篠田泰之

刃物研ぎ職人の小生は、その巡業の傍ら、積年の疑問「日本は、幕末、なぜ植民地化を免れたか…

篠田泰之

刃物研ぎ職人の小生は、その巡業の傍ら、積年の疑問「日本は、幕末、なぜ植民地化を免れたか」を解き明かす為、歴史探訪に分け入った。するとそこで驚いたのは、未発掘の偉人や曲解された賢人が多くいること。歴史教育の欠陥か、それとも無頓着な国民性か。ここに、ささやかながら一石を投じるもの。

マガジン

  • 『ベッテルハイム伝-三百年の禁教政策を破る聖書一冊』

    ベッテルハイムと言う人物を尾張の漂流民音吉研究の途次知りました。彼はペリーが日本へやって来る7年も前に、沖縄(琉球)に入ったキリスト教宣教師です。彼は布教の傍ら聖書翻訳、それに医師として種痘の確立など、大きな足跡を残した人です。彼はその後、日本本土への宣教師となることを目指しましたが、終生かなえられず。アメリカの地で亡くなっています。しかし彼はその地にあっても、維新後の日本に、少なからぬ影響を与えていることが分かります。 彼の生涯は、イレギラーで予想がつかずまさに波乱万丈なものでした。彼を調べていくと、そこにはぴたりと寄り添い、力強く支えるバーリック夫人の姿が際立って見えてきます。正に良妻賢母のお手本のような姿が。今では微妙な表現のこの四文字熟語ですが、何をか況んや、彼女こそ夫の才能を信じ、支え切ったあっ晴れな生涯でした。彼女の内助が無ければ、今の日本はないのかも知れません。

  • ベトナム滞在記『アメリカに勝った国負けた国』

    今から、かれこれ18年前のこと、ベトナムに1年間程滞在しました。その時、せっかくの機会なので何か記念になるものを残したいと考えたのがベトナム滞在記。その途次、出会ったのがファン・ボウ・チャウというベトナムの偉人でした。ベトナムには、建国の父とよばれる人物が二人います。一人はホー・チ・ミン、もう一人がそのファン・ボイ・チャウという人物です。我々は、ホー・チ・ミンはよく知るところですが、ファン・ボウ・チャウのことはほとんど知りません。ところがこのファン・ボウ・チャウは、ベトナムの建国の父であるとともに、日越友好の礎を築いた先達なのです。この『アメリカに勝った国負けた国』は、未知の世界に迷い込んだ世間知らずの小生が彼ファン・ボイ・チャウに出会うまでの道中記です。人生黄昏時を迎えた現在、チャウを知っていただくことにより、日越友好のお役に立てるのではないかと考え、ここに公開することとしました。

  • 音吉伝――知られざる幕末の救世主―― 改訂版

    三浦綾子著『海嶺』に出会い、江戸末期の漂流民音吉を知った。こんな偉人が埋もれていたとは今更ながらに驚いた。彼の地に日本の民主主義を芽吹かせた音吉、グローバル化の時代、音吉は時空を超えて語り掛けているようだ。今こそ我々は「音吉を学び、音吉に学ぶ」ことが必要では。

最近の記事

『ベッテルハイム伝』 第5章「パリ発“高札を撤去せよ”」

(1) 岩倉遣欧使節団① 「五榜の掲示」の高札 1873年(明治6)2月24日、日本ではその日「五榜(ごぼう)の掲示」の高札が取り払われました。 この「五榜の掲示」とは、明治元年に新政府が江戸幕府からの政変で、民衆の動揺を抑えるために、太政官(現在の内閣府に相当)より発せられた生活規範五箇条(五札ともいう)です。 その五箇条とは、 第一条、基本的な道徳すなわち五倫の道の奨め。 第二条、徒党・強訴・逃散の禁止。 第三条、切支丹邪宗門の禁制。 第四条、外国人への殺傷の禁止。(

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    • 『ベッテルハイム伝』第4章「アメリカ移住」

      (1)波紋を呼ぶアメリカ移住① バミューダ寄港 ベッテルハイム一家を乗せたソフィア・バーベジ号は、1855年2月、バミューダに寄港します。これは船体補修のためであり、少し時間がかかるようです。 香港を出てより、これでイギリスに帰るのかと思うと、どこか釈然としないものを感じていたベッテルハイムは、この機会に、アメリカへ渡り様子を窺うことを思いつきます。 それは、琉球にて終始、好意をもって接してくれたペリーに、今一度会えないだろうかと脳裏をよぎったのかも知れません。 そんな彼

      ¥300〜
      • 『ベッテルハイム伝』第3章「ペリーの琉球来航」

        (1)キングの提言をたどるペリー① イギリス国旗にびっくりのペリー艦隊 「なんだ、あれはイギリス国旗じゃないか。」 旗艦サスケハンナ号は、最初の目的地、琉球の那覇港に徐々に近づいていました。甲板に並んだ隊員が岸の様子を食い入るように見つめています。そして、いよいよというその時、岩の上にイギリスの国旗が掲げられているのを見つけてびっくりします。 アメリカ東インド艦隊(以後、ペリー艦隊)の司令長官カルブレイス・マシュー・ペリー(1794-1858年)が琉球那覇港に到着したのは

