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『ベッテルハイム伝』第3章「ペリーの琉球来航」


(1)キングの提言をたどるペリー

① イギリス国旗にびっくりのペリー艦隊

「なんだ、あれはイギリス国旗じゃないか。」
旗艦サスケハンナ号は、最初の目的地、琉球の那覇港に徐々に近づいていました。甲板に並んだ隊員が岸の様子を食い入るように見つめています。そして、いよいよというその時、岩の上にイギリスの国旗が掲げられているのを見つけてびっくりします。
アメリカ東インド艦隊(以後、ペリー艦隊)の司令長官カルブレイス・マシュー・ペリー(1794-1858年)が琉球那覇港に到着したのは、1853年5月26日のことです。
土橋喬雄・玉城肇訳『ペリー日本遠征記』(以後単に『遠征記』と表示)第2巻第7章は、ペリー艦隊が入港したとき、全く予期しないイギリス人の出現を次のように伝えています。
「一軒の家の近くにある旗竿に、突如としてイギリスの国旗が揚げられたのが見えた。この家は牧師ベッテルハイム氏の住邸であった。」と。
ベッテルハイムが琉球入植して、ほぼ7年を経過した時のことです。
彼は、このアメリカの蒸気船2隻が帆船3隻を従えたその来航に、今までの外国船の寄港とは全く異質な雰囲気を感じ取ります。
この時のペリー艦隊の陣容は、蒸気船が2隻、サスケハンナ号、ミシシッピー号、それに帆船のサプライ号に石炭輸送船のブレンダ号とカプリース号、それに半日遅れてサラトガ号が終結するというもので、那覇港ではいまだかってない事態となったわけです。
轟音を轟かせ、両サイドの水車を激しく回転させて進む蒸気船2隻は、島民を驚かせるには十分すぎるほどでした。
『遠征記』第7章の冒頭は「艦隊は大琉球島の主要港たる那覇港内に徐々に停泊した。そして若し琉球が実際に日本の属領だとすれば、ここは遠征隊が日本の領土と接触した最初の地点であった。」と、誇らしげに記しています。
しかし、当時の西洋の認識は、琉球を日本の一部と見なしていたかも知れませんが、歴(れっき)とした琉球王朝の支配する独立国家でしたから、その表現は微妙なところと言わねばなりません。
そのペリーは、日本遠征にあたり、当初から琉球に重要な価値を見出し、最初の訪問地と決めていました。
それは、第1章「琉球への目覚め」で記したことと重複しますが、遡ること14年前に、アメリカのオリファント商会の経営者キングが著した『モリソン号の航海記』で、主張した提言(注―1)を受けてのことと思われます。
彼は、この『モリソン号航海記』の中で、様々な提言をしています。その中で彼は、琉球の価値を単に石炭や薪水の補給基地の地理的価値にとどまらず、琉球と日本の特異な関係にこそ、むしろ“戦略的価値がある”としているのです。
キングは、「民間ながらアメリカ国旗を掲げたわれわれの試みが砲撃を受けて失敗したことは、アメリカ政府が乗り出す絶好の口実を与えた」とし、さらに「日本がどうしても交易を、ひいては開国を拒否するならば、撃ち合いは避けて一旦は引くべし」と短絡的な暴走を戒めています。
彼は、日本から受けた仕打ちに対して、制裁や報復を合衆国政府に求めるわけではなく、日本と「ゆめゆめ流血事件を起こさぬように」と、くぎを刺しているのです。
その上で彼は、日本を開国に導くための第一案として「江戸湾を封鎖する」手もあるが、それよりも第二案として「琉球と日本の間にくさびを打ち込み断絶をはかることが一番効果的」とし、琉球の存在を高く評価しているのです。
ペリーは、おそらくこのキングの提言を受けて、日本との交渉の前に「琉球の地を押さえておくべし」と、最初の訪問の地に臨んだものと思われます。

ベッテルハイムは、近々アメリカ艦隊がやって来る情報を得ていたのでしょうか、おっとり刀でボートを出し、ペリー提督を表敬訪問します。
彼は、艦隊の隊員一同に、驚きと好奇の眼差しで迎えられたことでしょう。日ごろ厳格なペリーも、この地でのイギリス人の出現に、彼を快く招き入れます。
ペリーとの会見では、何故この琉球にいるか、今までの経緯を説明しつつ自己紹介でもしたのでしょうか。
それに対してペリーは、ベッテルハイムの話に感動しつつ、この地での布教活動の苦労話などを聞き、その労をねぎらったこと、また、この艦隊の目的を説明も、琉球に立ち寄った訳も話したことでしょう。
この艦隊は、日本との友好な関係を築くこと、そのためにはこの琉球を足掛かりとしなければならないことを。
この会見でペリーは「準備が整えば、君の住まいを訪ねてみよう」とも言い、さらに、琉球王府との通訳の依頼もしています。
ベッテルハイムは、今までの憂さが一気に晴れやかになるのを覚えたことでしょう。
ペリーが今行おうとしていることは、自分が今抱いていることと、分野や方法は違えども同じではないか。すなわち国交を開くのに、外交や通商と、宗教や教育の面からの違いと。
一方ペリーも、ベッテルハイムの使命感に燃えた異国の地での宣教活動の意義を聞きながら、自分に与えられた「日本開国」の使命の重要性を改めて思い至ったことでしょう。ペリーは、ベッテルハイムを翌日の朝食会に招待します。

