で学び、それぞれのグループの人たちの中で交わされる会話の内容や情報も違っていて、これがなかなか面白いのだ。
よく、習い事での人間関係について悩む人もいるが、適度な距離感をもって関わることが一番心地よい関係性をつくコツかなと思う。

ある方に、いっぱい習い事してるんだね!って言われたけど、確かにそうだなあと思う。でも、最近は「能」にもかなり興味関心が湧いてきたので、どうしようかと思い始めているが・・・・
時間を作ろうと思えば作れないこともないが、節操ないかな?とか、お金もかかることだしね~・・・・・

習い事の楽しみ方はいろいろだと思う。私の場合は、お茶をベースにしてその展開形の習字や金継になるが、やはりそれぞれの奥行と深さもあり、簡単に習得などできないことも、習い事の大きな利点だと思う。
自分なりに目指す高みを仰ぎつつ、先生という大きな第三者からの導きや、達人たちの技を知ることは、自分の生き方をとても謙虚にするし、顧みる鏡にもなる。

でも何と言っても、楽しい!!!というのが一番のモチベーションなのだ!
60の手習い、オススメ!

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