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第6章 日本最初の国際人誕生秘話

それから、音吉が上海に腰を落ち着けるのは、1842年に締結された「南京条約」直後の頃かと思われます。
この頃音吉は、イギリスの有力な商社、デント商会に幹部社員として迎えられます。
モリソン号で日本を目指しながら、非情にも打ち払われ虚しく日本に別れを告げた1837年8月12日から、およそ数年後のことです。
音吉はそれ以後、デント商会を足掛かりに、縦横の活躍をしていきます。
当時、アジア各国を舞台に覇権を競う欧米人の社会は白人至上主義でした。彼らの認識では、有色人種が頭脳労働や権利が行使できる上級の職種に就くことはあり得ないことでした。
それだけに、音吉のこの鮮烈な国際人としてのデビューは、なんとも不可思議なことと言わねばなりません。
ここには、音吉の優れた素質もさることながら、余程の体験や幸運があったことを思わずにはいられません。
しかしながら、この間の“音吉”という固有名詞が入った直接的な史料が今のところ見つかってはいません。彼は、一体どのような経過をたどって、このような舞台に立つ事が出来たのでしょう。
よくよく調べてみると、全く手掛かりがないわけではありません。音吉周辺の事象についていろいろな角度から光を当ててみると、音吉がどこで何をしていたか、ある程度の輪郭が見えて来ます。
一漂流民であった音吉に、一体何があったのか、この章では、いささか野心的な試みと批判は免れないところですが、少し踏み込んで見ていくことにします。
まず、最初の手掛かりとして「第2章 生い立ち編」でも引用しました『イラストレイテッド・ロンドン・ニュース』(以下『ロンドン・ニュース』)の1855年1月13日付、音吉のインタビュー記事にあるようです。この記事を糸口に「日本最初の国際人誕生秘話」を追ってみたいと思います。

(1)『ロンドン・ニュース』から知る音吉の経歴

①  再び「ロンドン・ニュース」

『ロンドン・ニュース』の記事を、改めてよく読んでみると、ここで音吉は、自分の経歴を「遭難からデント商会へ入社するまでに、四つのステージを経て今に至っている」と順を追って語っているように思われます。
第2章「生い立ち編」と重複しますが、そのくだりを今一度引用してみます。
『ロンドン・ニュース』の記者は、イギリス海軍スターリング艦隊に同行している日本語通訳官が日本人オトーと紹介したうえで、次のように伝えています。

この男は、20年以上も前に貿易用のジャンクで遭難し、イギリスにも行ったり、故ギュツラフ博士やその他宣教師の臨時雇いになったり、といった人生の転変を経て、今はデント・ハウス社のビール氏の倉庫管理人になっており、多額の金を貯えている。

金井圓氏編訳『描かれた幕末明治・日本通信1853-1902』より

簡略な記事ながら、ここには、36、7才となった音吉が過去を振り返って、はっきり体験順に、今までの生き様を語っていることが窺がえます。
この記事をポイントごとに分解してみますと、
第一ステージは、20年以上前に、乗っていたジャンク(宝順丸)が遭難したこと。
第二ステージに、その後、マクラフリンの指示でイギリスはロンドンへ行ったこと。
第三ステージは、マカオのギュツラフ博士のもと、身を寄せていた時。
第四ステージが、その他宣教師の臨時雇いになったこと。
そして、第五ステージとして「今は、ビールのもとで倉庫管理人をしている」と。
この中で音吉が、いわば大変身を遂げた時期は、この第四ステージの「その他宣教師の臨時雇いになったり」に相当すると思います。
そこで「その他宣教師の臨時雇い」という文節、原文が気になります。以下に引用してみます。

This man had been wrecked in a trading junk more than twenty years ago, After many vicissitudes of life, including a visit to England, a temporary employment with the late Dr. Gutzlaff, and other missionaries, he is now storekeeper to Mr. Beale of Dent’s-house, at Shanghae, worth a large sum of money.