② バツの悪い朝食会

翌朝、ベッテルハイムは、ペリーの招待を受け、いそいそと旗艦サスケハンナ号にやって来ます。朝食会の座が彼を中心に盛り上がったところへ、彼にとって、宿命的な人物が入ってきました。
その人物とは、今回の「ペリー艦隊」で主任通訳を勤める、S・W・ウィリアムズです。
ウィリアムズとは、すでに再三紹介している、モリソン号で日本にやって来た中国で活躍するアメリカンボードの宣教師です。
そのウィリアムズが遠征隊に参加したのは、ペリーのたっての要請により、迷いに迷った末、一大決心して受けたものでした。
その時ペリーは、彼の事情を了解し、艦隊のサラトガ号を待機させ、準備が整い次第、琉球に向かうよう指示します。そしてペリー自身は、琉球へ先行して、最初の課題の開国交渉をしつつ、ウィリアムズを待つ算段でいました。
従って、そのウィリアムズは、このような経緯からペリーに「よく来てくれました」と、感動的に迎えられるはず、と思っていました。
しかし、ペリーは、すでに前日、ベッテルハイムと感動的な出会いをし、今も彼の経験談で盛り上がっていたとこだったのでしょう。少し遅れて朝食会についたウィリアムズとの再会は、いささか気の抜けたものとなってしまいました。
言ってみれば、ウィリアムズは、ベッテルハイムに主役の座を奪われていたのです。

ベッテルハイムは、琉球へ入植前、香港に立ち寄っていたことはすでに記したところです。従って、この時のウィリアムズは、ベッテルハイムとは初対面ではないはずです。
また、当時彼の琉球入植は、ウィリアムズが主宰する『チャイニーズ・レポジトリー』にとって、注目のニュースネタともなっていたことから、かなり詳しく知ってもいたはずです。
その彼が、その日の朝食会の主賓のような歓迎を受けていたのです。
ウィリアムズにとって、いきおい込んで臨んだ朝食会でしたが、いささか出鼻をくじかれたような、ペリー艦隊との合流でした。
ペリーがベッテルハイムを取り立てる態度は、彼にとって決して気分の良いものではなかったのです。
本来は、二人が顔を見合わせるのは時間差があったはずなのですが、同じ日になってしまったことは、図らずも二人の将来を暗示するような出会いとなってしまいました。
朝食会の主催者ペリーは、もとよりこのような緊張関係が生まれようとは知るよしもありませんし、気付く様子もさらさらありません。
彼は次の日から、琉球での日程を進めていきます。
そんな折り、ベッテルハイムにとって、更なる吉報が届きます。

③ 日本遠征の通訳官の情報

ベッテルハイムは、ペリーが琉球に到着した翌日、香港ビクトリア主教(イギリス聖公会)のジョージ・スミス(注―2)から「通訳官としてペリーに採用されるかも知れない」と言う手紙を受け取ります。
さらにその手紙には「もし艦隊通訳官になった場合、数週間は琉球を離れなければならず。そうなると家族だけ残されることになる。従ってベッテルハイムは、ペリーの要請を受けるかどうか、決断をしなければならなくなる。」と続けています。(同掲『宣教医ベッテルハイム』257頁)
このスミス主教の手紙を読んだベッテルハイムは、どんなに晴れやかであったことか、情景が手に取るように思い浮かびます。彼は、最近とみに、琉球よりも、日本の布教が先決と痛感するようになっていたからです。まさに、天のお導きかと思ったに違いありません。
しかし、このスミス主教の手紙は、彼の誤解であったことがわかり大きな失望へと変わっていきます。
すなわち、ペリーは、もともと日本での通訳は決めていて、ただその通訳の琉球到着が遅れることで懸念を抱いていました。そこに、あつらえ向きにイギリス人宣教師が琉球に入植しているのを彼は知ったのでしょう。ペリーは琉球に着いたならば、そのイギリス人宣教師に、通訳の依頼をしようと、周りの人々に打診でもしていたものと思われます。
このペリーの事情を知ったスミス主教は、当然「日本遠征全体の通訳」と思い込み、ベッテルハイムに伝えたのでしょう。
ペリーの思惑では、琉球には、もっと早く到着するつもりでした。ところが寄港地、上海で思わぬ事態が起こり、時間を費やしてしまい、図らずもウィリアムズと同じ日になってしまったのです。
このことから、もしかして、ペリーよりもウィリアムズのほうが琉球に早く到着していれば、わざわざ外国籍のベッテルハイムの琉球での通訳要請はなかったかも知れません。従って到着が同じ日とはいえ、数時間の差でペリーが先着したことは、ベッテルハイムの運命を変えるほどの数時間であったと言えなくもありません。
実際ペリーは、琉球に着くなり、ベッテルハイムに琉球王府との通訳の依頼をしていることか窺えます。。
従って、スミス主教の報に接したベッテルハイムは、すっかりその気になってしまったことでしょう。彼にとって「かも知れない」という情報は「そうであるに違いない」ことなのです。
以来、彼はペリーから、日本での通訳要請の使者が「いつ来るか、いつ来るか」待ちわびる毎日であったことでしょう。
そして、さらに彼を高揚させる出来事が続きます。

