見出し画像

第7章 音吉の上海時代

(1)音吉の近況を伝える二人の中国人

① 浪越巌の投稿記事から

時代は下って、1877年(明治10年)『大阪日報』( 現大阪毎日新聞の前進)9月13日号に、「今を去る20余年」と断ったうえで、音吉に関する投稿記事が掲載されました。
投稿は「在 大阪 陶亀仙史 浪越巌」なる、何やら曰くありげなペンネームの人物によるものです。その投稿記事を『奇談・音吉追跡』の著者田中啓介氏が口語訳にして紹介されています。それによれば、

今を去る20余年、安政戌午巳未(5、6年)《1858~59》の年、私は肥前長崎にあって、当時清国から来ていた馮鏡如・沈大動などと度々会って友達付き合いをした。ある日篤斉沈大動が私に「あなたは日本のどこの生まれか」と尋くので「東海道尾張の国である」と答えると、「それなら上海音吉と同国だ」と。私は「その音吉とはどんな人か」と問うたら、篤斉は「音吉は今尚上海に居て、一種の奇男子《これは変人奇人ではなく、数奇な運命の人の意味か?》なり、今尚日本語、於登伎知《オトキチ》をもって名とし、漂流の時着ていたぼろ布を家宝として、友人知人に見せてこの上ない喜びとしている」と。彼音吉は以前からイギリス人に愛され重く用いられて、・・・・(中略)・・・・安政5年《1858年》5ヶ国開港(注―1)が公許された。音吉は尚上海に居て、彼はこの5ヶ国から多額の賞与を受け取り大変喜んでいた。当時上海の於登《オト》として有名人であった。家も日本風に造り、酒器食器もまた日本製のものを揃え、すこぶる奇男子だという。これは20余年前に長崎で沈篤斉大動から聞いたことである。
篤斉は蘇州杏花村の大金持ちの糸商《紡績業》27歳と言っていた。彼音吉が銀行に一万円の預金があり、子孫に不自由ないのは、5ヶ国から送られたものではなかろうか。

()内筆者加筆

このように浪越巌なる人物は、新しい時代を予見した20年前を振り返り、長崎を舞台に、中国の新進気鋭なる二人との間で、意気投合した状況を回想しています。そして、自分と音吉が同郷ということで、より一層話に弾みがついたと。
予期しない人物音吉の登場でいぶかる浪越巌なる人物に、馮鏡如・沈大動が親しみを込めて語っています。
彼らは「漂流の時着ていたぼろ布を家宝として」と語るなど、音吉が漂流中の苦しみを忘れず、また、日本を懐かしみ、故国の生活様式などを取り入れていることを伝えています。
この中で「家も日本風に造り」ともあり、外見からしても音吉は目立つ存在であったことを窺わせています。
さらに、彼らは続けて、音吉は「銀行に一ビール氏の倉庫管理人になっており、多額の金を貯えている。」が示すように、以前からかなりの財を成していたようです。
この二人の中国人のどこか自慢げに話す証言からは、国際都市上海に腰を据えた東洋人音吉が西洋人に信頼を得、対等に渡り合い、尊敬すら受けている光景を思い浮かべる事が出来ます。音吉が40才ごろのことです。

②中国人憑鏡如と長岡藩士河井継之助

さて、音吉の情報提供者である馮鏡如・沈大動はどんな人物であったのでしょう。この引用文から沈大動については、出身や年齢・職業についてはわかりますが、日本での行動などは、この投稿以外今のところ見つかっていません。
ところがもう一人の馮鏡如については、以下二つの文献により、かなり詳しくたどることが出来ます。
その一つ目は、岩下哲典編『江戸時代 来日外国人 人名辞典』によるものです。それによれば、

馮鏡如(1822-98年)は、広東省番禹県の出身。別名憑哲華という。孫文を支援することで有名な横浜華僑馮鏡如とは同名であるが別人物である。1861年(文久元)、イギリス商社ゴロウルの附属の身分で、長崎大浦のイギリス商社メッテイソンの借地で居住。1871年(明治4)の「日清修好条規」締結するまで、来日の華商の多くは西洋商社附属の身分で滞在したが、馮鏡如は商人ではなく、1878年登録の職業は文墨字画師であった。1879年(同12)から1898年(同31)に逝去するまで広東会館の会長を務めた。

この記述では冒頭、馮鏡如はほぼこの時代、二人いたことが示されていて、横浜華僑の馮鏡如も著名人で、混同しないようわざわざ記されて注意を促しています。
長崎で活躍する馮鏡如は、商人ではなく、文墨字画師(詩文を詠み書画をかく文人)で、1861年に来日し、後に長崎広東会館の会長を務めたと記されていています。
また、彼が広東省番禹県(現広東省広州市番禺区)の出身であることも目に留まります。すなわちこの広東省は、中国にとって唯一外国に開かれた窓口があり、西洋の宣教師や商人が多く住み、彼らから、西洋の文化や科学技術の息吹を感じ取った若者が新しい価値観に目覚めた特異な地だからです。おそらく馮鏡如も、その新しい価値観に目覚めたその若者の中の一人だったのでしょう。
二つ目の文献は、長岡藩士河井継之助(1827-1868年)の旅日記『塵壺』からによるものです。
この書は、継之助が安政6年(1859年)6月7日から12月22日まで、江戸を出て九州に至る旅日記を『塵壺』と題して書き留めたものです。
この中に「14 唐人と交歓する」の章があります。この唐人とは、まさに馮鏡如のことで、しかも、浪越巌なる人物が彼と「度々会って友達付き合いをしていた」時期とも重なっているのです。
この年の10月5日、長崎に入った継之助は、旅の途次知り合った会津藩士秋月悌次郎(1824-1900年)と12日に再会し、18日まで行動を共にします。
年齢は継之助が悌次郎より3才年下ですが、性格が生真面目な悌次郎と、豪放磊落な継之助はなぜか大変馬が合ったようです。
馮鏡如との出会いはこの時で、他に唐通事の石崎次郎太、田中なる人物を加えた5人で宴席をもうけたというのです。