『ロンドン・ニュース』の1855年1月13日付記事

この英文からみて第四ステージの訳文は、太字部分「and other missionaries, 」にあたり、直訳すれば「その他の宣教師(のもと)」になります。それを編訳者の金井圓氏は、前後の関係から「その他宣教師の臨時雇いになったり」と訳されたのでしょう。
音吉は、ここで、結構重要なことを言っている趣きを感じ取ることが出来ます。
それは、彼がどうして急成長を遂げたのか、この段落がその謎を解くキーワードとみることが出来るからです。

② インガソル船長の思いを伝えるキングの証言

この音吉を紹介する記事で思い起こすのが、モリソン号訪日を企画したキングの著書『キングのモリソン号航海記』の中の証言です。これも第1章「モリソン号事件」で引用済みですが改めて見てみたいと思います。
それは「本航海記の公刊される(1839年)以前に不幸な日本人漂民のなかの2、3人は、インガソル船長の世話で合衆国に来り、彼らが今はもう属していない日本の国民を代表してアメリカ人の目に訴えることになるであろう。」というキングの記述です。
以前、私はここに記された「不幸な日本人漂民のなかの2、3人」とは「おそらく音吉、力松を想定してのことでしょう。」とし、また「その後、インガソルの死によって(アメリカ行きは)実現されなかった」と、イギリスの歴史学者ビーズリーの主張を紹介しながらも、そのままアメリカに向かったであろうとしました。(第1章「モリソン号事件」注―3参照)
それは、彼ら二人の、その後の事績から導き出したもので、実はこのキングの記述が、音吉の第4ステージの出発点と思うのです。
おそらく音吉と力松は、祖国日本から打払われた後も、インガソル船長の後ろ盾を得て、引き続きモリソン号に乗ってアメリカに向かったのでしょう。
ところが、シンガポールを経て間もなく、なんと頼み綱であるインガソル船長が急死したというのです。

③ インガソル船長の死に立ち会う日本人

それは、モリソン号が虚しくマカオに帰着してから、わずか1ヶ月半後の10月18日、バタビアへ向かう洋上のことでした。
そのインガソル船長の今際(いまわ)の状況を『チャイニーズ・レポジトリー』は、以下のように伝えています。

有能な指揮官であり、立派な人物であったインガソル氏がこの10月18日に死去した。バタビア(ジャカルタ)へ向かっている途中、ガスパル海峡でのことである。インガソル氏の部下も友人もインガソル氏が亡くなるまで同氏が潜行性の病を患っていたことを知らなかった。インガソル氏は亡くなる数日前まで変わらぬ手腕とひたむきさで部下に対する自分の職務を全うし、東アジアにおけるキリスト教の布教という大義のために尽力していた。

『チャイニーズ・レポジトリー』第6巻.1838年1月号-No.9

このインガソル船長が亡くなったとするガスパル海峡は、シンガポールや中国とバタビアを結ぶ航路の中でも、暗礁・砂州が多く、しかも潮流が激しく複雑で、名うての難所とされるところです。
その海峡の位置は、シンガポールから南東に約600㎞、バタビアから北に約360㎞の地点で、スマトラ島とボルネオ島の間にありますが、その間には、西からバンカ島、プリトゥン島があます。そのうちで、バンカ島とブリトゥン島の間にあるのがガスパル海峡です。

ここで窺えるのは、インガソル船長が亡くなったのは急な病からによるもので、彼の日本人に対する厚い思いは、モリソン号がガスパル海峡に差し掛かるまでは、確かに進行中であったわけです。
突然、後ろ盾を失った彼らは、さぞや途方にくれたことでしょう。
そこで彼らはどうしたのでしょう。それを占なうには、改めて音吉の、この時の立場を見る必要があります。すなわち音吉は、マカオを出帆するとき、はたしてインガソル船長の好意のみで乗船していたか、ということです。
そのところを良く調べてみると彼には、同船長の好意のほかに、結構重い課題を背負っていたことが見えてきます。