④ ペリー首里城入城

アメリカ艦隊の威容を見た琉球王府の驚きは隠しようがありません。
何故かくも大規模な船団をアメリカが組み、琉球にやって来たのか確かめる間もなく、ペリーは次々と王府に要望を提示します。
彼は、まず隊員の止宿のための家屋の確保をはじめ、船着き場近くに隊員のための日用品のバザーの開設など要求に続き、東から北部にかけての調査を行うからガイドの紹介斡旋まで依頼します。
さらにペリーは、アメリカ艦隊の司令長官として首里城へ入り、最高権力者の王子との会見を申し入れます。
どの要望事項も、琉球にとって認める事が出来ないことばかりですが、この中で首里城への入城は、どうしても避けたいところでした。
王府は、王子はまだ幼く、皇太后は今病気で臥せっていて、会う事が出来ないとし、代案として実質の総理官摩文仁親方が総理官邸で会うことを提案します。
しかし、ペリーはそれに一向耳を貸さず、6月6日に、首里城に入る予定をしていることを告げます。実際当日彼は、正式な隊列を組み、急ごしらえの轎(かご)に乗り、首里城に押しかけています。前掲『遠征記』の記述によれば、その時の模様がくっきりと描かれています。

最先にはベント大尉指揮の下、上にアメリカの旗を付けた二門の野砲が進み、すぐその後ろからはサスケハンナ号隊長(ベネット氏)が通訳ウィリアムズ氏とベッテルハイム博士を伴って進んだ。つぎには陸軍少佐ヅェーリンの指揮するミシシッピー号の軍楽隊と陸戦隊の一隊が従った。乗組みの大工に間に合わせに製作させた轎(かご)に乗って提督がそれに続いた。その轎は場合が場合なので、著しく勿体ぶったものであり、大きくて堂々たるものであった。・・・・・(中略)・・・・・アダムス大佐、コンティ大尉及びペリー氏(ペリーの息子)が轎の後に従った。その次には王子及び皇太后へ奉るために準備した贈物を担いでいる6人の苦力が進み、一伍隊の陸戦隊に護衛されていた。それに続いてブカーナン艦長、リー艦長及びシンクレーア艦長を先頭とする遠征隊の士官たちが進み、その後へ従者たちがついて行った。次にサスケハンナ号の軍楽隊が。行列の最期には一隊の陸戦隊が進み、その数は二百人以上にも及んだのであった。

『日本遠征記』第2巻第9章88・89頁)

このように急ごしらえとは言え立派な轎に乗り、王府への贈り物を物々しく見せびらかせ、前後に軍楽隊を配したそれこそ鳴り物入りで、二百人以上の隊列が威風堂々と守礼門をくぐり首里城入城の模様を記しています。
ペリーにとって、この一大パフォーマンスこそ、内外に示す日本遠征の第一関門なのです。
この中で、注目に値するのが、ペリーが異国籍であるにもかかわらずベッテルハイムをこの行進に参加させたことです。しかも、ウィリアムズと並んで先陣を切るという重要なポジショニングです。
ベッテルハイムは、この破格の待遇に、今まで、心に覆っていた不満の靄が晴れ渡るのを覚えたに違いありません。
もちろん、ペリーが琉球に到着以来、この首里城入城に至る交渉の主な通訳は、ベッテルハイムが取り持っていました。
ペリーはひとまず、第一目標をクリアしたわけです。

⑤ 琉球とアメリカの双方から頼りにされるベッテルハイム

このペリーの出現は、ベッテルハイムはもとより、琉球王府にも大きな変化が生じます。
足しげくペリー艦隊と往来し、首里城入城に際しては先陣を勤めるなど、今までにない外国船の彼の待遇を見ていた王府は、まさに藁をもつかむ思いで、彼にペリーとの折衝を依頼するのです。
黒船来航は、彼にとって一夜明けたら両手に花状態だったのです。

これまで排斥の対象となったベッテルハイムと琉球王府がタッグを組み、ペリーの交渉に当たるという奇妙な構図が出来上がっていたのは興味深いことである。琉球では夷を持って夷を制したつもりであろうが、ベッテルハイムとしては、ペリーと琉球王府との仲介を担うことが自らの布教活動に利することになると解したのであろう。

前掲『黒船来航と琉球王国』第2部 第1章161頁

この記述では、ベッテルハイムがペリーを制したことのように書かれていますが、かれが王府の意を汲み作成した仲介案は、ペリーは受け入れていないので、必ずしも「夷を持って夷を制した」とする表現は当たらないかも知れません。
しかし、その時の那覇の町の、未だかってない強力な船団に、艦隊がときどき放つ空砲や礼砲に那覇の町に轟きわたる状況を考えてみると、あながちそんな表現が出来るのかも知れません。
例えば、浦賀にペリー艦隊がやって来た時の、江戸の混乱状態を考えれば、那覇や王府の慌てふためきぶりは想像に難くありません。
そして、王府にとって最も恐れたのは、西洋列強がアジアで展開している主権の侵害です。王府役人は「いよいよこの地にも」と覚悟を決めざるを得なかったのかも知れません。
その意味からすれば、ベッテルハイムが王府とペリーとの中をとり持つことで、武器の使用を封じ込めたと王府が見てもおかしくない訳です。
今までベッテルハイムは、琉球国内の異物的存在でしかなかったのですが、事ここに至って、彼に逐一助言を求めています。
そして、やがて琉球王府がペリーに、ベッテルハイム自身の琉球退去要請という、何とも奇妙な通訳も、快く引き受けています。彼にとって、ペリー来航前は、隔世の感を思わせるものでした。