昼後八ツ(午後2時)頃より、広東人・馮鏡如と云う唐人来たれり。これは我等への馳走に呼びしなり。才名のある男の由。英吉利船に雇われ来れるものなり。その後、牟田も来る。

安藤英男校注『塵壺』より

この宴会は、その後、詩書に興じたり、時世の話にも広がって、夜八ツ(午前2時)まで延々と続いたといいます。それでも時間はあっという間に過ぎたと継之助は言っています。この継之助が記す『塵壺』は、馮鏡如を観察感の鋭い教養人であると評してます。
そして、ここで注目したいのは、途中から宴会に加わった牟田という人物です。その彼が馮鏡如に質問しています。
「牟田、近来の乱(太平天国の乱かアヘン戦争のことか)を問う。彼の答え、『墨利加(あめりか)』と書きし様に覚ゆ。『和を入れしより不生枝節』と、その文面面白し。」と継之助は感想を述べています。この文面では継之助がなんと解釈したのかはかりかねるものの「その答え面白し」としています。それはともかくとして、この「近来の乱」を馮鏡如に問うた牟田という人物は一体誰なのでしょう。
少し踏み込み過ぎとたしなめを受けるかも知れませんが、継之助は佐賀藩士中牟田倉之助(1837-1916年)のことを言っているように思えてなりません。
その理由は、継之助はその日の前後に、秋月悌次郎の取り持ちで長崎海軍伝習所の教授、矢田堀敬藏を訪ねています。倉之助は、その長崎海軍伝習所に在籍していて、数学や英語にその俊才ぶりを発揮しています。おそらくこの時に、継之助は、倉之助と面識を得ていて「なかなか見所ある若者」と感想を持っていたに違いありません。
さらに言えば、中牟田の発音が中村と聞き間違えやすく、通称「牟田」で通っていたか、継之助がそのように呼んだのではないかと。些事にこだわらない性格の継之助は、当時32才で、10才年下の倉之助を通称の「牟田」と呼んでいたとしても不思議ではないと思うのですが。
倉之助は、その3年後に幕府が上海へ派遣する使節団の一行に加わります。その時彼は、2度にわたってデント商会を訪ね、音吉に面会を求めています。音吉はその年のはじめ、シンガポールへ移住していて、結局一歩違いで会うことが出来ませんでした。その時の様子が中村孝也著『中牟田倉之助伝』に記されています。それによれば、

『乙』は漂流して後、上海に住めども、日本の恩義を忘れざる旨を嘗て長崎にて傳聞したりし故、面會して見たしと思ひ、訪問せり

この倉之助の得た音吉に関する「嘗て長崎にて傳聞したりし」の情報源はどこからであったのか考えるとき、浪越巌なる人物に語った馮鏡如・沈大動の証言が浮かび上がってくるのです。
彼らは、倉之助にも、音吉の“奇男子”ぶりを語っていて、「君が上海へ行くのであれば、ぜひ音吉に会って、その目で確かめて来るがいい」と。 

一方、この記事を『大阪日報』に投稿した「在 大阪 陶亀仙史 浪越巌」とはいかなる人物なのでしょう。この明治10年の頃、すでに新聞をとり、投稿までする人物「浪越巌」とは、この字面から窺えるのは廻船業か貿易商か、また「陶亀仙史」とは、今は現役を退き隠居の身で、遠い過ぎし日に思いを馳せながら名器に茶の湯をくぐらせてでもいるのか、それとも泥をこねながらろくろを回し名器の作製にいそしむ姿か。
いずれにしても、尾張から大阪に移り住み、財を成し、悠々自適の生活を送る姿が浮かんできます。
そして、この「浪越巌」なる人物が、何故この投稿にまで至ったのか、その動機や背景については、後にその詳細を委ねることとして次に進みます。

音吉は、デント商会が1843年上海に支店を設けてより、メアリー仕込みの語学に加えて、新たにビールという商いの師を得たようです。
すでに何度も引用していますが、1862年4月、シンガポールを通過した淵辺徳蔵の驚きの問い「何業にてかかる生計成しや」に、音吉は「貨物の口入などして暮らすよし」と答えています。この音吉の言う「貨物の口入など」は、ビール直伝の商売の手解きを受けたものでしょう。
時代がドラステックに展開する上海における音吉の存在は、きわめて時宜を得たものとなったようです。
それは、アヘン戦争後、西洋諸国の商人が「次は日本への進出」と機運が高まってきていたからです。
音吉は、商人としての才覚を示す一方、語学を生かした通訳としても重宝がられていきます。

