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モノ消費とコト消費にまつわり 「旅はいつ始まって、いつ終わるんだろう (いや、きっと終わりはしないし、いつも始まってる) 」 って幻想譚。

 モノ消費とコト消費という言葉が大量消費されているが、その区分の多くに意味などない。

 Society 5.0という言葉もある。

・1.0:狩猟社会
・2.0 : 農耕社会
・3.0 : 工業(=工場 = 資本主義)社会

 その次には、4.0 : 情報と来ているが、
 情報(想造)は––––

・1.0 : 神様(宗教)神話や呪術、神治社会
・2.0 : 王様(領土)封建制度、人治社会
・3.0 : 民主化(法律)多数決、法治社会

 ––––と、太古の昔から人間社会に欠かせないファクターであり、我々が触れたり見聞きしているセカイは、人々が自然摂理や物理法則を神の仕業と噂し出したあたりからずっと情報(化)社会(想造の産物)だ。

 Society 4.0を「情報」社会とする所以が(経済のあり様が各時代それぞれだとしても)経済的価値上の比率における「物質に対しての情報(想造 = 仮想)の割合」の増加にあるなら、逆に、その前を「狩猟」「農耕」「工業」とするのは、まったく筋が通らない。

 たしかに、民主化の双子として産まれた「現代型の経済」とやらは、自由(ときに資本主義)だの平等(ときに社会主義)だのと喚き散らしながら、人々に宗教や領土といったゲマインシャフト(国家や家族/友人関係など地縁や血縁によるコミュニティ)を超越するゲゼルシャフト(企業に代表される目的や利害を達成するため作為的に形成された機能的なコミュニティ)をより重視させ、現代社会とそこに蠢く情報を牛耳ってはいるが……

 流行り言葉の2.0とか3.0を付けてみたり、アップデートを演出してみたところで、「モノ消費/コト消費」それから「Society 5.0」の謎は解けないだろう。

 なぜなら、人々は、随分、永らく、物質的なだけの世界(自然界/現実)ではなく、精神的なセカイ(人間社会)を混同しながら生きてきて、その内なる神(心)の適用範囲(線引き)を変えてきたに過ぎないし、現代の消費のほとんどが––––

「モノゴト消費(例えば、新聞は紙という物質 + ニュースという情報であり、ある遊園地は木や石で出来た建築物という物質 + 夢や魔法という情報であり、プリミティヴな食品ですらも産地や生産者という情報付き)」

 ––––であり、情報という想造の産物は、神話時代から多少の変化はあれども、ずっと(人間社会の外では通用しない)幻想に過ぎないだからだ。

 また、ここでいう「消費」というのも、もはや「通貨を使うコト」と同義であり、その通貨という存在自体も「紙や金属(物質)+ 交換価値(想造である数値)」から「物質にまったく依存しない純粋な情報(数値)のみ」に意識移行しつつあるわけで、富の現在地や所有権にまつわる増減の多くも、やはり、為替や信用など、まやかしに過ぎず、質量のような絶対的なモノゴトではない。

 同じく「資本主義」も「多数決」も絶対的な「正義」を司るわけではない。ここに並べた三者(資本主義/多数決/正義)自体、我々の想像による創造であり幻だ。飢餓など物質的に苦しむ人たちの腹を満たすこともなければ、実は心を救うものですらない。未完で拙いシステムだ。

 もう一度、断言する。

 人間に限って、この世界はとっくに物理法則と自然摂理がすべてを支配する平等に残酷な物質的な現実世界ではなく、想像による創造(想造)によって半分以上が支配されるコトを自ら望んだ似非自由で不平等な(あるいは似非平等で不自由な)精神的セカイ––––すなわち「人間社会」だ。

 物質的な世界と精神的なセカイをドロドロに融合させて、自然摂理ではないコトまで絶対正義のように扱う人間社会における「消費(とかいう幻の金を使う幻想的な行為)」の対象が––––

 ––––モノであるかコトであるか?
 ––––物質的か非物質的であるか?