しかしながら、もともとペリーには、ベッテルハイムの日本遠征での通訳の登用はあり得ず、彼は、段々と失望へと気持ちが萎えていきます。それとともにとウィリアムズへ猜疑の目を向けていきます。
そのウィリアムズはペリーとともに、9日には、サスケハンナ号に座乗し、サラトガ号を従え、日本遠征の事前準備2ヶ所目の小笠原諸島に向けて出発します。

(2)通訳ウィリアムズとの出会い

① ペリーの通訳要請に躊躇するウィリアムズ

前述したように鋭意ペリーと合流を果たしたウィリアムズにとっては、朝食会といい、首里城入城の件といい、ベッテルハイムと同格に扱われていることにいささか心穏やかならざるところを覚えます。
彼が出鼻をくじかれたと思うほどに気負ってやって来たには、彼にそれなりの前歴と事情がありました。
ここには、ペリーがどうして遠征隊の首席通訳の重責にウィリアムズを指名したのか、またこの時の、ウィリアムズの心境を今少し見てみたいと思います。

ウィリアムズがペリーから、通訳要請を受けたのは、その年の4月9日のことです。 彼は、要請があまりに唐突であったため、大いに戸惑います。 ウィリアムズは、まさか自分が日本遠征の主席通訳に指名されるとは思ってもいなかったのです。
しかし、ペリーは「あなたが遠征隊に参加を望んでおり、中国へ回航するころには出発準備を整えて待っていることだろうと、合衆国で何度か聞いていたので、」と言い、さらに「あなたのためにその席を開けておきたかったので、フォン・シーボルトを通訳に雇わなかったのだ」と、シーボルトの名前まで持ち出し通訳の要請をしています。(S・W・ウィリアムズ著/洞富夫訳『ペリー日本遠征随行記』18頁より、以後単に『随行記』と表記)
ペリーは、アメリカを出発する時から、ウィリアムズが首席通訳は既成事実と捉えていたようです。
このくだりでは「あなたが遠征隊に参加を望んでおり」と言っていることから、日本遠征プロジェクトの主要な一員のアーロン・パーマー(注—3)からの推薦によるものと考えて間違いないと思います。
この行き違いは、パーマーと中国在のウィリアムズとの書簡のやり取りから得たペリーの感触で誤解が生じたものと思われます。
親日家のウィリアムズは、本国アメリカに向けた書簡や、例の『チャイニーズ・レポジトリー』により発せられる彼の記事から、常に日本に向けて臨む準備はしておかなければならない、と喚起していることから窺うことが出来ます。こういった米中間で交わされたやり取りに、ペリーは「彼(ウィリアムズ)は、いつでも日本に行くことを望んでいる」と独り合点をしていたのではないかと思われるのです。

② 雪辱を誓うウィリアムズ

ウィリアムズはモリソン号事件の後、マカオにて、同紙に「野蛮な方法で追い払われはしたが、(すみずみまでいきわたった日本の統治能力を)我々は決して侮ってはいけない」とし、そのうえで「どうしてこうまで日本が外国人を寄せつけなくなったか調べるのはけっして無駄なことではない」と、意外なコメントを残しているとはすでに記したことです。
実際に彼は、モリソン号事件後、一角ならず日本には思い入れを持ち、日本との向き合いかたをアメリカ本国へ送信しています。
例えば、聖書の翻訳や日本語の辞書の作成がそれです。
ウィリアムズは、モリソン号事件で連れ帰らざるを得なくなった日本人を雇い、彼らを相手に和訳聖書の作成を推し進めていきます。彼は、1838年1月21日付の、父親にあてた書簡で、具体的にその様子を記しています。

彼(日本人)の言語、考え方、表現方法について、たとえ僅かな知識であろうとも、僕は吸収したいのです。この日本語学習の方面では、僕たちには、ほんの少しの手掛かりしか、今のところありません。それでも、僕たちの日本語学習は、前進しております。

F・W・ウィリアムズ著/宮澤眞一訳『S・W・ウィリアムズ生涯と書簡』125頁

彼は、日本人相手に、日本語の習得に情熱を注いでいます。さらにこれに関連して、次のような記事も記されています。

ウィリアムズ氏は、帰還後の冬場の間に、マタイによる福音書の日本語訳を準備したが、これは、外国人のもとで雇用されることになった7人全員に、キリスト教を教えるためだった。その後に続いて、日本語の小さな語彙集を完成させ、さらに2年経過するころには、「創世記」の日本語訳を準備できた。これらの小さな草稿本は、読み書きができた2名の日本人漂流民の手によって、2、3部の写本を完成したものも、現在まで一部も残っていない。