(2)動き出すギュツラフのプラン

① マリナー号の日本派遣

音吉は、上海時代、二度に渡って日本へ通訳官としてやって来ています。
そのうち最初のマリナー号による来日は、音吉にとって「日本人の近代通訳第一号となった」こと、「まだ身分制度のトラウマから逃れられず中国人林阿多(リンアトウ)と名乗り、ひたすら、身を偽って」のことなど、第2章「生い立ち編」で述べました。
実は、このマリナー号の日本派遣は、イギリスが遂に重い腰を上げた意思表示ともいえるものということが出来ます。
あのハドソン・ベイ・カンパニーの支配人マクラフリンの提案―—英国圏に入った最初の日本人、三吉を足掛かりに日本との交易を―—に対しても反応を示さなかったイギリス政府が、いよいよ日本へ行動を開始したのです。
このマリナー号(マセソン艦長)が、1849年5月、浦賀・下田にやってきた時のことについて、今少し見てみたいと思います。
ここにはギュツラフの強い思いが込められているようです。
ギュツラフは、予てより、アジア一帯のキリスト教教化を夢に描いていました。
それは、彼が中国で足場を築く前の1832年に、イギリスの調査船アマースト号に乗り朝鮮から沖縄、また、日本を伺う勢いでその沿岸を調査したことや、「ヨハネ伝」と「ヨハネの手紙上中下書」の和訳事業、或いは、モリソン号の試みに参加などから読み取ることが出来ます。
ギュツラフは、アヘン戦争中の1840年、占領した舟山列島の行政長官となり、43年8月には、香港政庁商務官、後に中国人担当行政局長官となっています。(秋山憲兄著『約翰福音之傳・解説書』より)
ここに至って、一定の権力と発言力を得たギュツラフが、自分の夢を完遂させる条件が整ったと自覚したに違いありません。
前の章で栄寿丸船頭善助がギュツラフの館に居て、抱いた懸念「イギリス軍がアヘン戦争の余勢を駆って、日本へ押し寄せるだろうという浮説(噂話)」は、真実をとらえていたようです。
イギリスは、日本へアプローチするのに長崎ではなく、浦賀と下田を選びます。そして、その近辺の地形海洋調査に、マリナー号の派遣を決めます。
マリナー号の航海士アルフレッド・ローレンス・ハローランは『航海日記』に次のように記しています。

5月14日。4ヶ月分の食糧を積み込んだ後、音吉≪直訳すれば幸運の音≫という名の日本人青年を本船に迎える。この青年は1832年に乗っていた船が難破し、その後モリソン号で江戸へ向うものの、母国の地を踏むことをゆるされなかった。そのため中国へ引き返し、上海在住のひとりの英国人商人に仕える。本船の船長は日本行きの命を受けており、音吉を通訳として雇い入れた。本船は19日に呉淞江を離れ、サドル島を後にした。

イギリスが初めて日本へ派遣する公式調査船です。
音吉の通訳官の採用には、おそらくギュツラフの強い推薦があったのでしょう。
恩師メアリーが亡くなったのが4月ですから、ほぼ1ヶ月後ということになります。これらの状況から、ギュツラフは、音吉に対して信頼を寄せ、期待をしていたに違いありません。
しかし、当の音吉は、モリソン号での苦い経験もあり、日本の鎖国に関わる厳しい掟を恐れていて、日本行きには相当躊躇したようです。彼は結局、通訳官の大役を引き受けるわけですが、その対策として採ったのが、ひたすら中国人、林阿多と身を偽っての参加同行でした。
1849年、ギュツラフ悲願の「日本開国と宣教のプラン・パートⅠ」が動き出し始めたのです。

② マリナー号の日本側の反応

マリナー号の訪問を受けた日本は、薄々ながらもイギリスの意図に気付いていました。
しかしながら、国是である鎖国の大前提のもとに如何ともしがたく、ただ彼らが過ぎ去るのを待つのみでした。
この時の日本側の反応を松浦玲氏は、著書『勝海舟』の中で「1840年代半ばごろから、鎖国を前面に打ち出しているにもかかわらず、頻繁に訪れる外国船」を列挙紹介した後、当時の幕閣では次のようなやり取りがあったと、以下のように記述されています。
「だがマリナー号には、他の外国船とは違う不気味なところがあった。まず最も警戒されていたイギリスの軍艦であるということ、また表面は穏やかだけれども測量には執念深く、しかも浦賀を退去した後で下田港に入って測量を続けるという異例の行動をとった。阿部正弘を首班とする幕閣は無二念打払い令を復活することに傾き、それを三奉行以下の要路に諮問したが、さすがにこれには賛成が少なく実現しなかった。」と言うものです。
前出のハローランの『航海日記』には、5月29日に浦賀に到着してより、6月4日にかけて浦賀水道から下田の海域を入念に測量計測したことが記されています。彼は「日本側の強い抵抗や妨害を受けることなく測量作業は順調であった」と記しています。このうち6月2日には、あいにくの天候で「この日は計測できず」としながらも、伊豆大島に上陸し様子を窺ってもいます。
ハローランの『航海日記』は「マリナー号の他の外国船とは違う不気味なところ」という日本の幕閣の反応を裏付けています。
また、松浦氏は、勝麟太郎(海舟=1823-99年)が後援者である伊勢松坂の豪商、竹口信義に宛てた手紙を引用して、幕府の対応や中国人と名乗る通訳についての意見を、前出『勝海舟』に紹介しています。
その手紙には、阿部正弘がこのイギリス船マリナー号の来航に関して、幕閣に意見を求める諮問文と、清朝がアヘン戦争に敗北を自認したときに科挙及第の者に対策を訪ねたとする諮問文のそれぞれの写しと共に、通訳の林阿多(リンアトウ)について麟太郎の意見が記されていました。
彼は「マリナー号に乗っていた通訳の林阿多が日本人に相違ないとの噂を肯定的に伝えた。」とし、「その根拠として林阿多が塩を積んだ廻船を見て、『これはこれ赤穂塩歟(か)さいだ塩歟(か)』と尋ねた話を挙げる。外国人がこんな立ち入った知識がもてるはずがないというのだった。」と書き送っています。
それにしても、今でいえば国交のない国が、領海侵犯、主権侵害に当たる行為を、みすみす指をくわえてみていたということになります。
当時蘭学に打ち込んでいた麟太郎が、現実に国防に目覚めたのはこの事件からということが出来ます。
それは、4年後の「黒船来航」に関して、幕府は、裾野広く国防に関しての提言を求めます。その時憂国つのる麟太郎の建言書「海防意見書」は、高い評価を得て出世の足掛かりを築きます。
この建言書は、主権と祖法を揺るがしかねないマリナー号の行動から、国防の必要性を痛感し思い巡らしていたもので、にわか仕込みのものではなかったからの評価と思われます。
アヘン戦争の情報が日本に到達し、ひたひたとイギリスの脅威を感じていた矢先のマリナー号の来航でした。