④ 音吉の課題

音吉が担った課題とはどんなものであったのでしょう。それには、大きく二項目が考えられます。
まず第一は、パーカーやギュツラフの原稿を目的地に届けることです。
それは、ギュツラフの大著『開かれた中国:全二巻)』や『パーカーのモリソン号航海記』が翌年の1838年に、ロンドンでアンドリュー・リードの手により発刊されている事です。特に『パーカーのモリソン号航海記』は、ロンドンで5月に発刊されると、6月にニューヨークでも『ミショナリー・ヘラルド』に要約の形で掲載さています。(第1章「(6)ロンドンで波紋を呼ぶパーカーの航海記」参照)
従ってここに、パーカーやギュツラフが音吉に原稿を託していたのではないかと考える事が出来ます。
第二は、ギュツラフ訳の『約翰福音之傳』をアピールすることです。
この取り次ぎ役に、音吉が指名されたていたとしても不思議なことではないのです。
これについては後に、詳しく述べるところですが、この聖書がアメリカでは、おそらく初めて見る日本語でしょう。それがはたして正しく翻訳されているか、布教するのに現地で有効か、その疑念を解くために、誰かがアメリカに行って『約翰福音之傳』の有効性をアピールしなければならないのです。
音吉は、このような課題を背負っていたと考えられ、インガソル船長の死に直面したからといって、マカオへ帰る選択肢はなかったと思います。
音吉と力松は、思わぬ事態に行く先の不安を抱えながら、それでもアメリカに向かって行ったのでしょう。
はたせるかな二人の前途には、多くの試練が待ち受けていました。しかしながら、この試練が二人を国際人として成長させることとなったのです。
宣教師S・W・ウィリアムズは、それからおよそ30年経った1876年、発表した『中国布教報告書』で、音吉と力松を指して「彼ら2名こそ、日本におけるプロテスタント教会の最初の果実といえます。」と、彼らの、キリスト教徒としての、その後の働きを評価しています。(第1章「モリソン号事件の意義」参照)

このウィリアムズの『中国布教報告書』や『ロンドン・ニュース』、『チャイニーズ・レポジトリー』の記事、それに『キングのモリソン号航海記』は、互いに関連して、その後の音吉や力松の姿を映し出しているようです。
やがてこの二人は、日本最初の国際人として彼の地にあって活躍して行くわけですが、その生き方は全く対照的なものでした。音吉の足跡を尋ねる前に、力松のその後に触れておきます。

⑤ もう一人の国際人、力松

力松は、アメリカから帰還後、暫くは香港に居を定め、新聞社もしくはその印刷所に勤めます。(春名徹著『世界を見てしまった男たち』の中の「英国市民」力松の孤独より)
そして、彼は、1852年には香港に送られた永力丸の漂流民や、1855年、永栄丸漂流民とかかわりを持つことになり、その後、上海に居る音吉を訪ねるよう橋渡し役をしています。
また、力松は、1855年に、音吉の後任としてイギリス東インド艦隊の通訳として、函館・長崎へ来訪を果たしてもいます。
さらに、1850年代後半には、ウィリアムズの同じ論文の中で「音吉と力松は上海に住み」としていて、香港から上海へ移っていたことがわかります。
このように力松は、国際人として活躍もし、音吉と密接な関係を持っていました。
しかし、次の書物に登場する「オトの弟」と言われた人物は力松に違いなく、彼の性格をあらわす端的な例として、その一面を見ることが出来ます。
その「オトの弟」と言われた人物は、中村孝也著『中牟田倉之助伝』の中に登場します。
佐賀藩士中牟田倉之助(1837-1916年)は、1862年(文久2年)、上海使節団の一員に選ばれ上海に入ります。
倉之助は、長崎海軍伝習所で研修に励んでいた頃から、音吉のことを知っていて、この機会にとばかり音吉を尋ねるも、すでにシンガポールに移住した後でした。ところが倉之助のあまりの熱心さに「オトの弟」と称する人物がいることを照会されます。その人物を倉之助が訪ねたときのことです。
この時の様子が『中牟田倉之助伝』に、次のように記されています。
それは『「オト」の弟と称するものを尋ね行きたれど、日本人たることを押隠して實を語らざりき』と、頑なに「日本人ではないと言い」と取り付く島もなく会ってくれなかったと記しているのです。
これは、力松にしてみれば、羽織袴で身を包み、立派な月代(さかやき)、大小を腰に、下駄を鳴らしてやってきた日本の武士に、四半世紀が経過したとはいえ、あの忌まわしい身分制度が脳裏に蘇って来ていたことなのでしょう。
また、西洋の合理主義や自由主義を享受した力松にとって、さらに、キリスト教も受け入れた身にとって、とても差しで会うことなどできるものではなかったのでしょう。
こんな力松は、他の日本人漂流民との間で、考え方・生き方に軋轢も生じていました。
力松は、音吉に次いで国際人の一翼を担っていきますが、音吉が終生日本の心を持っていたのに対して、彼は日本の心を捨てたことにより活路を見出したようです。音吉も、そのような力松には快く思ってはいなかったようです。
しかし、この力松の処世は、日本人の国民性の一面をあらわすもので、軽々に批判はできないかも知れません。