前掲『S・W・ウィリアムズ生涯と書簡』114頁

このようにウィリアムズは、マカオ帰還後、日本人のキリスト教覚醒のために聖書や語彙集(手引書)の翻訳をしたことを時系列に語っています。
しかしながら、ペリーが鋭意中国にやって来た1853年頃は、日本語や日本人とのかかわりが「ここ7年近く、まったくなおざり状態にある」として、とてもそんな役目が廻って来ようなど思いも至らなかったのです。まさに彼にとって、青天の霹靂の出来事でした。
それでも、もともと日本に対する思い入れは強く、日本の国民性に強く惹かれるところがあったのでしょう。
ウィリアムズは、ペリーに以下の要望を出します。

  1. 自分が受け持つ印刷所の後任に依頼するまでの5月5日ないし10日まで待ってほしいこと。

  2. 日曜日(安息日なので)には勤務を命じないこと

  3. 快適に船上生活が送れるよう宿泊施設が用意されること

  4. 無知な日本人水夫からの日本語の習得であり、しかも日本語から遠ざかっており、最善は尽くすが堪能な日本語を期待されても困ること。

このウィリアムズの要望に対して、ペリーは「通訳の地位の任務を果たすように」と承諾の意志を伝えています。
かくして彼は、ウィリアムズのためにサラトガ号を残し、準備が整い次第、琉球で落ち合う手はずを決め、上海に向かいます。
ウィリアムズは、日本行きの準備をしながら、ペリーのこの説得を受けてしまったことに、逡巡と「正しかったかどうかいまだに自信が無い。」と自問し、さらに「当地ばかりでなく本土米国からも、どうして僕に、熱い視線が向けられるようになったのか、実に不思議なきもちがする」と思いを巡らせています。

その後、ウィリアムズの準備は順調に整い5月10日には、彼のために用意されたサラトガ号の船上の人となります。
思ってみれば日本行きは、過去の苦い体験から長年の懸案でもありました。ペリーが説得の「その船(モリソン号)に同乗したあなたは私と同行したい気持ちに駆られるであろう」とウィリアムズの心を見透かしたよう言葉は、眠っていた記憶を呼び覚ましました。

16年前の昔モリソン号で出航したその同じ地域をめざして壮途に着くのだ。その当時いっしょだったキング氏、ギュツラフ氏、インガソル(モリソン号)船長、それに3人の日本人はすでに他界している。

『随行記』20頁より

ウィリアムズは、モリソン号に同乗した今は亡き一人ひとりを思い浮かべ、壮途に就く心境を、このように記しています。
この記述で彼は「3人の日本人は…」とも記していて、思いを偲ばせています。その3人とは、宝順丸の岩吉、肥後組の寿三郎、熊太郎のことです。
ペリーから唐突に日本遠征の通訳に要請されたときは「何故自分が」と躊躇もしましたが、ここには過去の思い出とともに、雪辱を誓う姿がありました。

③ タイミングの悪いペリー艦隊と合流

ペリーは、当初ウィリアムズに要望したのは4月21日までに、出発の準備が出来ないかというものでした。
それは、ペリーが香港に着いた時、ミシシッピー号を迎えた軍艦は、プリマス号とサプライ号のみで、要望した戦力がまだ整っていないため、4月21日まで待とうとしたのでしょう。(注―4)
ところがウィリアムズの事情は、月刊誌の発行の責任者でもあり、それまでは到底間に合わず、5月11日のマカオ出発となったわけです。
そのためペリーは、琉球に先着し、ウィリアムズを待つつもりでいたのが、次の経由地上海で、予想外に時間を取り、結果的に双方到着が5月26日と同じ日となってしまったのです。
その一つには、当時、洪秀全(1814-1864年)が起こした太平天国の蜂起が当地にまで影響が及んできて、その対応に当たったこと、そのためペリーは、プリマス号を置いてゆくことになったことは痛手でした。今一つは、日本へ連れてゆくはずの日本人漂流民が音吉の手によって奪われ、アメリカの管理下にいなかったことによるものです。この件に関しては、次章で詳しく述べることになりますが、ペリーは、彼らを連れ戻すために手を焼き、結局はあきらめて琉球に向かいます。
これらの要因で、思いのほか上海での滞在が長引いてしまったことが琉球遅延の原因でした。

一方のウィリアムズは、藪から棒のような形で遠征隊の通訳要請を受けましたが、この時はすでに覚悟も決まり、過去の雪辱と任務の重責をかみしめて、鋭意琉球にやって来たところです。
そして、翌日ペリー主催の朝食会が開かれたのです。彼にとって香港以来の提督ペリーとの再会です。彼は高揚した面持ちで席に着いたことでしょう。
そんな彼がいざ朝食会の座に着いてみると、得体の知れないイギリス人が中に割って入り、通訳を買って出ているなど、予想だにしていなかったのです。
そのウィリアムズは、その後、ことあるごとにベッテルハイムと意見を異にし、行く手を阻むこととなります。
この日の、二人の出会いは、正にその後を占う象徴的なものであったということが出来ます。