③ 注目される林阿多

この麟太郎の手紙の中で、今ひとつ気にかかるのが「マリナー号に乗っていた通訳の林阿多が日本人に相違ないとの噂を肯定的に伝えた。」という記述です。日本側では「林阿多が本当に中国人か、もしかして日本人では」と噂されていて、それを「肯定的に伝え」と書き送っています。
それは、当初から、関係者の間で、林阿多の人相があまりに日本人の特徴をあらわし(『開国プロローグ(その2)』注―1参照)、日本語も流暢であることなど、外国人とは信じがたいことなど挙げられていることに関して、麟太郎の見解です。
麟太郎は、そのことについて、林阿多のことを「これはこれ赤穂塩歟さいだ塩歟」と質問したことを挙げて日本人に違いないと判断しています。この林阿多こと音吉が言う「赤穂塩歟さいだ塩歟」はそれぞれ塩の産地で有名なところです。とは言っても、この質問は、製塩業か廻船業か専門家でなければ分からないことで、麟太郎はそのところを突いて「日本人に違いない」としています。
一方の音吉は、頑なに「中国人林阿多」と名乗り、イギリス艦隊の横柄な動きに、はらはらしながら見守っていたのでしょう。
そんな中でも、下田に停泊中の千石船の塩船の幟旗でも見つけて質問したものと思われます。
音吉の出身は、尾張知多半島の小野浦で内海廻船に属していました。
この地方の廻船のすみ分けは「内海のコメ船、野間の塩船、大野の寄せ荷で止め刺す」といわれ、関西の菱垣廻船や樽廻船に対抗しています。
音吉は、郷里の隣村野間の塩船を思い出し思わず口にしたものでしょうか。それとも、前の章で述べた栄寿丸漂流民初太郎との巡りあわせでも思い出したのでしょうか。初太郎の出身地は、阿波国撫養(むよう)町岡崎(現鳴門市岡崎)です。それが林阿多こと音吉の言う「さいだ塩」の「さいだ」とは、初太郎の故郷とは川を隔てて目と鼻の先、撫養町斉田のことなのです。この阿波の鳴門撫養町に広がる広大な塩田からとれる塩の銘柄を「さいだ塩」と呼んでいました。
音吉がこの塩の銘柄(産地)を尋ねたことは、思わず見せた強い郷愁の想いとも受け取る事が出来ます。
しかし、音吉がこの航海で新たに認識したのは、世界を席巻したイギリス国旗の威厳と、イギリス人の日本に対する反応だったようです。
前出のハローランは『航海日記』に書いています。マリナー号の指令内容は、緊張みなぎる作業であるがきわめて友好的に進められたと。
浦賀に滞在中「地元住民を受けいれたマリナー号甲板は毎日ごった返していたが」よくよく観察していると不思議と小競り合いなどがなく、譲り合いや思いやりが見られ「日本人は生まれながらに心優しく、礼儀正しい人々なのだ。」として、さらに、

不特定多数の人間が船に出入りをすれば、何か気に入った小物を盗むことは容易であるし、そうする者が出てきたとしても不思議ではない。しかし日本人は誰一人として盗もうとする素振りさえ見せる者はいなかった。このことは称賛に値する。

このハローランの日本に対するフレンドリーな『航海日記』の筆致には、ゴロブニンの『日本幽囚記』からの引用や比較が見られ、日本に対する予備知識を持って臨んでいたことも伺えます。
6月7日早朝、マリナー号は錨を上げ下田湊を後にします。日本の滞在は、10日間ほどでした。帰途に就いた音吉の胸中は如何なものであったのでしょう。
少なくともいえることは、彼はこの航海で、日本の身分制度を完全に払拭し、心に刻まれた封建制度の呪縛から解放されたようです。
マリナー号は6月30日、呉淞江に到着し、7月2日には上海に帰ってきました
ギュツラフは、マセソン艦長から、日本訪問の結果と成果の報告を満足な面持ちで聞いたことでしょう。
彼は、その2ヶ月後の9月、ヨーロッパへ旅立っていきます。ギュツラフにとってみれば「日本開国と宣教のプラン・パートⅡ」といったところでしょうか。