(2) 気になる『約翰福音之傳』のその後

① 音吉の成長に深く関わる『約翰福音之傳』

音吉の大変身ぶりや「国際人誕生の秘話」を訪ねるうえで最も気に掛かるのは、ギュツラフが三吉の協力を得て『ヨハネ伝』並びに『ヨハネの手紙1、2、3』を和訳した聖書『約翰福音之傳(よはねふくいんのしょ)』と『約翰上中下書』です。この聖書の成り立ちやその後について、ここでは見ていきたいと思います。

1835年12月、三吉は、ロンドンからマカオに到着し、宣教師ギュツラフのもとに預けられます。日本への布教の夢を強く抱くギュツラフにとって、日本人の世話を自分に任されたことはまたとないチャンス到来です。待ち構えていたかのように、翌年、早速『ヨハネ伝』とともに『ヨハネの手紙1、2、3』の和訳にとりかかります。
訳稿は、ほぼ一年間を要して完成し、その年の12月、印刷所のあるシンガポールへ送られます。ここで製本化され『約翰福音之傳』として完成したのは、さらに翌年の5月のことでした。(後で述べますが『約翰上中下書』の完成は『約翰福音之傳』より少し遅れて時間差があったかもしれません。)
これらの書は、ギュツラフには日本伝道のため、基本をなす念願の必携すべきアイテムです。
ところが「モリソン号事件」により、日本の門戸を開くことに失敗した今となっては、この苦心のアイテム(聖書)がデッドストックとなってしまったのです。そのためこの『聖書』の、その後の行方が大変気に掛かるところです。
それを調べていくと意外な事実が見出されます。そして、それと伴に、この聖書が音吉の成長に深く関わっていたようでもあります。

② 聖書『ヨハネ伝』並びに『ヨハネの手紙1.2.3』の和訳

“ハジマリニ カシコイモノ ゴザル” これは、ギュツラフ訳『約翰福音之傳』の冒頭です。現代訳は “始まりに言葉があった”となっています。英文では “In the beginning was the Word”なる文です。音吉たち三吉は “the Word(ザ・ワード)”に“カシコイモノ”という日本語を選びました。

ギュツラフ訳「ヨハネによる福音書 現代版・語句の解説」浜島敏注3頁

マカオに於いて、宣教師ギュツラフのもと、身を寄せ合いながら、望郷の念を募らせていた三吉を想像するとき “ハジマリニ カシコイモノ ゴザル”という言葉は. 厳しいキリシタン禁制の下に育った三吉にとって、彼らが見出したギリギリの言葉でなかったか、とは巻頭で述べたところです。また、第一章では、彼らの心境は「 “二河白道”の接点に立たされての翻訳でした。」とも記しました。
それが、それでも協力に至った背景には、ギュツラフの熱心な説明を受けるうち、思い当たるものがあったのでしょう。
もしかして「 “Word”とは日本で言えば“南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ)”の名号(みょうごう)ではないか」と。
このように三吉の心が徐々に開かれて行ったと想像できるのです。そして“南無阿弥陀仏”の名号が、やがて“カシコイモノ”という単語にたどり着いたのではないかと思われるのです。
それは、すぐあとに続く言葉、現代訳では「言葉は神とともにあった」が『約翰福音之傳』では「コノカシコイモノ ゴクラクトモニゴザル」となっていて「神」の訳語を「ゴクラク」と当てていることからも窺がうことができます。
仏教でも特に、浄土系の宗派では「木像より絵像、絵像より名号」の教えがあります。法然や親鸞の教えは、決して仏像に対しての偶像崇拝ではなく、ましてや善行や苦行によるものでもないとしています。ただひらすら、この万能の言葉“南無阿弥陀仏”の名号を唱えることのみで心の自由を得るとしています。
この名号 “南無阿弥陀仏”も言ってみれば “the Word(ザ・ワード)”なのです。
三吉が  “the Word(ザ・ワード)”に“カシコイモノ”という日本語を当てた背景には、キリスト教と仏教の根幹をなす部分で相通じる言葉を発見したことによるものではなかったのか。彼ら三吉は、禁制キリシタンの掟に触れることは重々知りつつも、かすかな光明(言い逃れ)を見つけ踏ん切りをつけたのではないかと思うのです。
またこの時、ギュツラフも彼らの表情を読み取り、日本最初の聖書完成に手応えを得て、日本伝道に自信を深めたに違いありません。