ベッテルハイムとウィリアムズのバツの悪い出会いは、こうして生じたことになりました。
ウィリアムズが著した『随行記』を見ていくと、日ごと、ベッテルハイムに対する不満を募らせていく様子が記されています。
ウィリアムズは、最初の日の5月26日こそ、ベッテルハイムの琉球での宣教活動を「最初の事業の楔を打ち込むことになる」と評価する記述がみられたものの、それ以降、27日のベッテルハイムが書いたペリー提督あての書状を見た彼は「私が今まで読んだ最も風変わりな文章でつづられたこの書状」と酷評し、「彼は表情豊かに身振り手振りを入れて話すのだが、全く不愉快な男である。それに彼は明らかに誤って通訳していた。」と嫌悪感が増す様子が記されています。
さらに6月3日の記述では「彼は物を送ってもらったり、施しを乞うことなど全然いやがらず、それにユダヤ人のように銀行に預金していた。」とユダヤ人に対する偏見にまで感情をエスカレートさせています。
一方のベッテルハイムのウィリアムズ評もまた辛辣です。彼は「ウィリアムズは広東語しか話せないし、顔色は死骸のようだ」と評してはばかりません。
この対立は隊員にも影響を及ぼしていたようで、どちらかといえば神経質なウィリアムズよりも、ベッテルハイムに肩を持つような記述がみられます。
確かにいろんな書物や資料からウィリアムズは、繊細でこだわりにとらわれやすいタイプであったようです。
サミュエル・エリオット・モリソン著座本勝之訳『伝記ペリー提督の日本開国』には「ベッテルハイム師に妬みを持っていたウィリアムズは、師がほとんどのものから嫌われているとけなしている。しかし、ベッテルハイム師がたびたび艦上の礼拝の依頼を受けていることや説教のお礼に銀杯を贈られているところを見ると艦隊の兵員たちから大いに感謝されていることがうかがわれる。」と、二人の関係をハラハラしながら見ている様子が記されています。

(3)萎む琉球での宣教意欲

① ペリーの護国寺訪問

ペリーは、朝食会でベッテルハイムの労苦をねぎらった後、早々に彼の住居、護国寺の訪問を約束します。おそらく首里城へ入城を果たした後の、6月8日か9日のことでしょうか。その時の模様を、前掲『伝記ペリー提督の日本開国』が、ベッテルハイムの言葉として、次のように記しています。
「男の子にはしたことがないよ、と息子に言いながら、私の二人の娘のほおにキッスをしてくれた。私のお粗末な書斎を見て、壊れた窓枠を修理させ、靴も届けさせようと約束してくれた。」と。さらに「提督は、水兵を送って、彼の書斎の薄汚れた窓枠を白ペイントで塗り替えさせた。」と、ペリーのベッテルハイム家訪問談です。
彼は、アメリカを代表する司令長官が直々に自分の住居を訪れ、しかも、その粗末な住まいや履物を見かねて、艦隊より、それに心得のある者を派遣すると約束した好意に、わが意を得た気持ちで伝えています。
まさにベッテルハイムにとって、琉球入植以来、心が頂点に達した日であったことでした。
なぜならば、ペリーは、その日「早速、その職人を護国寺に遣わそう」とのみ告げて、翌日には、サスケハンナ号に座乘し、小笠原へと出航して行ったからです。

② ゴーブルとの出会い

ペリーの小笠原行に、同行を求められることなく、いささか気落ちしたベッテルハイムのもとにやって来たのが、ジョナサン・ゴーブル(1827-1898年)という人物です。
そのゴーブルがベッテルハイムの住居に遣わされたのは、1853年6月10日のことでした。
ベッテルハイムの証言によりますと、その日「大工兼靴屋がやってきて、ペリーが前に約束した書斎の窓2枚をはめ込んでくれたし、子供たちの靴も作ってくれた。」と紹介しています。(川島第二郎著『ジョナサン・ゴーブル研究』7頁参照)
彼は、この時、ミシシッピー号の海兵隊の一水兵の身分でした。

そのゴーブルは、実に特異な経歴の持ち主で、19歳の時、強盗未遂で刑務所に2年間服役を経験しています。彼は、その服役中に回心し、東洋のキリスト教伝道に目覚め、下見を兼ね、ペリー艦隊にたって参加したというものです。
また彼は、その服役中に「靴の製法を学んだ」ともあります。(前掲『ジョナサン・ゴーブル研究』)
そんなことでゴーブルは、海兵隊員の靴直しなどを受け持ってもいたのでしょう。
さらに彼は、創意工夫に富み、手先も器用であったことから、艦隊では重宝にされていたようです。おそらく、ペリーが首里城に押し掛けた急ごしらえの轎も、ゴーブルが中心になって拵えたものに違いありません。
彼は、その後、念願がかない日本へ宣教師となってやって来ますが、その傍ら、人力車の発明をしたといわれていることから窺えます。
そんなゴーブルに、ペリーの目が留まったのでしょう。

はからずも巡り合ったベッテルハイムとの縁は、激情型の性格の持ち主ゴーブルにとって、かなりのインパクトを与えたようです。
彼は、これを機に、ベッテルハイムの住居を幾度か訪れて「艦隊の任期が明けたらすぐに琉球に来て博士(ベッテルハイムのこと)を助けつつ、日本伝道の準備をする」と、語り合ったとしています。
彼はやがて、日本が開国後、アメリカンボードから派遣される最初の宣教師の一人に選ばれ、念願の来日を果たしています。
一方のベッテルハイムの悲願は、成就されることはなく明暗を分けています。

