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『音吉伝』改訂版あとがき


◎「初版あとがき」から

2012年3月26日、日本の新聞各紙は、東日本大震災による津波で流された第11漁運丸の漂流を伝えました。錆にまみれて痛々しい姿でカナダ沖を漂流する第11漁運丸、これを一期に書き始めた音吉物語も、約8年の歳月を費やしてようやく完成の運びとなりました。
音吉の追及を進めていて気が付いたことは、書き始めた頃と「あとがき」を記す今とでは、音吉の評価で大きな認識の違いを感ずるようになったということです。
それは、当初は音吉の極限の辛苦に耐えきった精神力や、日本で初めてという勲章を語ることこそが音吉の顕彰につながると考えていました。
ところが、音吉の研究が進むにしたがって、彼の本当の評価は、アジアの国際社会にあって、もしかして、一部の西洋人があこがれていた日本の生き証人の役割を果たしているのではないかと思えるようになったことです。
歴史を紐解くと、日本を好意的に記した西洋の書籍があります。その書籍を古い順にあげると、
◎マルコ・ポーロ(1254-1324年)の『東方見聞録』、
◎ケンペル(1651-1716年)の『日本誌』、
◎ゴロブニンの『日本幽囚記』、
◎キングの『モリソン号航海記』
を私は上げます。
特に後者の二書籍は、本文でも詳しく取りあげたように、日本から迫害を受けるという逆境に遭いながらのもので、それでも著者であるゴロブニンやキングは、日本や日本人の魅力を語る筆致でその書籍を公刊しています。
近代に至って産業革命の進行する中,多くの親日家が生まれました。彼らの多くは、これらの書籍を読んでいました。そして、彼らは、日本にあこがれてアジアにやって来ます。そこで音吉と触れ合った人々の多くは、さらに日本を目指します。音吉は彼らに、これら書籍の日本を代表した実践者=生き証人として見られていたのではないかと。
すなわち、西洋人の側から見れば彼らは、これら書籍に著された不思議な思想や価値観に、音吉を通して初めて「日本とはかくなる国か」と具体的に触発されたのではないかと考えるのです。
中国人馮鏡如や沈大動は、音吉をわがことのように、自慢げに日本人浪越巌に紹介しました。
ロニーは、日本語の習得もさることながら、生活様式まで日本風に改めてしまいました。
ハリスは、ヒュースケン事件の後、オールコックに送った書簡の中で「私は戦争の恐怖がこの平和な国民、美しい国土を見舞うのをまのあたりに見るよりは、この国との条約という条約がことごとく廃棄され、日本が昔の孤立の状態に逆もどりするのを見る方がまだましだ。」とまで言っています。
音吉は、アジアの地にあって、日本人の長所を遺憾無く発揮していました。
彼らに代表される強烈な親日感情は、恐らく音吉によって具現化されたものに違いありません。
しかし反面、現在の日本の足元を見た時、音吉が備えていた長所が覆されようとしていることも事実で誠に心配なことです。
音吉がアジアで受け入れられた背景には、彼の個人的魅力と共に、日本称賛の趣があったはずなのですが、現代の日本の様相を顧みると、日本喪失という警告を与えているように思えてなりません。
グローバル化を迎えた現在、音吉がアジアで示した言動は、日本人が今後、いかにあるべきか、180年の時を超えて、その模範を示しているように思うのです。