③ 日本聖書協会㏋から知る『約翰福音之傳』及び『約翰上中下書』

この聖書について、日本聖書協会のホームページ(以後日本聖書協会㏋と表示)「和訳史03|現存する最初の日本語聖書」(2022年6月現在)に、その成り立ちが以下のように紹介されています。

最初に日本語に翻訳された聖書は、ギュツラフの「約翰福音之傳」(ヨハネ福音書)と「約翰上中下書」(ヨハネの手紙1、2、3)である。
ヨハネ福音書は、1835(天保6)年~36年にかけて、3人の日本人漂流船員(岩吉、久吉、音吉)の助けを借りて、マカオで翻訳され、1837(天保8)年、シンガポールで木版刷りで印刷されたものである。
1,690冊印刷されたと伝えられているが、現在、世界には16冊しか残っていない。「ハジマリニ カシコイモノ ゴザル」で始まる全文カタカナで、翻訳の苦労が偲ばれる。
この聖書は、その後の研究によると3回印刷されたようである。しかし、1838(天保9)年7月のアメリカ聖書協会の委員会の記録によると、この翻訳は聖書協会が要求する水準にないとの理由で、印刷を打ち切られている。
さらにギュツラフは、「約翰上中下書」(ヨハネの手紙1、2、3)も翻訳したが、僅か2冊しか残っていない。「ヨハネ福音書」と同じ体裁で1837(天保8)年にシンガポールで出版され、大英博物館とパリ国民図書館に1冊ずつ所蔵されている。

ここでは、三吉の助けを借りたギュツラフ訳の『約翰福音之傳』と『約翰上中下書』が「最初に日本語に翻訳された聖書」としています。
『約翰福音之傳』は1,690冊印刷されたとありますが、『約翰上中下書』の方は数量の記載はありません。一説によれば1,400冊ほどが印刷されたとはありますが定かではありません。いずれにしても『約翰福音之傳』と『約翰上中下書』の製作数量は同じではなかったようです。
この時点で、現存する『約翰福音之傳』と『約翰上中下書』は、それぞれ16冊、2冊が確認されているとしています。
そして、この『約翰福音之傳』は、3回印刷されたとしています。これは、後ほどの記述で判りますが、この『約翰福音之傳』は、3種類存在していて、2回改訂が行われたことを意味しています。
ところが、その後に続く記述が気にかかります。
それは、2回の改訂されているにもかかわらず、「この翻訳は聖書協会が要求する水準にないとの理由で、印刷を打ち切られている」という記述です。
一体「要求する水準にない」とはどうとらえればいいのでしょう。
この言葉の裏側には、この和訳聖書が正しく翻訳されているのか、その成否の判定において、相当シビアな議論があったことを窺がわせています。
筆者は、以前「聖書協会は、それぞれの国で行われる聖書の翻訳本を2部保管しなければならない」と聞いたことがあります。ギュツラフ訳のこの聖書の場合、アメリカ聖書協会が資金を提供していますので、同協会に保管義務が生ずることになります。
保管にあたっては、その聖書が「正しく翻訳されているか否か」の審査が必要なのでしょう。このアメリカ聖書協会の「要求する水準にない」とは、これらの聖書の審査結果の答えなのでしょう。
もしそうであるならば、当委員会に日本語を解し、評価までする人物がいたことになりますが、果たしてどうなのでしょう。この当委員会が下した決定は、そんな素朴な疑問も出てきます。
この日本聖書協会㏋の記述は「1838(天保9)年7月のアメリカ聖書協会の委員会の記録」と、日付と出展が明確であるゆえに、かえってその決定が際立っています。
しかも、当委員会の決定にもかかわらず、二度の改訂が行われていることも、不自然なことです。特に、一回目はともかくとも、二度目の改訂は当委員会の決定後ではないかと思われるからです。
また、三回に及ぶ大量に印刷された『約翰福音之傳』と『約翰上中下書』のその後の行方も気になるところです。前述したように、日本布教のアイテムとして作成された聖書が、言ってみればデッドストックとなってしまったわけですから。
この日本聖書協会㏋の記述は、このような幾つかの新たな疑問を提示しています。その疑問を追ううえで、手掛かりとなるのが、現存する『約翰福音之傳』と『約翰上中下書』の所蔵施設や、中に書き込まれたメモです。

