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魔法少女の系譜、その83~『赤外音楽』と口承文芸~


 前回に続き、『赤外音楽』を取り上げます。NHK少年ドラマシリーズの、実写ドラマですね。
 伝統的な口承文芸と、『赤外音楽』とを、比べてみます。

 といっても、『赤外音楽』の筋書きは、伝統的な口承文芸の域を、はるかに超えて、複雑です。直接的に、比較できるような口承文芸は、ありません。

 まず、主人公が、男女二人である点が、口承文芸としては、異例ですね。しかも、この二人は、「中学の同級生」です。血のつながりはありません。
 口承文芸でも、男女のダブル主人公の話が、あるにはあります。例えば、最も有名な男女ダブル主人公の話の一つは、グリム童話の『ヘンゼルとグレーテル』でしょう。
 ヘンゼルとグレーテルとは、血のつながった兄妹です。口承文芸で、男女ダブル主人公の場合は、このように、ほとんどが、「兄と妹」というパターンです。

 「血のつながりのない男女二人が、出会って、さんざん苦労した末に、結ばれる」という口承文芸もあります。これですと、主要テーマが、「恋愛」ですね。
 けれども、『赤外音楽』は、恋愛には、主軸が置かれていません。ダブル主人公の法夫と妙子とは、惹かれ合ってはいますが、それは、まだ、「恋」とも言えない程度です。「友情」や「仲間意識」と表現するほうが、ふさわしい感情です。

 口承文芸の視点からすれば、法夫と妙子とは、「中学の同級生」である点が、新しいです。
 歴史的には、男女が、同じ場所で、同じ内容を学習するようになったのは、ごく最近です。日本でも、第二次世界大戦中までは、小学校を卒業したら、男女の学びの場は、分けられていました。
 「まったく対等な立場の、年頃の男女の同級生が、一緒に冒険をする」というのは、現代の社会でなければ、あり得ないことです。だから、伝統的な口承文芸には、こういうダブル主人公が、登場しません。

 冒険のきっかけが、「ラジオ」である点も、口承文芸からすれば、新しいです。
 『赤外音楽』は、ラジオがなければ、成り立たない話です。二〇一八年現在では、ラジオは、古臭いものだと感じるでしょう。
 しかし、『赤外音楽』の舞台は、一九七〇年代の日本です。インターネットのイの字もない時代です。おおぜいの人に、一斉に情報を伝達できる手段といえば、紙媒体と、ラジオ、テレビしかありませんでした。

 そして、中学生が、自室で、両親とは関係なく享受できるマスメディアとして、ラジオは、平凡、かつ、唯一のものでした。
 二〇一八年現在の二〇代以下の方には、想像しがたいでしょうが、一九七〇年代には、「ラジオを通じて、中学生が、不思議な体験をする」のは、とてもリアリティのあることでした。現在のSNSのような役割を、ラジオが果たしていました。

 ラジオというマスメディアが登場したのは、歴史的には、もちろん、最近です。口承文芸に、ラジオが出る余地は、ほとんどありません。
 「音」を伝えるラジオがあってこそ、『赤外音楽』という作品が成り立ちます。この点でも、『赤外音楽』は、とても「新しい」創作物語ですね。

 口承文芸とは、直接関係はありませんが、『赤外音楽』という題名が、秀逸です。
 『赤外音楽』は、「赤外線」と、「音楽」とを結びつけた造語です。目に見えない光線の「赤外線」のように、耳に聞こえないけれど、存在する「音楽」として、「赤外音楽」と名付けられました。

 この題名は、「紫外線」にちなんで、「紫外音楽」でも良かったはずです。それを、『赤外音楽』にしたのは、語感の問題でしょう。「紫外」では、「死骸」に聞こえかねません(^^;
 『赤外音楽』は、ミュータント科学研究所の造形が、題名とよく合っていて、素晴らしいです。ミュータント科学研究所の内部は、ほぼ、真っ赤なんですよ。所長や所員の着ている服も、真っ赤です。異様な雰囲気が、よく出ています。
 これは、『赤外音楽』という題名だから、いいんですよね。なまじ科学的に「超高周波音楽」といった題名にしてしまったら、この雰囲気は、出なかったでしょう。

 口承文芸との比較に、話を戻しましょう。
 「中学の同級生」や「ラジオ」といった要素だけでも、『赤外音楽』は、口承文芸の枠には収まりません。ここに、「ミュータント」や「宇宙人」まで加わるのですから、一九七〇年代には、斬新な物語といえるでしょう。当時の少年少女たちが夢中になった「SFジュブナイル」です(^^)

 ただ、大枠で見れば、口承文芸と共通する部分もあります。
 超常的な存在(神や宇宙人など)が、おおぜいの人間の中から、「特別な人間」を選んで、彼らだけを救う、というストーリーは、昔の神話にもありますよね。ユダヤ教の選民思想など、まさにそうです。
 とはいえ、この点でも、『赤外音楽』は、口承文芸のお約束を破っています。ダブル主人公の二人は、「特別な人間」に選ばれたのに、自分の意志で、「救済」を断ってしまいます。

 冒頭から結末まで、『赤外音楽』は、口承文芸の枠を外しまくった作品です。一九七五年(昭和五十年)ともなると、テレビの世界では、口承文芸を超えた作品が、普通に作られるようになっていました。

 『赤外音楽』の宇宙人たちの「救済」とは、人類に汚染された地球から、逃げ出すことでした。
 この点は、同じNHK少年ドラマシリーズの『暁はただ銀色』と似ていますね。「人類によって、地球の環境がどんどん悪くなり、破滅的な段階に至ろうとしている」思想が、共通します。

 これは、一九七〇年代の日本の公害問題を、如実に反映しています。
 当時は、大気汚染や水質汚濁が、深刻な問題になっていました。四日市ぜんそくなどの公害病が流行りましたし、東京の多摩川には、洗剤の泡が浮いていたものです。当時の多摩川は、死の川と呼ばれました。
 現実の世界に、このような問題があれば、フィクションにも、それが反映されます。中学生にも「このまま行ったら、日本は公害で滅びるんじゃないか」と考えさせるほど、当時の日本の環境汚染は、ひどかったのです。

 当時と比べれば、ずいぶん、日本の環境は良くなりました。二〇一八年現在の多摩川には、アユも棲んでいます。アゴヒゲアザラシのタマちゃんも来たくらいです(笑)

 二〇一八年現在では、よく、中国の川の汚染ぶりなどが、報道されます。あの状態は、一九七〇年代の日本にそっくりです。日本人は、決して、中国のことを笑えません。少し前の日本も、あんな状態でした。

 『暁はただ銀色』も、『赤外音楽』も、そういった現実を反映しているために、同じ「環境汚染」を危機としてとらえています。
 フィクションではありますが、苦い現実を、うまくスパイスに使っています。

 「中学の同級生」、「ラジオ」といった、当時の少年少女に馴染みのものを取り上げ、「ミュータント」、「宇宙人」などの新しい要素を入れ、なおかつ、現実のスパイスも効かせた『赤外音楽』は、まごうかたなき傑作ですね(^^)

 今回は、ここまでとします。
 次回も、『赤外音楽』を取り上げる予定です。



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