この書のアプローチは、歴史学的にはセオリーから逸脱したものと誹りを受けるかも知れませんが、単に「史実の積み上げ」で音吉を描くのではなく、彼が「なぜそうなったのか」の「なぜ、なぜ」を繰り返すことによって、音吉の実像に迫ろうとしたものです。
従って、自分のような、歴史家でもなく文章家でもない全くの素人でも——その上手下手は別にして——書くことが出来たと思っています。
それと言うのも、自分は45年にわたり刃物の生産工場でモノづくりにかかわって働いてきたのが、定年を機に幕末の不思議を訪ねているうちに、音吉の事績と出会い、東日本大震災の津波により流された漁船を見て、本にまでしようと思い立ったのです。この全く畑違いな事業活動と思われるかも知れませんが、その生産工場の経験が全く無縁のものであったかと言うとあながちそうではなかったように思うのです。
モノづくりの職場では、その生産に関わる定型業務の外に、特性要因図や現状調査表を用いた品質の向上や職場改善業務があります。
その為に、現地・現物・現実を調査する「三現主義」は、少しでも情報史実を集めるのには有効な手段でした。
音吉にまつわるどんな些細な因子でも、出来るだけ多く列挙し、それを篩(ふるい)にかけ、性質別に整理する方法は、音吉の人間像を描くのに極めて有効な手法でした。
この改善手法が音吉のように手記も残さず、史料も少ない人物の発掘には、大いに役立つ手立てだったのです。言わば、昔取った杵柄(きねづか)の応用編とでも言いましょうか、工場の改善手法を、音吉発掘のため水平思考させたものです。
これらの手法は、また、思ってもみなかった不思議なご縁をいただくことになりました。
今こうして振り返ってみると、このようなご縁に導かれて、曲がりなりにも音吉の生涯をより鮮明化することが出来たのではないかと感慨深く思うものです。
本書を上梓するにあたり、大変多くのしかも著名な方々にご指導ご鞭撻をいただきました。この紙面を借りてその方々に、ここで感謝を込めてお礼を申し上げる次第です。
・第1章を我が恩師、長崎滝の観音霊源院松本普成老師に読んでいただいたところ、日ごろの厳しい教えと違い「どこへ出してもそん色のないものになっています。貴兄も篠田を捨て音吉の顕彰に励みなさい。」と思いがけないお言葉を賜り、背中を押していただきました。
・第2章では、京都は山科、四ノ宮琵琶奏者小谷昌代氏とはからずも巡り合い、当道座ゆかりの地を案内していただきました。
・第3章に差し掛かるころ、奇しきご縁をいただいた、当時山陽学園大学の名誉教授太田健一先生からは、音吉研究において「世界史的観点からの追及の姿勢、努力に感服・・・・・・早い時点での公刊を」と身に余るご評価をいただきました。またこの時、先生は病気療養中で、代わって野﨑塩業歴史館の三宅功一氏に自著『小西増太郎・トルストイ・野﨑武吉郎――交情の軌跡』と、渾大防益三郎や野﨑武吉郎の書簡のコピーを託され、説明を聞くことが出来ました。
 太田健一先生の奇しき縁は、当時倉敷の林源十郎商店記念室の梶谷健志氏、土岐隆信氏からいただいたものです。
・また、3章では、ゴロブニンの『日本幽囚記』に出会えたのみならず、翻訳者の斉藤智之氏=高田屋顕彰館(洲本市五色町)と直接お話を伺えたことは大きな力となりました。
・第4章では、ラナルド・マクドナルド友の会の西谷榮治氏に教授いただきました。西谷氏は、マクドナルドが漂着した利尻島で活躍しておられ、氏の紹介で長崎のマクドナルド顕彰会の当時会長の小濱正美先生、前田稔先生、それに塩谷元久氏を紹介していただきました。
・第6章では、とても読み解くことなどできない『亜墨竹史(あぼくちくし)』に絡んで四国大学の太田剛先生にご教授いただきました。太田先生は私の拙文を気に入っていただき、全章にわたって校正や字句の解釈の教授を買って出ていただきました。
・伊豆下田では、玉泉寺の村上文樹和尚がハリスについて、また、下田開国博物館館長の尾形征己氏は、ペリー来航にあたって参考になる書籍岸俊光著『ペリーの白旗』や渡辺惣樹著『日本開国』などの参考文献を紹介していただきました。
・第9章の「遣米使節団の派遣」の項では、岐阜県下呂市金山の加藤素毛記念館「霊芝庵」館長日下部格(いたる)氏から、その「遣米使節団子孫の会」を通じて、作家の柳原三佳氏を紹介していただいたのはどんぴしゃりなタイミングでした。と言うのも柳原氏はちょうどその頃『開成をつくった男・佐野鼎』の執筆中で、当時、精力的に取材活動を続けられていて、互いの研究成果を交換し合えたからです。
・全く英語が出来ない私にとって、研ぎ屋巡業の道すがら、岐阜県多治見市笠原で、翻訳家の岩田和秀氏と出会ったのはちょうどキングの『モリソン号航海記』で苦慮している時でした。
・その頃、ニュージーランドで宣教師をされている土居昭師と出会ったのも単なる偶然ではない気がします。土居師は、聖書訳語の研究から、私の「カシコイモノ」と「南無阿弥陀仏の名号」の関連付けに共感していただきました。また、師は、音吉の事は「海外でも必ず反響を呼ぶはず」と公刊の暁には「英語版」も出版するようにとの熱いメッセージもいただいています。
・私の出身である会社の元上司浅野多茂留氏は、第1章から原稿を読んでは評価をしていただきました。その中で「音吉の変身ぶりよりも、君の変身ぶりの方が奇じゃ」と一流の言い回しで激励していただきました。
・はんだ郷土史研究会の代表幹事で作家の西まさる氏とご縁が出来たのは何とも幸運なことでした。この物語の出版にあたってご指導とご支援いただきました。この新葉館出版社さんを紹介していただいたのも西氏のおかげです。
・最後になりますが、このような立派な本になりましたこと、新葉館出版社さんに感謝申し上げる次第です。
・その外多くの方々にご支援ご協力をいただきました。この場を借りて厚く御礼申し上げます。
ただこの中で、太田健一先生、塩谷元久氏、浅野多茂留氏は故人となられこの書を見ていただけないのが残念でなりません。ここに謹んで霊前にご報告すると共にご冥福をお祈申し上げます。
最後に、音吉の地元の愛知県美浜町では、この度、森田香子(よしこ)氏の呼びかけで、木村泰三先生夫妻、竹内康雄氏はじめ、若手を巻き込んで音吉を再考察する“潮騒令和塾”が立ち上げられました。小生もそのメンバーの一人です。
今後のこの音吉研究が“潮騒令和塾”を中心に、ますます盛んになることを誓ってこの物語を終えたいと思います。
令和2年正月