④ ギュツラフのヨーロッパ旅行とフルベッキ

前出の秋山憲兄氏の『解説書』によれば、ギュツラフは、1849年9月より1851年1月2日までの1年4ヶ月間ほど、賜暇休養のためヨーロッパへの旅行に出かけとあり、続けて次のように記されています。
「(ギュツラフは)故郷のプロシアのボンメルンをはじめ、オランダ、イギリス、ベルギー、ポーランド、ロシア、スウェーデン、デンマーク、オーストリー、ハンガリー、スイス、フランス、イタリー等を旅行し、各地にて中国伝道の精神を鼓吹した。」と。
おそらく彼は「南京条約」の締結により、中国の頑なな鎖国政策に風穴を開け、文明の証であるキリスト教の伝道に道筋をつけた成果を強調したことでしょう。そして、次なる目標は日本であると。
このギュツラフの講演を聞いて感動した青年がいました。幕末の1859年、アメリカからやって来た三人の宣教師のうちのひとり、グイド・F・フルベッキ(1830-98年)がその人です。彼が20才の時です
大橋昭夫/平野日出雄共著『明治維新とあるお雇い外国人 フルベッキの生涯』によれば、「ギュツラフが1849年か50年のある日に、ザイストの町を訪れてモラヴィアンの教会で東洋伝道の宣伝と募金を行った。フルベッキはこれを聞いて感激したのである。しかし、すぐに宣教師になって、東洋にゆこうとまでは考えなかった。まずアメリカが彼の心をとらえていた。」と記述されています。
ここで言うザイストは、オランダの首都アムステルダムから南に40㎞程の中堅都市ユトレヒト近郊の村で、オランダのほぼ中央に位置しています。
また、この記述の中にあるモラヴィアン教会とは、東欧に起源をもつプロテスタントの一派で、ギュツラフは、フルベッキと同じモラヴィアンの家で育ったとあります。
幕末に日本へやって来て、あらゆる分野で日本の近代化に貢献したフルベッキは、この時、初めて日本を知ったのでしょう。
ギュツラフのヨーロッパ旅行で具体的な史実として残るのは、今のところ、この一件のみです。
しかしながら、この事例によって、ギュツラフがヨーロッパ各地を精力的に募金活動の傍ら、講演をして駆け巡った、その一端を窺い知ることが出来ます。

(3)若き日本語学者レオン・ド・ロニー

① ロニーの『約翰福音之傳』摸刻版

さらに、ここでもう一例、ギュツラフのヨーロッパ旅行がどのようなものであったかヒントを与える事例があります。
それは、ギュツラフ訳の和訳聖書『約翰福音之傳』が1854年、フランスの日本語学者レオン・ド・ロニー(1837―1917年)により、模刻され発刊されたことです。
その模刻版とは、和訳聖書『約翰福音之傳』の1章と2章、それに『約翰上中下書』のうちから中書を抜粋し、それを彼が『約翰福音之傳』として、パリから刊行したというものです。
筆者は、その模刻版の『約翰福音之傳』をはからずも2019年、大英図書館にて閲覧する事が出来ました。大英図書館には二冊所蔵されているということで、そのうちの一冊です。それには、表紙にその旨を記した書き込みがありました。

大英図書館蔵  ロニーの『約翰福音之傳』模刻版表紙

さらにそれには、本文に入る前、ロニーにより、この模刻版発行に至る経緯を説明した「注記」が付記されています。
この「注記」とは、拙著『音吉伝』の初版本では「まえがき」として紹介していましたが、この改訂版では原文のコピーが手に入ったこともあり、独自に解読を試みてみましたところ「注記」の表現の方がふさわしく改めたものです。
この「注記」には、ギュツラフのヨーロッパでの活動が如何に活発であったか物語るとともに、当時のヨーロッパ事情やロニーの学識の高さを垣間見るものがあります。以下に、その「注記」の解説図を示します。なお改訳にご協力いただいたのは、フランス人で現在、岐阜県美濃加茂市の正眼短期大学の舎監をされているフォマレス・アタレ師と、多治見市住の翻訳業を営まれている岩田和秀氏です。

② 模刻版に前書きされた「注記」

「注記」解説図

ここには、ロニーがギュツラフ博士による『約翰福音之傳』の模刻版を刊行するにあたって、冒頭一言「注記」を挿入し、意外な注意喚起をしていることが分かります。
彼が記す、この「注記」の要点は、次のようになります。

  1. 今回発刊するのは,ギュツラフ師が著した『約翰福音之傳』の抜粋である。これはギュツラフ師がシンガポールで印刷されたもののようだ。

  2. 小生(ロニー)は、東洋学者から、日本語の書物等の入手が困難なため、この『約翰福音之傳』の「ほんの数ページでもいいから写しが欲しい」と依頼された。

  3. そこで、小生は、彼らにそれの(ギュツラフ師の和訳聖書(『約翰福音之傳』と『約翰上中下書』)一部分を抜粋し、彼らに書き送った。

  4. しかし、後から思うことは、ギュツラフ師の『約翰福音之傳』が完璧とは程遠い日本語訳であり、書き送ったことが悔まれた。

  5. 私が見たギュツラフ師の『約翰福音之傳』原本は、8等級(?)の唐紙に印刷された60頁の小冊子である。また同じくカタカナで記された「ヨハネの書簡」が付属されている。