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        • 『ベッテルハイム伝』第2章「琉球の布教活動」

          (1)琉球事情緑に映える島々を通過するたびに、沖縄本島が間近なことを告げています。海もエメラルドグリーンに輝き、多くの西洋人を魅了した風景がベッテルハイム一行の心を弾ませていきます。 ベッテルハイムは、琉球を目前に「神の教えを導く夢の実現がもうすぐ始まるのだ」と、パイオニアとしての名誉を心に刻み、胸の高揚を覚えたことでしょう。 ベッテルハイムは、香港を発つにあたって、まとめた目標を改めて反芻します。 それは、(1)病院の開設  (2)キリスト教の布教 (3)洋式学校の設立 

          ¥300〜

        『ベッテルハイム伝』 第5章「パリ発“高札を撤去せよ”」

        ¥300〜

        マガジン

        • 『ベッテルハイム伝-三百年の禁教政策を破る聖書一冊』
          6本
          ¥1,000
        • ベトナム滞在記『アメリカに勝った国負けた国』
          4本
        • 音吉伝――知られざる幕末の救世主―― 改訂版
          14本
          ¥1,500

        記事

          『ベッテルハイム伝』第1章「琉球への目覚め」

          (1)ベッテルハイムの略歴ベッテルハイムは、1811年6月、ハンガリーはプレスブルグのユダヤ系商人の家に生まれました。父親は厳格なユダヤ教徒の商人で、わが子を将来、ラビ(ユダヤ教の聖職者)となることを願い、幼くしてその学校に通わせます。 彼は期待に応えて、その学校で才能を開花させます。特に語学の習得は驚くばかりで、わずか9歳にしてヘブライ語、ドイツ語、フランス語をマスターしていたと言われています。 その後イタリアに出て、当時、医学において先端を行くイタリアのパデュア大学に入

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          『ベッテルハイム伝』第1章「琉球への目覚め」

          ¥300〜

          「ベッテルハイム伝」はじめに

          大政奉還により誕生した明治新政府は、建国の精神に純粋な国家神道を標榜します。そのためにキリスト教は旧来の禁教政策を維持するとともに、外来宗教である仏教まで排斥の対象を広げ、廃仏毀釈運動を断行しました。 仏教の場合、さすがにニ、三年でその運動は下火となりますが、キリスト教の場合は依然として厳格に禁教政策が行われていました。 それが明治6年2月24日、そのキリスト教の禁止条例がこの日を以て解かれることとなります。それは、各地各所に設けられた、いわゆる高札場から、それを記す、いわゆ

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          「ベッテルハイム伝」はじめに

          『アメリカに勝った国負けた国』第3章 「日本に楔(くさび)を打ったフアン・ボイ・チャウ」

          (1)ベトナム紀行① ベトナム人の心はどこから ハノイの街路樹は、4月になると、一斉に新旧の葉を入れ替えます。この地では、この季節になると、今までの霞を流したようなどんよりした景色から一転し、眠りから覚めたように、街路樹が活動を早めます。紫のバンランの花に混じって真っ赤な火焔樹(かえん樹)の花やホアデェップの黄色い花が天に競うように咲き誇り、いよいよこれから南国の長い夏が始まることを告げます。 外国であるベトナムに来て、当初抱いていた「順応できるだろうか。」の心配は、どう

          『アメリカに勝った国負けた国』第3章 「日本に楔(くさび)を打ったフアン・ボイ・チャウ」

          『アメリカに勝った国負けた国』第2章 符合するベトナムの歴史、日本の歴史

          (1)ベトナムの概要ベトナムは、地図上ではインドシナ半島の一部であり、東南アジアとして近隣のラオス、カンボジア、タイといった国々(地域)からの影響や結びつきが強いように感じていましたが、実は、そのほとんどが中国との関係で成り立っている、と言っても過言ではないようです。 その原因のひとつには、ヒマラヤ・チベットの東から、やがてインドシナ半島の中央を南に縦断するチョンソン山脈に至る山岳地帯が壁となった地形上によるものと、二つ目には、やはり中国の国家形成が世界4大文明に数えられる

          『アメリカに勝った国負けた国』第2章 符合するベトナムの歴史、日本の歴史

          『アメリカに勝った国負けた国』第1章赴任一ヶ月 “何か”を感ずるベトナムの国民性

          (1)交通の百年の歴史を一度に見る交差点バイクの洪水とはかくなるものか、聞いては来ましたが目の当たりにすると、なるほど「洪水」と言う表現がよく当てはまります。まるで延々と続く青梅マラソンのスタート風景を見ているようです。いったい向こう岸に、どうして渡ったらよいのでしょう。彼らには、他人のミスも、車のトラブルも全く想定外です。流れこそが最も重要な交通ルールなのでしょう。しかしながらよく見ていると、暗黙の了解があるようです。目配せしながら意思表示を先にしたものが尊重される、究極