◎ 改訂版あとがき

初版を発表して早3年が経ちました。
多くの方々より「資料の少ないのに、よくここまで調べられました。」と身に余るお言葉をいただきました。
その反面、誤字や表記についてのご指摘を受けました。何とか早く是正しなければと思っていました。
また、この3年の間に、音吉研究も少しながら進んできていて「内容の変更もしたい」と、思案もしていました。
例えば、モリソン号事件の評価(第1、8章)や、ギュツラフ訳『約翰福音之傳』などの疑問(第6章)です。
モリソン号事件は、多くの歴史書では「黒船以前の一黒船」としての扱いですが、この改訂版では、モリソン号事件は日米史の友好の流れをつくる重大事件として描きました。
また、ギュツラフ訳『約翰福音之傳』のくだりでは、キリスト禁制国の三吉が如何に協力に至ったのか考察を試みました。
また、個々においては、P・パーカーの人物評や、R・ロニーの模刻版の「まえがき」の考察、それに、新たにダン・ケッチこと岩吉が登場したことなど採り上げました。
これらが漸くここで、改訂版と言う形で実現する事が出来ました。少し荷を降ろしたような気分でいます。

ここで、誠に手前味噌で恐縮ながら、少し歴史のアプローチの方法をご披露申し上げたいと思います。
実は、初版を読んでご評価頂いた方の中からのご意見に「発想が素晴らしい」とか、初版の「あとがきの」中に記した「工場の改善手法とはどんなものか参考にしたいが」などの問い合わせが、そこそこの方々からありました。ご意見を伺うと、やはり小生と同じような経歴の持ち主で、現役を引退され、歴史の研究に至っておられるようです。
それに応えるものかどうか疑わしいのですが、その一端を、以下にご紹介させていただきたいと思います。