  6. さらに「追記」するが、この『約翰福音之傳』には、残念ながら少々の写し間違いがある。その原因は、写しの作業を担当した者の知識不足によるもので、その幾冊かは直したがそうでないものもある。

  7. 誤りの箇所は、帝国図書館にギュツラフ訳の『約翰福音之傳』の実物があるからそれを見れば容易に直す事が出来るだろう。

この「注記」は、このように分解し、解釈することが出来ます。
この「注記」の記述は、当時のフランスで、日本への関心がにわかに高まったことを示ています。そして、その日本進出の取っ掛かりに、東洋学者の着目したのがギュツラフの日本語訳『約翰福音之傳』だったことを窺わせています。
それは、ギュツラフが1849年から50年にかけて、和訳聖書『約翰福音之傳』と『約翰上中下書』を抱え、時には題材とし時には見本と用い、ヨーロッパ各地を意気軒昂に駆け巡ったことの成果・反響でしょうか。
その結果、多くの東洋学者がギュツラフの主張に興味を抱き、やがて彼らは、日本語研究では出色のロニーに、その核心部分のコピー(摸刻)を委託するまで至ったのであろうかと。
ギュツラフの講演旅行は、この東洋学者の呼応ぶりから見ると、大成功であったということが言えるかと思います。
そして、さらにフランスの東洋学者を突き動かした理由がもう一つ考えられます。
それは、アヘン戦争を境に、ヨーロッパ各国の間で、アジアを目指す機運が高まったことです。中でも、フランスは、イギリスと競うようにアジア進出をはかります。そして、その勢いは、着実に日本への開拓も視野に入って来ます。
1844年には、日本を見据えて沖縄に宣教師セオドロ・オーグステン・フォルカード(1816-1885年)を送り込んでいます。彼は、2年間、沖縄で布教活動を試みますが言語の違いと琉球政府の禁教政策に成す術もなく、46年には沖縄を退去します。その後、香港にとどまり、日本のキリスト教布教師に任じられますが、52年になって病にかかり、任地に赴くこともなく母国に帰還しています。
フォルカードは、その間に沖縄で、イギリス海軍沖縄宣教教会が送り込んだベッテルハイムと遭遇します。彼は、語学の天才といわれ、沖縄入植後、早い段階ですでに辻説法を始めたといわれています。彼の所持していたのがギュツラフ訳の『約翰福音之傳』でした。
フォルカードは、フランス帰還に当たって、香港かシンガポールでギュツラフ訳の『約翰福音之傳』と『約翰上中下書』を持ち帰ったものと考えられます。
おそらくロニーが言う東洋学者の要望というのは、これらの事情から、フランスの教会からの要求や依頼が背景にあるものと思われます。
彼らにとって、布教の基本は、現地の言語であり、聖書なのです。
このようにしてフランスの宗教界から強い要望を受けた東洋学者は、ロニーに『約翰福音之傳』の写しの作成を依頼したのでしょう。
ロニーは、その時は自分が日本語の勉強にでもなることだからと気軽にその依頼を引き受けたのでしょうか。しかし、そのあとの記述が気になります。
彼は、意外にも「その頼みを引き受けたものの、この和訳本の一部分とはいえ、完璧とは程遠いこの和訳が再び人の手に渡ることが悔やまれた。」と後悔の念にかられているのです。
すなわち、ロニーはいたって冷静に、このギュツラフ訳の和訳聖書『約翰福音之傳』を「完璧には程遠い」と評価し、それが「再び人の目にわたることが」良いのかどうか自問しているのです。
さらに彼は「追記」で「残念ながら少々の写し間違いがある」としながら、それを帝国図書館で確認してほしいとも記しています。
このようにロニーの、この「注記」からうかがい知れるものは、模刻版の出版に至る「悔やまれた」心境とともに、ミスプリントもあるから、帝国図書館所蔵の原本とすり合わせをしてほしいと訴えていることです。
そのために、ロニーは、この模刻版の冒頭に、わざわざ「ご案内(Attention)」ではなく「注記(Avertissement)」としてのページを挿入し、読み手に注意を促しているのでしょう。
このロニーの模刻版には「注記」が挿入されたことにより、当時、東洋学者の間で、ギュツラフ訳の和訳聖書『約翰福音之傳』と『約翰上中下書』が注目を浴びていることを窺わせています。