④ 日本聖書協会による『約翰福音之傳』及び『約翰上中下書』の復刻事業

2011年、日本聖書協会によって進められていた4回目の『約翰福音之傳』と『約翰上中下書』の復刻事業が完了しました。
この復刻版には、秋山憲兄(のりえ)氏の「解説書」が添えられています。
それによれば、「現存の聖書は、世界で16冊発見されているが、そのうち海外所蔵が9冊、国内が7冊確認されている」とされていて、その所蔵施設と冊数が明記されています。
その中で、海外所蔵で「大英図書館は『約翰福音之傳』と『約翰上中下書』は、それぞれ1冊」と記されていますが、筆者がたまたま2019年6月、当館を訪れた時『約翰福音之傳』が3冊、『約翰上中下書』が2冊所蔵されていることを確認しました。従って、実際の現存数は、現在のところ海外ではそれぞれが11冊と3冊ということになり、総数では18冊、3冊ということになります。
そして、秋山氏はこの復刻事業を進める中で、国内所蔵の7冊には「3種類の版が明らかになった。」(「解説書」30頁)と、初版本に加えて、第一次改訂本、第二次改訂本と二回改訂されていることが記されています。
これが日本聖書協会㏋の3回印刷されたとの表現となったのでしょう。
そして、この「解説書」には、各々の版が所蔵されている場所名を振って暫定的に区分けするとしています。
初版本=聖教本(日本聖書協会)、第1次改訂本=東神本(東京神学大学)、第2次改訂本=明学本(明治学院大学)の3種類です。
そして、現在所蔵されている施設名が以下のように紹介されています。ただ大英図書館の冊数は、前述したように、秋山氏はそれぞれ1冊としていますが、ここでは筆者が確認した3冊、2冊としました。

◎『約翰福音之傳』
米国外国伝道会本部(アメリカン・ボード)・・・・・ =3冊
ハーバード大学図書館 ・・・・・・・・・・・・・・ =1冊
米国聖書協会 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・ =2冊
英国聖書協会 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・ =1冊
英国大英図書館 ・・・・・・・・・・・・・・・・・ =3冊
パリ国民図書館 ・・・・・・・・・・・・・・・・・ =1冊
東京神学大学(東京・東神本)・・・・・・・・・・・ =1冊
同志社大学(京都・聖教本)・・・・・・・・・・・・ =1冊
日本聖書協会(東京・聖教本)・・・・・・・・・・・ =2冊
明治学院大学(東京・明学本)・・・・・・・・・・・ =1冊
天理図書館(奈良・聖教本)・・・・・・・・・・・・ =1冊
故石橋智信博士(個人・東神本)・・・・・・・・・・ =1冊