それは、音吉という人物を追う場合、何度もいいますが、彼が実名で登場する史実史料は、ほんの数えるほどしかありません。
それでも、そんなわずかな足跡ながら、漂ってくるのは音吉の人格の良さや周囲の彼に対する親近感です。
そこで音吉を知るため始めたことは、音吉の周辺を徹底して調べること、いわゆる状況証拠の収集です。
その状況証拠の収集に当たって重要なことは、過去に遡っての発掘です。知りたいことは「ある事件がその後、どのように影響を与えたか」のことよりも、「ある事件がそれに至った背景、すなわち何故その事件が起こったかの原因」を知る方がはるかに重要と思うことです。
そこで集めた状況証拠の処理方法を説明するのに、とても参考になる書籍の一節があり、それを紹介して参考にしていただければと思うのです。

まず、その書籍とは、2001年(平成13)5月に発刊されたイスラエルの物理学者E・ゴールドラット著『ザ・ゴール』のことで、その中の一節がとても参考となるのです。この書籍は超大まかに言えば、主人公アレックスが瀕死の工場を劇的に立て直すサクセスストーリーです。
当時、日本の経済は、バブルがはじけて久しく、大きな転換期にありました。
その意味でこの書は、当時の企業・工場の悩みを明快に指摘していて、極めてタイムリーなもので、たちまちにベストセラーとなりました。
読者の中には「ああ、あの本か」と覚えておられる方も多いかと思います。
この書籍には、多くの教訓が述べられていますが、特に、その中の一節がとても『音吉伝』を記すにあたって、参考になったわけです。

その一節とは、ロシアの科学者D・I・メンデレーエフ(1834-1907)が、今まで発見されている63の元素を原子量順に配列したところ、それらには周期性があることに気付き、周期律表を作成したという紹介から始まります。
その上で彼は、周期律表に現在発見されている、それら63の元素を配置すると、かなりのコマに空白があることに着目します。
登場人物で説明役のラルフは「メンデレーエフのすごいところはこれからなんですよ」と前置きして、彼は空白のコマに、質量と性質を予測した元素があるはずと予言します。その予言は見事に当たり、多くの元素が次々と現実に発見されたという、この一連の文章です。

音吉は、情報や資料が少ないにもかかわらず彼の行動範囲に、不可解な人々(親日家)が沢山います。そこから漏れ出る音吉の人物像を描くには、このようなメンデレーエフの思考が必要ではないかと思い至ったのです。
音吉に関する状況証拠の数々をこの視点で考察するうちに、見えてきたのが『音吉伝』であらわした彼の姿でした。そのため、史実主義から言えば、タブーの領域に踏み込んだ内容となっているのかも知れません。
思うところ、歴史にも、空白や疑問を埋めるべく、このような手法で導かれた仮説は、真実到達に有効な手立てと思うのです。ただ科学の場合は実験や観察で実証され法則化されますが、歴史の場合、明快に解明は難しく、それを当てはめることは難しいかもしれません。それでも、更なる状況証拠による補強ということで定説化に持っていくことは可能と思います。
この改訂版も、そんな思考で取り組んできました。その結果「やはり、音吉は日本の救世主である」という音吉像の輪郭はより濃くなったと自賛してはいます。少なくとも「はじめに」で記したように「音吉発掘の手引書にはなったのではないか」と思っています。

今後期待することは、音吉が歴史教科書はもちろん、彼の生き様が道徳や英語の教科書の題材に採り上げられる様運動を起こしていきたいと思います。
そして、この改訂版を広く読んでいただくために「紙による書籍化」を目指していきたいと思います。
もし文章で、違和感があるところなどの指摘ありましたら、下記のアドレスまで連絡いただければありがたいことです。
最後になりましたが、この“ノーツ”掲載に当たって“潮騒令和塾”永井浩之氏には手取り足取り導いていただいたこと感謝申し上げる次第です。
彼は、その講座のユーチューブのライブ配信も担当していただきました。これは『音吉伝』を補足していますので、そちらも併せて見ていただければ理解が深まるかと思います。ご案内まで。

令和5年8月
篠田 泰之
y-sinoda@ccn2.aitai.ne.jp

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今後の予定としまして『音吉伝』10章を、月末に各1章ずつ/300円、公開していきます。どうぞよろしくお願いいたします。

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