③ 語学の天才ロニーの生い立ち

さて、多くの東洋学者が熱いまなざしを向け、期待を寄せる日本語に詳しいロニーとはどんな人物なのでしょう。なんとそこには、年端の行かぬ希代の天才児がいました。
まずもって驚くべきことは、依頼されたロニーのその時の年齢です。彼は、まだ青年と呼ぶにはまだ初々しい17歳になるかならないかの歳だったのです。特に、最初に東洋学者がロニーに依頼したのは、模刻版の発行年月が1854年2月であることから、おそらくロニーは16歳のことだったと考えられます。
それでも西洋の並み居る東洋学者は、若干16.7歳のロニーに翻訳を依頼しているのです。今の日本で言えば高校1.2年生ぐらいに当たりますか、いささか信じ難き話ですが、真実のようです。
あらためて「注記」を読み直しても、文章も整然とし、自信にあふれた筆致です。そして繰り返しにもなりますが「完璧とは程遠いこの和訳が再び人の手に渡ることが悔やまれる」と、学者としてのプライドもすでに持ち合わせています。この「注記」には、その内容の重要性ばかりでなく、ロニーの天才ぶりをも見せているのです。

ロニーについてこんな逸話が伝えられています。それは、この摸刻版が発行された8年後の1862年4月(文久2年3月)のことで彼が25才の時のことです。
いわゆる文久の遣欧使節団(正使竹内下野守一行36名)がフランスに到着したときのことで、一行は、予期せぬ奇妙な男性の歓迎を受けます。その男性がロニーでした。尾佐竹猛氏による『幕末遣外使節物語』にその時の模様が記されています。それによれば、
「このころフランス人でロニーという奇男子があった。年25歳日本語に通じ日本の事物を好み、日本風の生活をなし、抹茶を喫し日本の煙管(キセル)で刻み煙草(きざみたばこ)を吸ふ、日本紀、日本外史などを読み、日仏辞典を初め十数種の日本に関する著書あり、日本語学校の教師を勤めて、苟(いやしく)も日本を誹(そし)るものあらば怫然(ふつぜん)と弁解するという変わった男であった。そこへ日本使節が来たものだから喜んで旅館へ訪問してきて・・・・・・・」
と、ロニーが一行を訪ねて来た時の光景が記されています。
彼らは、日本の公式使節団として始めて分け入った西洋の異国の地で、かくも日本通の若者の出現に驚いています。
また、この記述にもみられるように、彼は多くの日本に関する著作・論文を、その時すでに発表もしています。杉本つとむ著『西洋人の日本語発見』を参考に見てみますと、

1853年 『数種の漢和辞典の適用』を皮切りに、
1854年 『日本語研究序説』、『口語、文語日本語入門綱要』、
1857年 『日仏英辞典』、
1861年 『日本語とアジア大陸諸語との関連性』、『和魯辞典についての報告』、『日本の百科事典、和漢三才図絵の土俗性注記』があります。

ここで見てみますと『約翰福音之傳』の摸刻版の刊行された1854年までに、すでに2冊の論文を発表していることが分かります。
その中でも、その同じ1854年に発表された『日本語研究序説』は、オランダのライデン大学の日本語教授であったヨハン・ジョセフ・ホフマン(1805-1878年、注―2)に強い影響を与えました。
ホフマンは、後に発表した彼の主著『日本文典』の中で「その労作(『日本語研究序説』のこと)が、ホフマンの研究に光を与え、強く心をとらえたと述べている」と記述しているのです。
しかもこの時の年齢差は、ホフマンが49歳、ロニーは17歳で実に30才以上の年齢の隔たりがありながらのものです。
当時では、ヨーロッパの日本語研究では第一人者であるホフマンから、親子ほどの年齢差を超えて、敬意の言葉すら贈られているのです。
すなわちロニーは、16,7歳までに、常時日本人に接することなく、日本に対する造詣を深めていたことになります。
1871年、ロニーが34歳のときには『詩歌選集』を発表していますが、そこに彼は、日本文字名で羅尼と当て字し、こんな和歌を載せています。

冬の野乃 木の葉に似たり我が命 敢え無き風に散りや行きなん  羅尼      

まさに『方丈記』や『平家物語』書出しを彷彿させる日本情緒の神髄にふれ、無常観を詠み込んでいます。
それにしても一体、だれが、いつ、ロニーに日本語を教えたのでしょう。そして、なぜ、ロニーはかくも日本文化に取り憑かれたのでしょう。

④ ロニーの日本人との出会い

前出の杉本つとむ著『西洋人の日本語発見』を見てみますと「ロニーは、中国語学者ジュリアンに師事したので、フランスの伝統的中国学、レミュザ―ジュリアン―ロニーといった学統に立っているわけである。したがって、出発点は中国語であるが、それを基礎にして日本語学習や研究に及んだという点、日本語学のひとつのパターンを想定することが出来る。」と記述されています。
ここでは、ロニーがいつ日本語学習に入ったのかや、その動機には触れていませんが、1853年に、16才にして日本語の論文を発表するまでに至っていることを考えれば、少なくとも、日本語との出会いは、習得期間を2年ぐらいは必要と考えて、14才ごろのことでしょうか。
ロニーは、その時、すでに中国語をマスターしていて、何らかの原因があって日本語研究に移ったということなのでしょう。
やがてロニーは、1867年フランスに渡った栗本鋤雲(1822-1897年)とも親交を深めていきます。小野寺龍太著『栗本鋤雲』の伝記には、ロニーについて、こんな看過できない驚きのくだりがあります。
「ロニーは長い間日本学に尽くした功績によって明治15年(1882)に日本政府から旭日勲章を授与された。鋤雲は明治16年(1883)1月4日の郵便報知新聞紙の「獨寐寤言(注―3)」でこのことを祝し、ロニーのことを懐かしんで思い出を書いている。」というものです。そこでその時の、同紙を調べてみると、確かにロニーのことを紹介した栗本鋤雲の「獨寐寤言」が掲載されています。

