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短編小説「アリのままで」

最寄り駅からほど近いところに、行きつけのバーがあった。そのバーは古ぼけたビルの二階にある。酒飲みの知り合いがそこを教えてくれなければ、今も廃墟だと思って通り過ぎていたことだろう。


 店内はほの暗く、ありとあらゆる種類の酒の空き瓶がインテリアとなって、小さな光源を互いに分け合うように反射させていた。
「となり、いいでしょうか?」
 声をかけてきたのは一匹のアリだった。
 スーツを着崩したアリは落ち窪んだ目で力なくこちらを見つめている。
「もちろん」
「ありがとうございます。それでは」
 アリはカウンターに向かい深々とお辞儀をするように私の隣の席につく。
「お一人ですか?」
 僕はアリにそう言った。それほど興味があったわけではない。
「はい。あなたはよくここへは来られるんでしょうか?」
「たまに。ここへ来るとたいていの場合、誰かと話すことができるので」
「つまり孤独を紛らわせにくる、と?」
「そうですね。今日は平日でまだ早いのであまり人はいませんが、そんなときでもあそこのバーテンはよく話を聞いてくれます」
 僕はカウンターの向こう側で注意深くグラスを磨く中年を視線で指した。
「それはいい。私もこれからちょっと通いましょうかね」
「ぜひ。僕でよければ話し相手になりますよ」
 アリはビールグラスについた滴を丁寧に確認するみたいに見つめていた。


「実は今の仕事を辞めようと思っていて」
「ほう。失礼ですが、お仕事は何を?」
「詳しくは言えませんが、一般的には中間管理職と言われてるようなものです。上からの要望を下に伝え、下からの文句をもみ消す。そういう仕事です」
「つらい役回りですね。仕事と言うのはある種みんなそうとも言えますが」
「ええ。仕事とは言え、誰かに不満をぶつけられるというのは胃に穴が開くような思いがします」
 アリはぬるくなったビールを一気に飲み干して、バーテンにウィスキーのロックを注文した。
「子供のころ、自分はなにか特別なものになれるような気がしていました。人と違う、みんなから認められるような存在に。しかしそれがなんなのかは分からなかった。根拠も何もないまま決断を先延ばしにして、気づいたら自分が子供を育てていた。日々ただ業務をこなし、上や下からのプレッシャーだけで日々が巡っていく。そんな毎日です」
「それも立派なことだと思います」
「ええ、今までストレスに潰されそうになる日は砂風呂にでも行って、そう言い聞かせてきました。自分は立派に責任を全うしている。貢献しているんだ、って。でももうそれも限界になりつつあります」
 アリはバーテンからウィスキーのグラスを受け取り、丸い氷の表面を唇で薄く舐めるように口をつけた。
「それで仕事を辞める、と」
「はい。しかしその覚悟もいまだ定まっていない。息子はまだ小学二年生です。これからもっと大変になることだってある」
「何をするにせよ子供はお金がかかる」
「けれどそれには終わりはあるのか、と。息子が大学に行って卒業して家を出て就職する頃には、私にできることなどどれだけ残っているか。それを考えると……」
 アリはそこで言葉を切って、淡いブルーの生地のネクタイを少し緩めた。そのあいだ、僕は黙ってグラスの中心に浮かんだ古びた地球儀のような氷を揺らしていた。


「僕の意見を言ってもいいでしょうか」
 アリは何も言わなかったが、目線はこちらを向いていた。
 それで僕は話を続ける。
「あなたはさきほど、“貢献”という言葉を使いましたが、僕には自分が何をしていてもなにかに貢献している、という気がします」
「何をしていても?」
「あなたのように誰かのために働くことはもちろん、今こうしてバーで酒を飲んでいるのだってそうです。人はどうあろうと、なにかに貢献せざるをえない。たとえ砂風呂に入っている瞬間でさえも」
「ここで私が何に貢献しているというのです?」
 僕にはアリの瞳の輪郭が先程よりはっきりしているのが見えた。
「ここに座っている以上、バーの売上に貢献しています」
「売上に」
 アリは自分の目の前に置かれたグラスをまじまじとみつめた。
「それと僕に貢献しています」
「あなたに?」
「ええ。僕は歌を書いています。歌は人と出会わなければ書くことはできない。ここであなたと話したということは、僕の歌に何かしらの変化を与えるでしょう。もしかしたら主人公として描くかもしれないし、脇役として道ですれ違ってもらうかもしれない。でもそれは紛れもなくあなたがもたらした変化です」
「なるほど」
 アリはスツールに深く腰掛け直した。それが軋んだ音がやけに大きく響いた気がした。
「だから僕はありのまま生きればいいのだと思います。その責任を負えるのは自分だけなのですから」
「ありのまま……少し考えてみます」
 僕たちはグラスにわずかに残る薄まったアルコールを飲み干した。


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