 ––––を、分別するのは、とうの昔からほぼ不可能であり、無意味だ。

 さらに、量子力学や哲学といった物質的あるいは精神的な原理を問う学問には、いまだ答えという答えがなく、「分からない」というだだっ広い闇や不安が、漠然と、荒涼に、横たわっている。

 我々が、一体全体、何で出来ていて、
 我々は、一体全体、どこにいるのか?
 そんな、根本や大前提すら分かっていない。

(もっとも根本だからこそ神聖であり、人ごときには手が届かないのかも知れない……つまり、自然こそ、もっとも進化した(僕たちが神と考えたり宇宙人と呼んだりする)高次の存在による最新テクノロジーかも知れない––––つまり、地球にとっては、地球という最大の舞台(自然)とそれを構成する最小の存在(素粒子)こそが––––それを含む宇宙にとっては、宇宙という人知れない最大の舞台とそれを構成する人知れない最小の存在こそが––––宇宙のある空間にとっては、その空間という宇宙人や神でも計り知れない最大の舞台とそれを構成する宇宙人や神でも見ることも触れることもできない最小の存在こそが––––1つ高次の存在が創りたもうた最先端のテクノロジーであり、それは、より大きくより小さいマクロ/ミクロ両極へと無限に深まり広がる深遠なベクトルを持っているのではないか)

 闇は光を生み、不安は期待を生むと云うが、それは物質的なこの世界の現実の話であって、哲学あるいは量子力学のセカイの闇や不安は、ブラックホールみたいな漆黒で光を飲み込み希望を喰らい尽くす。

 僕は、そんな世界で、すべての始まりは、闇ではなく光で生まれた影であるべきだと思っている(そう、思うしかないと思っている)。少なくとも、そういった世界/セカイに対し、執念を燃やすべきだ。真白を黒く塗り潰して取り返しのつかなくなった常闇だと諦めるべきではないし、そこに、じっと、目を凝らすべきだと盲信したいのだ––––

 隙間は 必ず ある。

 たった12音階の組み合わせですら、まだまだ新しい音楽を生み、それを新しいと受け入れるコトができるのもまた人間なのだから……

 そんな人間という愚かで素晴らしい生物は、ほとんどを二者択一の裏に影を落としながら生きるしかない。罪深いライトを片方だけに当てるのは、我々、人間の心だ。だから、精神などと「神」という字が烏滸がましくされど警告として名付けられている。ライトが生む人工の光の際が「境界線」であり、それは自然摂理などではなく、僕たちの心(内なる神)が生み出した想像による捏造(想造)だ。

 誰も国境という線を見たことは無いはずだ。命の重さという言葉を証明する天秤を見たことがあるだろうか?––––無いはずだ。当たり前だ、それらは、すべて、心象風景に過ぎない。

 それでも、我々は、そのライトのぼやけて曖昧な輪郭の内側にある明るい場所––––例えば、街と呼ばれる人間だけに安全な囲いの中で、犬を飼い、金魚を愛で、日本人という幻の分別でこの島の代表を選出し、多数決で生まれた役割が少数派のことまで取り決めるという矛盾を孕みながら、ライトの照射範囲の外側にある昏がりで、ひっそりと熊を狩り、黙々と食用魚を釣り、外国人という幻の分別がパスポートという幻覚物質を持たずにこの島へ上陸することを拒む一方で、それさえ持っていればインバウンド観光だと金目的で歓迎する裏でオーバーツーリズムだと嘆く矛盾を看過する。

 話が逸れたが、兎にも角にも、

 線引きを頼りに暮らす我々の心が、

 物質的なモノ(物理)を想造で拡張した
・物質的に採掘された「Ag(金)」に価値由来する貨幣や紙幣
・物質に音源データを収録したCD
・物質的な定期乗車券と紙の切符を駅員が切る––––etc.

 似非物質に依存せず、その多くが

 非物質的なコト(想造のみ)
・仮想的なマイニング(採掘)に由来するデータでしかない仮想通貨
・物流を必要としないデジタル音源流通
・SuicaやPASMOの使える自動改札––––etc.