③ 決断の時

ペリーは、小笠原諸島に商船や捕鯨船の薪水補給基地と、貯炭スペースを確保したあと、6月23日、再び琉球に戻ってきます。
そして彼は、琉球政府に“開国開港”の条約締結に向けた重い課題を突き付け、一定の任務を果たし、いよいよ日本に向けて、7月4日出発していきます。
ウィリアムズは、琉球を離れるにあたって、それに付随した、以下のような所感を残しています。
「日本と中国の双方からの脅威に晒され、さらにこの両国とは比べようもない一大強国(アメリカ)に外交政策の変更を迫られて、いまだに明確な方針を見いだせないでいるのだから、当地の為政者たちは、これまでよりなおいっそう同情的な思いやりを受けてしかるべきである。」(『随行記』85頁)
さすがモリソン号以来2度目のウィリアムズの所感は、琉球政府に思いやったもので、キングの提言に一言補足を加えたものとなっているように見えます。
彼は、キングの提唱する「日本との交渉が不調に終わったならば“日本と琉球の関係を断つべし”の戦略に対して、もしその手段を使わざるを得ない場合、すなわち日本との交渉が失敗した場合、琉球の立場お思いやり、なんらかの救済措置を取らなければならないと言葉を残しています。

ベッテルハイムが心をときめかせた通訳の要請がないまま、何事もなくペリー艦隊は日本遠征に旅立って行ったのです。
彼は、ペリーの出現に一気に希望が高揚していただけに、失望も大きく、寂しく彼らを見送ったことでしょう。
彼は、この4月に「使徒行伝」の和漢対訳書を完成したばかりでした。これは、彼にとって、絶妙のタイミングであったのです。「もしかして、日本布教の第一歩になるのではないか」と思っていただけに。
これをきっかけに、彼の琉球での宣教の熱意は萎んでいきます。

やがて約1ヶ月後、ペリーは、第一回目の日本遠征を確かな手ごたえを得て、那覇港に帰ってきます。
30日には、ミシシッピー号の甲板で演劇班による芝居が上演されます。これにベッテルハイム一家も招かれ家族は大喜びであったと『随行記』は記しています。
そして、8月1日、香港に向けて出港していきます。こうしてペリーの第一回目の日本遠征は、彼の思惑通りに進展して行ったのです。
 見送るベッテルハイムは、琉球から帰任を決意します。
折から、スミス主教からも、後任のモートン一家が香港へ到着したとの報が入ってきます。

(4)ゴンチャローフの懸念

① 往来激しい那覇港

翌年の1854年、那覇港は、がぜん騒がしくなってきます。
1月12日から22日にかけ、ペリー艦隊は、新たにサスケハンナ号を加え、ミシシッピー号とポウハタン号の蒸気船が3隻となり、帆船レキシントン号、サザンプトン号、マセドニアン号、サプライ号、サラトガ号が相次いで那覇港に到着し、居残っていたバンダリアン号と合流します。
 そして、2週間後の2月7日、サプライ号を残し、ペリー艦隊は満を持し、日本へ向けて出港していきます。
残ったサプライ号は、日本へ石炭と食料を補給する指令を受けていて、翌日、上海に向かいます。この船には、ベッテルハイムの家族、夫人バーリックと3人の子供たちを、中国へ乗せていくことになります。
さらに、その日には、提督E・V・プチャーチン(1803-1883年)率いるロシア艦隊が旗艦パルラダ号に座乘し、オリバーツァ号、メンシコフ号、ボストーク号を従え、アメリカ艦隊と入れ替わるように入ってきます。彼は、長崎で「日露和親条約」の交渉を中断し、マニラに向かう途中寄港したというものです。
琉球王朝は、一旦ペリーが居なくなって、とりあえずホッとしたのも束の間のロシア艦の来航です。
ベッテルハイムにとっても、家族を送り出した後の虚脱状態と言ってよい時のことです。

② ロシア秘書官ゴンチャローフとの会話

このロシア艦には、著名なロシアの作家イワン・アレクサンドロビッチ・ゴンチャローフ(1812-1891年)がプチャーチンの秘書官として同行していました。
彼は、帰国後、その体験を『フリゲート艦パルラダ号』にまとめ発表しました。このうち日本関係を訳出したのが『ゴンチャローフ日本渡航記』高野明・島田陽訳です。
ここで彼は、琉球の第一印象を次のように記しています。

琉球の人々に「手を取って家に導き入れ、地につかんばかりのお辞儀をしながら、異国人の前に豊かな野や園の幸を並べる・・・・。これはどうしたのだ。私たちはどこにいるのだ? 古代の牧人たちの中に、黄金時代にいるのだろうか。

高野明・島田陽訳『ゴンチャローフ日本渡航紀」374頁

“この世ならぬ島”と、もてなしを受けたゴンチャローフは、バジル・ホール著『朝鮮西沿岸及び大琉球島探検航海記』を片手に持ち、このように記しています。
さらに彼は、この琉球の印象とともに、ベッテルハイムとの会談の模様も記しています。
それを見ると、感動に熱くなっているゴンチャローフに冷水をかけるような、いささか噛み合っていない会話が交わされています。その記述を抜粋してみますと、

