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坐禅とシステマが似すぎている 関係性を整えるという考え方

禅僧の藤田一照さんとシステマ東京・北川さんの対談の第二弾。具体的な坐禅の考え方について説明しているのですが、坐禅でやっていることをマーシャルアーツとして表現しているのがシステマなんじゃないかと思うくらい、共通点が多いです。というか、ほぼ同じです。

似ていると思った点
・坐禅の「調身・調息・調心」の考え方は、関係性を整えること。姿勢は床との関係性、呼吸は空気との関係性、心は感覚器官の関係性(五感+脳)を整える。
→システマでやっていることも状況へのアジャスト。

・普段の生活では思考に偏り過ぎているので、身体感覚を無視している。そのアンバランスを直す
→まさしく(笑)。

・五感から入ってくる情報をいちいち言語化しない。耳から入ってくる音を「車の音だな」とか考えず、ただ音として受け入れる
→いちいち思考すると思考に偏りますもんね。

・自分を出さない。姿勢をまっすぐしよう、という意志力・思考の命令はいらない。余計なことをしない。more lessの考え。
→ここが一番根っこの部分でシステマと同じだなと思いました。自分の身体感覚を信じるというか、任せる・委ねるというか。自分の力で何でもできるような気になっているけど、心地よい姿勢にしても呼吸にしても身体が最初から答えをしっているわけだから、邪魔しないと。

・重力と良い関係性を保てるように、骨で座る。筋肉は運動器官にせず、骨の良い位置を微調整するハンドルのようなものと思う。重力に従って正しく体をぶらさげる。腕の重さも坐骨にコネクトさせる。
→坐禅の場合は座りながら、余計な筋肉の緊張に気づく、かといって筋肉の力を抜きすぎないという状態を見つけているのですね。

・坐禅中は止まっているように見えるけど、身体は動いて揺らいでいる
→止まっているけど動いている、も同じですね。

・普段は「俺が生きている」が前面に出ているけど、坐禅中は感覚を味わって「俺が生かされている状態」にずっと浸る
→これも大事だなぁと思いました。自分を出さないとセットになっているのかなと。システマや日常生活でもこれができている時は心が安心します。

こう見てみると、とってもシステマっぽいですね(笑)。
違う点で面白いなと思ったのは、脳(思考)の考え方です。

システマでは脳は感覚器官で受信した情報を受け取る場所と考えますが、仏教では脳も感覚器官の一つとして捉える考えがあるのは面白いなと思いました。身体全体から湧き出る思考をキャッチする受信器官という位置づけらしいです。

そう考えると、普段は脳という受信器官が過剰に働き過ぎているなと思います。目は閉じれば休まりますが、耳や脳は起きている時は稼働しっぱなしですし。耳もたまに両手でふさいであげるのもいいだろうし、脳はもっと休ませてあげたほうがよさそうですね。

逆説的ではありますが、意志力を使わないようにするというのを、訓練(修行?)するには意志力が必要かもしれません(笑)。ロシアは東洋的でもあり西洋的でもある国だなと思いますが、仏教的な東洋思想と深いところでつながっているのだなぁと。そんなことを考えました。

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