 で、成立できるよう、意識移行しはじめたのは確かで、

 それを誤った「消費」や「ソサエティ」という定義で話している間は、いわゆる中途半端な知の阿呆(無知の知の逆状態)にならざるを得ない。

 本当に難しい––––ただ、そう思えばいい。

 あえて、言葉にするなら、「コト消費」や「Society 5.0」の本質を構成する1つの面は、マテリアルの解析が済んでデジタライズされたデータをインターネット上で送る(流通させる)コトから生じる「同時多発的な複製の連続」や「再生」のナラティヴ化と言える。


【 デ ジ タ ラ イ ズ ( D X )の 真 相 】

【 ナ ラ テ ィ ヴ と は ? 】

【 マ テ リ ア ラ イ ズ と い う 発 想 】


 今後、世界に無数の複製を生み出すという副作用を持つ「インターネット上での送る」を駆使したデジタル流通は、すでにそれが可能な視聴覚情報以外の感覚に訴求するデータ(主には嗅覚/味覚/触覚情報)に関するデジタライズも実現していくだろう。

 たとえば、服を構成する布という視覚だけでなく触覚や嗅覚情報まで持つモノは、聴覚のみに訴える音楽(物質的なマテリアルは「空気の振動」であるアナログな音声で、歌唱や演奏というのはその波形をどのように出すかという想造の仕方)と同じく、糸という物質的かつアナログなマテリアルだけでなく、波形という縫い方(想造の仕方)まではっきりしているので、比較的デジタライズに向きなように思う。

 ただし、社会実装(という名の現代型の経済への組み込み)に必要なシステムやプラットフォームの整備まで考えると、「再生機(プレイヤー)がどのようなモノゴトになるのか?(例えば、スマホで発注すると、数分後には近所のコンビニにある3Dプリンターのようなマシンで、想造された方法に倣って編まれ、似非物質化されるようなコト)」がビジネスのカギを握っており、普及するには高いハードルが数多ある––––

 仮に、そんなシステムまで実現した未来を想像するとき––––S/M/Lをはじめ、あらゆる「サイズ規格」は意味を成さなくなるだろう。

 より詳細に個々の顧客(の身体)にフィットする––––まるで別注で仕立ての世界に1つだけの「サイズ」を持つ服が容易に生成できるからだ。

 それを実現するのは、顧客とマシンの間で起こるインタラクションと、リアルタイムな可変性だ––––ZOZOスーツというのはその先駆けだったのかも知れない。

 事実、音楽業界ではコンピレーションアルバムという規格は駆逐され、Spotifyの中で、顧客自身が自由に企画/創作できるものになっている。アルバムというサイズ(規格)自体、かなり形骸化してきており、単曲で、多くのアーティストを楽しむリスナーが増えている。

 それに似たアパレル業界におけるマス・カスタマイゼーション(大規模なパーソナライズ)は、今後、益々加速するはずで、そうなると、音楽業界におけるボカロPのような(これまでは決して顕在化できなかった新しいタイプ = 現実世界での存在感を著しく下げたデジタルネイティヴな)デザイナーとそのファンによる企業という中間搾取業者を悉く排したデザインの民主化(C2C化)が始まるのも予想に易い。

 「衣」という触覚(と少し嗅覚)に訴える商品の流通と再生を司る「ADコンバーター(アナログ = 多くの滑らかな曲線を含むデザイン画あるいは実物の洋服のサンプルなどから角張ったデジタルデータへ変換して可視化するシステム/縫い方や素材の指定などを数値データ化し、YouTubeやニコニコ動画のように無料で可視化/宣伝できるプラットフォーム)」と「DAコンバーター(デジタルデータからアナログな衣服を物理的に再生する)マシン」という、2つの出入り口(インターフェイス)を支配するソフト&ハードメーカーが、iTMS(今のApple Music)とiPod(今のiPhone)を開発したアップルみたく、プラットフォームとデバイスにおける市場を皮切りにアパレル業界の決済市場までをも席巻/掌握し、その結果、売り方はリカーリング(使ったら使った分だけを支払う水道代やガス代型)ですらないサブスクリプション(NHKやNETFLIXやSpotifyのようにどれだけ使っても一律料金を支払う定額制)になるかも知れない。

 音源流通業界(レコードメーカー)は、そんな他業界にとっての悪魔的契約を結んだ未来をすでに生きている。だからこそ「売り物」ではなく「届け方」を重視し、ワープするコミュニケーションを演出する必要に迫られた。

 大切なのは「モノ売り(あるいはモノづくり)」だけでも「コト売り(あるいはコトづくり)」だけでもなく……

モノ売りとコト売りという分別は合っているのか?

モノを売るためのコトづくりなのか?

そもそも、モノとコトという分別が間違っている場合が多い

人間社会というAR/MRは
モノゴト(物質+想造)を売買している

具体例を挙げての「モノ/ゴト」分析

顧客が金を支払う対象(社会が提供すべき)は
モノかコトではなく、多くはモノゴト!