◎『約翰上中下書』
英国大英図書館 ・・・・・・・・・・・・・・・・・ =2冊
パリ国民図書館 ・・・・・・・・・・・・・・・・・ =1冊

世界各地には、以上のように所蔵が確認されていますが、まだまだ、その発行部数から考えると、多くの欧米の教会や図書館の書庫に『約翰福音之傳』や『約翰上中下書』が眠っているに違いありません。今後の調査発掘に期待するところです。
なお、大英図書館に所蔵された『約翰福音之傳』3冊にうち、2冊が「解説書」で照合してみますと東神本の可能性が強いようです。
やはり所蔵数の多いのは、大英図書館とアメリカン・ボードの三冊が目を引きます。
特に、ボストンに本部を置くアメリカン・ボードは、7人の仲間(漂流民)を保護している宣教師たちの派遣元でもあることから考えて、至極当然なことでしょう。
従って、アメリカン・ボードの本部は、音吉と力松がまず最初に目指した場所でしょう。
S・W・ウィリアムズやP・パーカーは、モリソン号事件前後に、それぞれアメリカン・ボード首席書記ルーファス・アンダーソンに、詳細な報告書を送っています。特に、P・パーカーは、事件後アメリカン・ボードの機関紙『ミッショナリー・ヘラルド』に投稿もしています。
この同本部のあるボストンは、音吉と力松の二人にとって、絶海から生還を果たしたにもかかわらず祖国から見放された日本人として、周知もされていたことでしょうから、好意的に迎えられたはずです。すなわち当地は、唯一「日本の国民を代表してアメリカ人の目に訴える」足掛かりとなるはずの場所なのです。

この日本聖書協会㏋の「和訳史03|現存する最初の日本語聖書」の記述と「解説書」の紙背には、音吉の姿が垣間見えています。それは、音吉が、カタカナで書かれた最初の和訳聖書の、次なる重要な課題を担ってアメリカへ旅立って行ったことを窺がわせているからです。
まずは、大量に刷られた『約翰福音之傳』が正式な聖書になるため、アメリカ聖書協会の認定を受けることです。すなわち、モリソン号での日本交易の試みが失敗したことにより、当面の活用は遠のきましたが、来るべき日に備えて正式に認められた聖書として準備しておくことです。
そして、次に、頑なに国を閉ざす日本に対して、布教の必要を喚起するための拠り所となる書としての活用です。
すなわち、ギュツラフは、和訳本『約翰福音之傳』が近い将来宣教師を目指す人々に役立つはずと、活路を見出したのでしょう。彼は、この聖書を日本に対してではなく、欧米のキリスト教国へ向けたのです。
これにより、デッドストックとなったと思われた聖書が生かされることになると考えたのでしょう。
実際、幾人かの宣教師が『約翰福音之傳』を携えて日本を訪れたことからも、ギュツラフの思惑は当たることとなります。
かくして音吉は、モリソン号上で岩吉、久吉と交わした“三吉の誓い”も新たに、重責を担い『約翰福音之傳』の相当量を携えて、再びモリソン号に乗り込んだのでしょう。言ってみれば、この18冊の聖書のうちの何冊(初版本)かは、音吉のアメリカでの足跡をたどる手掛かりとも言えます。

⑤ 同志社大学所蔵の『約翰福音之傳』

現存する『約翰福音之傳』の中で、特に注目されるのが、同志社大学所蔵の聖書です。
この聖書が重要なのは、それぞれ違うところに、違う書体で、三項目の書き込みがあるということです。それゆえにこの書は、資料的価値を付加し、歴史的なものとなっています。
これは、アメリカン・ボードから1938年8月18日、同大学に寄贈されたものということです。
この三項目の書き込みのある重要な聖書が「なぜこの年に贈られたか」には、この日付に同志社大学の強いメッセージか込められているようでもあります。確かこの年は同志社大学にとって、建学50周年の記念すべき節目の年だからです。この件については後の章に述べるとして、
秋山憲兄氏は「解説書」の中で、三項目の書き込みについて記しています。

第一の書き込み(表表紙の裏側)は、出版が1837年5月を証明するもの。
第二の書き込み(裏表紙の内側)は、米国伝道協会にて受領した日付、1837年10月23日。                                                                                    
第三の書き込み(表見返し)は、聖書翻訳を助けた日本人のことを指したものである。米国に渡航して伝道協会本部に行った日本人から聞いて書き付けたものと見てもまちがいあるまい。