          『アメリカに勝った国負けた国』第1章赴任一ヶ月 “何か”を感ずるベトナムの国民性

          ベトナム滞在記「アメリカに勝った国負けた国」 はじめに

          ベトナムより帰って、早4年が経とうとしています。この時期に、このベトナム滞在記の製本を思い立ったのは人に進められたこともありますが、本という形にして残しておきたいと思うようになったからです。それは、4年経った今も、自分がしたためた文章が一過性のものでなく、陳腐化していないのではないか、と思ったからです。 ベトナムは、今や急速な流れの中にあり、私が滞在した1年と言うものは、あっという間に過去のものになるのではないかと思っていましたが、どうも様子をうかがってみますとそうではないよ

          ベトナム滞在記「アメリカに勝った国負けた国」 はじめに

          『音吉伝』改訂版あとがき

          ◎「初版あとがき」から2012年3月26日、日本の新聞各紙は、東日本大震災による津波で流された第11漁運丸の漂流を伝えました。錆にまみれて痛々しい姿でカナダ沖を漂流する第11漁運丸、これを一期に書き始めた音吉物語も、約8年の歳月を費やしてようやく完成の運びとなりました。 音吉の追及を進めていて気が付いたことは、書き始めた頃と「あとがき」を記す今とでは、音吉の評価で大きな認識の違いを感ずるようになったということです。 それは、当初は音吉の極限の辛苦に耐えきった精神力や、日本で

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          『音吉伝』改訂版あとがき

          第10章  音吉の遺言

          (1) 音吉二世と日本人商人 渾大防益三郎、燈火の認(したた)め 1877年(明治10年)4月30日夜、ここは上海の宿、塩業家の渾大防益三郎(こんだいぼうますさぶろう=1842-1914年)は、その日あった出来事をランプの明りを頼りに書状を認めていました。宛先は瀬戸内備前浜の塩業家を束ねる盟主、野﨑武吉郎(1848-1925年)です。 彼にとって、前年に続き2度目の中国訪問です。前回は、益三郎は塩の販路の拡大を図るべく訪中していました。今回の益三郎は、塩の販売に限界を知っ

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          第10章  音吉の遺言

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          第9章 モリソン号ショックの人々

          (1) 親日家を生むニューイングランド① 波紋を呼ぶ『モリソン号航海記』三誌 19世紀に入り、日本近海の太平洋の波は高く激しくなってきます。 それは、西洋の産業を支える鯨油の需要の急増に対して、北太平洋にクジラの好漁場が発見され、アメリカをはじめ西洋各国は競うように太平洋に進出してきたことにあります。 また、アメリカは米墨戦争に勝利し、国土が西海岸まで達します。さらにその新たな国土に金鉱が発見されて急速な発展を遂げ、アジアとの独自の航路を開いていきます。 北方からは、ロシ

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          第9章 モリソン号ショックの人々

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          第8章 ペリーの日本遠征に音吉の影

          (1)タイムアップ間近の開国20年タイマー① ペリー艦隊と渡り合う音吉 1853年5月17日、上海は、いつになく晴れ渡っていました。その快晴のもと上海港から、一隻の蒸気船の出航を、固唾を呑んで見送る日本人の一団がありました。 その蒸気船とは、アメリカ東インド艦隊司令長官マシュー・カルブレイス・ペリー(1794-1858年)の座乗する旗艦サスケハナ号(2,450総トン)です。彼は、アメリカ大統領の国書を携え『日米和親条約』締結の任務が全権委任の形で託されています。アメリカが国

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          第8章 ペリーの日本遠征に音吉の影

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          第7章 音吉の上海時代

          (1)音吉の近況を伝える二人の中国人① 浪越巌の投稿記事から 時代は下って、1877年(明治10年)『大阪日報』( 現大阪毎日新聞の前進)9月13日号に、「今を去る20余年」と断ったうえで、音吉に関する投稿記事が掲載されました。 投稿は「在 大阪 陶亀仙史 浪越巌」なる、何やら曰くありげなペンネームの人物によるものです。その投稿記事を『奇談・音吉追跡』の著者田中啓介氏が口語訳にして紹介されています。それによれば、 このように浪越巌なる人物は、新しい時代を予見した20年前を

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          第7章 音吉の上海時代

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          第6章 日本最初の国際人誕生秘話

          それから、音吉が上海に腰を落ち着けるのは、1842年に締結された「南京条約」直後の頃かと思われます。 この頃音吉は、イギリスの有力な商社、デント商会に幹部社員として迎えられます。 モリソン号で日本を目指しながら、非情にも打ち払われ虚しく日本に別れを告げた1837年8月12日から、およそ数年後のことです。 音吉はそれ以後、デント商会を足掛かりに、縦横の活躍をしていきます。 当時、アジア各国を舞台に覇権を競う欧米人の社会は白人至上主義でした。彼らの認識では、有色人種が頭脳労働や権

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          第6章 日本最初の国際人誕生秘話

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