ゴンチャローフ「素晴らしいところですね、すばらしい住民たちですね!」
ベッテルハイム「バジル・ホールはあやしいものだが、実際は彼でもまだ控え目ということがわかりますね」
ゴンチャローフ「で、住民はどうです? 風俗の淳朴さ、お客好きは大したものですね! オデュッセイアと一緒に旅して、旅人を出迎え、ご馳走してくれる。」
ベッテルハイム「一体、連中が迎えに出て、ご馳走してくれたんですか」
ゴンチャローフ「いいえ、出迎えに来てくれたことはほとんどなかった。送ってくれたほうが多かった・・・・」
ベッテルハイム「そう、連中は実際に出迎えるより、送って来る方が好きなんです。だって、あれは刑事なんですよ。スパイなんですからね」
ゴンチャローフ「刑事なんですって。いったい、この土地に刑事がいるんですか」
ベッテルハイム「いますとも! あなた方の行き先や行動を見張り、何者があなたに近づいて行って、話を始めるか覚えておくためですよ。後でそいつらを勝手に罰するためですよ・・・・」

ここでは冒頭、ゴンチャローフは、ベッテルハイムに、バジル・ホールの航海記を指しながら「ホールの感動が思い起こされる」とでも切り出したものでしょう。
それに対して、ベッテルハイムは「バジル・ホールはあやしいものだが、・・・」と皮肉を込めて否定しています。
ゴンチャローフは琉球人の淳朴さ、愛想の良さ、礼儀正しさを誉めれば、ベッテルハイムは、「彼らは臆病で、人前だけですよ」と言い、また「素朴で慎ましい」と言えば「確かに素朴なところはあるが、でも慎ましいといえたもんじゃない。彼らは大酒のみですよ」と。

二人の会話は、その後もこんな調子で続いていきます。
これは、琉球の美しさや住民の接待、おもてなしを受けたゴンチャローフがこの島に来て感動しているのに対して、ベッテルハイムは「一旦腰を落ち着けて住んでみなければ本当の琉球の正体はわかるものではない」と反論し「ましてやキリスト教宣教師との身分が明かされれば、住民たちは豹変する狡猾な民族なのだ」と言っています。
そして、「日本人はここに長く住んでいまして民衆に鎖国の体制を奨励し、ついでに背後からキリスト教に対する憎悪をかきたてているのです。今でも連中はここに6人います。当地風の身なりをして、陰に隠れて住民をも、外国人をも監視しているのです。お気づきのように、当地ではすべてが日本のものです。」
ベッテルハイムは、さらに続けて、
「(琉球は)生活全体が日本的で、日本そのものを小型にしたところです。バジル・ホールなんて信用しちゃいけません。この本には、一言だって本当のことはありません。真相とは正反対のことばかりです・・・・」
ベッテルハイムは、琉球のバックには日本人がいて、その日本では耐え難いキリスト教禁教政策がとられている。その元凶を取り払わなければ、琉球の真の布教など出来るものではないと力説するのです。

③ ロシア艦隊の礼節

ゴンチャローフは、このベッテルハイムの反論に対して「私は実際ホールを信じていないが、彼もまた信じない。前者は手厚く遇されすぎたのだし、後者の方は・・・・・・叩きのめされたのだ。だから二人の意見が違うのだ。」と、冷静に向き直っています。そして、彼はこの後、次のような懸念を記しています。

私は彼に、あなたとあなたの後継者がことを急ぎすぎて、すべてを台無しにするのではないか心配だ、とだけ言った。「日本が通商のためにすべての国に港を開いたら」と私は言った。「あなたは商品といっしょに、日本へあなた方が訳した新約聖書も急いで送るかもしれません。予言しておきますが、それではまた日本を鎖国させることになって、宗教のためにも何もならないし、通商も台なしにしてしまいますよ。日本人はこれまで船を一隻ごとに取り調べ、品物一つ一つを書き留めましたが、商売上の競争を考えてのことではなくて、日本人のところにキリスト教の書物や十字架が――キリスト教に関係のあるもの一切が潜入してこないようにするためなんです。人間の数まで記録してきたのも、彼らがそれほどまでに恐れている宗教を弘める聖職者が入ってこないようにするためです。そしてまだ、これから長くこうしたやり方を捨てることはないでしょう。生活をヨーロッパ風に変えぬかぎりはね。しばらくは待った方がいいですよ。」

前掲『ゴンチャローフ日本渡航記』405頁

このゴンチャローフの「あなたとあなたの後継者がことを急ぎすぎて、すべてを台無しにするのではないか心配だ」と言う懸念は「日本が何故かくも厳格なキリスト教禁教政策を布いたか考えてみる必要がある」と言っているのでしょう。
彼は、「いま日本はようやく外国と通商に於いて話し合うところまで来ている。ところがおそらく彼らは、キリスト教の布教をちらつかせただけで、またかたくなに蓋を閉じてしまうであろう」と。
このゴンチャローフのベッテルハイムに対する忠告のような懸念の背景には、ロシア艦隊の使命(注―5)を反映したもののようです。
この彼の懸念のもとには、およそ40年前、日露間でおきた、ある事件が浮かび上がってきます。その当事者の一人が未だ現役の軍人で、しかも海軍大将(提督)に就いているのです。

④ リコルドの教示

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