復刻版「解説書」より

この三項目の書き込みは、すべてそれぞれに重要な意味が含まれています。第一の書き込みは、2回の改訂で3種類存在する『約翰福音之傳』のうち、完成年月を特定していることから、初版本を証明していることです。
第二の書き込みは、約5ヶ月後の受領の日付から考えて、制作者のギュツラフや協力者の日本人、三吉の目に触れることなく、印刷後、直接シンガポールからアメリカに向けて発送されていることを証明するものとなっています。ここには、性急なギュツラフの性格が表れてもいるようです。そして、アメリカン・ボードは、それを早々にアメリカ聖書協会に送ったのでしょう。同協会では初めて見る日本文字であったことと思います。当地には「日本語を解読する人物がいたのでしょうか」とは先に提示した疑問ですが、この書き込みにヒントがあるようです。ここに、ギュツラフがしかるべき人物を、やがて送る意図が見えなくもありません。
そして、第三の書き込みは「聖書翻訳を助けた日本人のことを指したもの」とはまさに目を見張るものがあります。このくだりは、特に重要なので英文と共に以下に示します。

The native who assisted in this translation, when afterwards questioned regarding the meaning of passages in it, confessed that he was ignorant of what he wrote,
「この翻訳に協力してくれた日本人は、後に本書の内容に問われた際、実は自分の訳が正しいのかどうかわからないままに訳したと打ち明けた。」

この書き込みに、日付の無いのが極めて残念ですが、ここに登場する“翻訳に協力してくれた日本人=native who assisted”とは三吉のことですが、3人のうち誰のことでしょう。
そして、さらにその後に続く書き込み「実は自分の訳が正しいのかどうかわからないままに訳したと打ち明けた。」なる文章が如何にも気になります。
このリアルで臨場感あふれる書き込みは、日本人がアメリカ聖書協会の面々から、鋭い質問を受けている様子が容易に想定できます。そして、質問に窮した彼の、何ともやるせない証言がここに書き込まれているのでしょう。

⑥ 日本と欧米の文化のちがいと、語学に目覚める音吉

ここで、この情景から思い当たるのが先ほどの「和訳史03|現存する最初の日本語聖書」の中の「1838(天保9)年7月のアメリカ聖書協会の委員会の記録によると、この翻訳は「聖書協会が要求する水準にないとの理由で、印刷を打ち切られている。」という記述との関連です。
ここの記述で重要なことは、アメリカ聖書協会の委員会の決定もさることながら、1838年7月と期日が明確なことです。
この書き込みが「初版本」になされていることを考えても、この「この翻訳に協力してくれた日本人」こそ、今は亡きインガソル船長の好意でアメリカに渡った人物、すなわち音吉であると断定していいのでしょう。
音吉は、1838年5月には、モリソン号で、ニューヨークに到着していたと考えられます。
彼は、到着早々、アメリカ聖書協会に赴き『約翰福音之傳』と『約翰上中下書』の説明や、日本への布教の有効性について尋問を受けたのでしょう。
この第三の書き込みは、まさに音吉がアメリカに入って活動をしていたことを証明するもの言えます。
この時の音吉では、まだまだ不備を突かれても返す言葉はありません。
この場を想像逞しくすれば、初めて日本語に接するアメリカ聖書協会委員が「カシコイモノ」とは何、「ゴクラク」とは何処か、鋭く質問していた情景が浮かんできます。
孤軍奮闘すれども、ギュツラフと三吉が見出した苦心の訳語も理解されなかったということになります。
その結果、このような「聖書協会が要求する水準にない」という厳しい判定が下されたのではないでしょうか。
音吉にとって、この役割は、まだ荷が重すぎたようです。
彼は、ここで、まざまざと日本と欧米の文化の格差と、語学の重要なことを思い知らされたことでしょう。
徒労感を漂わせてマカオに帰って来た音吉ではありましたが、そこはアヘン戦争前夜、風雲急を告げていました。ここに音吉の新たな任務が待っていました。

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