明治16年(1883)1月4日の郵便報知新聞
明治16年1月4日の郵便報知新聞「獨寐寤言」

この掲載記事は、特に重要なところなので煩をいとわず以下に引用します。なお上掲の白線部分は、下記引用太文字部分です。

ロニー氏は自らその名を音訳して名刺に羅尼と充てる人にて1750年代(ロニー事態1837年生まれなので、これは明らかに1850年代の誤り)少年の時より思い立って日本学を好みしが、その時代にはパリにても学者のほか東洋に日本国あるも知られざる時なれば、師伝を得ること能わざりしに、不思議にも或る年日本の難船人某なる舟子漂流して仏国に至るありて、一部の節用集を所持するを聞き得て、これを購(あがな)い且つその人に就いて句読を授かりしに、熱心の厚きと温習の久しくとによりおおよそ通ずるところありし以来、益々汲汲として日本書籍を買い求め昼夜勉強懈(おこた)らざるより自然融解流通の域に進み1769年24才(ここも1867年ロニー30才の誤り)のとき、かの国博覧会に際し日本より出品人その他許多(きょた)の人士入り込みしより日々その人々に出会いし、疑義を質問するの益を喜び居りたるに、この時すでに山陽外史(頼山陽の『日本外史』のこと)など邦人同様に音訓取り混ぜ、鈎乙転倒(返り点や句読点のことか)して達者に読み得しほどなれば、おいおい著述等もできし、遂に達してこの栄を被るに至れるなり。この人平生の嗜好も常に日本に偏して抹茶煎茶を服し、たばこも日本刻みを吸い、袋煙管(煙草入れキセル)ともに日本製を用い、自然動作までも何となく日本風に見えたり

郵便報知新聞明治16年(1883)1月4日付け ()内筆者加筆

ここには鋤雲の年代的な誤りがあるものの、ロニーの日本に対するひたむきな姿が生き生きと描き出されています。
先ほど紹介したロニーが詠んだ和歌も、この文章を読むと、得心が行きます。
さらにこの文章からは、ロニーが若くして日本に興味を抱いていたことがわかります。
それによれば「不思議にも或る年日本の難船人某なる舟子漂流して仏国に至るありて」と日本人漂流民の邂逅を記しています。しかも、その日本人は節用集を所持していて彼からそれを買い取り且つ「句読を学んだ」としています。
この節用集とは、言ってみれば当時の国語辞典のことですが、どんなものだったのでしょう。
ウィリアムズが中心となり、まとめ上げた『和漢英対照表』でしょうか、それとも当時上海に居てヘンリー・ウォルター・メドハーストが、編集出版した『華英辞典』か『英華辞典』のことでしょうか。
メドハーストは、それ以前の1830年、バタビア(現インドネシアの首都ジャカルタ)に居て『英和和英語彙集』も刊行していますが、それのことでしょうか。
中国語学者としてその道を歩んでいた語学の天才ロニーをして、その生活様式や将来の進路を変えるまで影響を与えた「漂流した日本人」とはいかなる人物であったのでしょう。
また、その後のロニーの日本に対しての“入れ込みよう”や、短期間で“日本語の長足の進歩”を思うとき、果たして、その日本人とは一体誰だったのでしょう。
ヒントは漂流民です。
ここまでくると、このロニーと出会った「漂流した日本人」の条件を満たす人物とは、音吉をおいて他に居ないのではないのでしょうか。
なぜなら、すでに述べているように音吉は、ギュツラフ夫人メアリー仕込みの英語に加えフランス語もマスターしていたようです。
一方のロニーは、遣欧使節団のメンバーによれば、英語が堪能で、しかも中国語をマスターしていたとのこと。それならば、二人の間の意思疎通で言葉による障害はありません。コミュニケーションは充分です。
音吉は、人柄もよく、行く先々で周囲の人々の信頼を集めています。ロニーは、今までに描き育んできた日本人像に、音吉が、ぴったり当てはまったのではないかと。
この栗本鋤雲や尾佐竹猛による遣欧使節団の記述からも、ロニーが日本語のみならず、生活そのものが日本風に染まっていることを述べています。
このロニーの普段の生活態度は、この章の冒頭に二人の中国人の証言、音吉が上海にあっても「家も日本風に造り、酒器食器もまた日本製のものを揃え、すこぶる奇男子だという。」いう記述を連想させるものです。
さらに付け加えるならば、音吉は初対面の人には、必ず「自分は幾年か前太平洋で難船した漂流民です。」と最初に宣言しています。これは音吉が宝物としている漂流していた時のぼろ布に連動するものです。そして「ハドソン・ベイ・カンパニーに助けられロンドンへ・・・・・・・」と続きます。これは音吉の自己紹介の特徴です。音吉が漂流民であることを誇りとも戒めともしている言葉で彼の性格を覗かせるものです。
したがって、これらの状況からロニーが言う「漂流した日本人」とは、音吉のことに違いないと思うのです。
それでは、なぜこの時、音吉はヨーロッパへ出かけたのでしょうか。新たな疑問がわいてきます。音吉にはその時、ヨーロッパに出かけなければならない使命が待っていたようです。

ここから先は

17,915字
この記事のみ ¥ 300

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?