今後、意識すべきは
売買する「モノゴト」だけではなく
そこに生じるプロセス =「トキ」

トキづくり = 体験価値が大切!

 モノづくりだけでなくコトづくりへ、あるいは、物質的な商品価値だけでなく精神的な体験価値の創出へ、などと宣うキャッチコピーの真意は、プロセス(商品やサービスを享受する瞬間だけでなく、その前後にあるトキ)の演出と言い換えることができる。

 旅行は、観光地で絶景を楽しむトキだけ楽しいのではない。旅行情報誌や旅行代理店で仕入れたパンフレットを見ながら行き先を選定しているトキ、そのトキに起こる会話や迷い、事前準備で久々に水着を買っているトキ、飛行機は寝ていたとしても、その後の電車の中でランチを食べながら初めて目にする異国情緒に胸を躍らせたトキ、ホテルや旅館、あらゆるレストランで行き届いた衣食住を五感で楽しむトキ、帰国前夜のベットですでにこの旅を懐かしんでいるトキ、帰路の切ない時間とそれでも地元に戻ったトキに感じた安心感、普段は忘れている郷里への愛を確認できたトキ、旅から戻って、一分後、一時間後、一日後、一月後、一年後、十年後、あなたが最期を迎える一生後、この旅を想うトキ––––

 こんなふうに顧客の旅路––––カスタマージャーニーの全行程あらゆる瞬間に想いを馳せて「回りくどい演出」を考えるのが、便利な時短ソリューションがあふれる現代、あらゆる業界に求められるプロフェッショナルの流儀だ。

 旅1つとっても、旅行業界や観光業界だけに関わる市場ではないし、タイパ(タイム・パフォーマンス)= 時短に大事はない。

 時間を省略して短くするのではなく、濃くするという意識や(むしろ)所要時間を伸ばすためにあっという間に長時間が過ぎるように演出する––––

 つまり、体感時間を短くするコトが何より大切だ。

 実時間を短くしようと企むのは、
 ソリューションだけで十分。

 企画と演出の違いは、

→前者が、時間を短くして便利を追求する

 のに対し、

→後者は、不便を楽しませる仕掛けで長時間を無駄にしても、顧客が「えっ? もう、こんな時間!」と、笑ってしまえるよう、体感時間を短くする相対性理論あるいは魔法を目指す

 という、根本的な志向の差異だ。

 ミステリー小説を、ソリューション(解決)してしまうと、読んで字の如く、事件がありました →(時短で)犯人確保/事件解決!––––を目指すコトになってしまう。

 それでは、あまりに、つまらない。

 だから、素晴らしい作家は、まわりくどく物語を緻密にし、読者の時間を無駄に浪費させる。伏線とその回収/ミスリードなど––––しかし、それらを何一つ「無駄」と思わせないのが一流作家の演出力だ。

 本当の贅沢とは、金ではなく時間の無駄遣いのことではないか。

 真に豊かな生活は、急がず回ってしまう精神にこそ宿る。素晴らしい旅というのも、きっと、そんな偶発的な出会いや寄り道にあふれた体験を指す。そのためには、決められたコースを忙しなく回るだけの(主に視聴覚へ訴える)確認型観光ではなく、余白(自由時間)がふんだんに盛り込まれ、されど、そこで自発的に活動してしまうヒント(世界観やストーリー)を与えてくれる演出が行き届いた(目と耳以外の肉体をフル稼働し、五感もフル活用しないと楽しめない)周遊型観光を目指す必要がある。

 京都の有名寺社を巡る旅もいいが、熊野古道を歩くのもいいはずだ。

 旅は、何も非日常的な旅行だけでなく、日常のあらゆる消費活動にも潜んでいる見落とされがちな喜びでもある。

 なぜ、僕たちは、日常にあふれる非常を見落としてしまうのか?

 時間が勿体無いと思うあまり、所狭しとスケジュールを詰め込み、忙しく動き回るからだ。所要時間の時短に囚われる方こそ、人生や精神の無駄遣いなのに……

 勿体無いと思うべきは、そこで看過してしまうその日にしか見れなかったはずの夕暮れや、その瞬間にしか出会えなかった蝶の羽ばたき、鳥の囀り、あなたがそこで感じれたかも知れない得体の知れない切なさと貴さ––––今っぽく言えば「エモみ」の方だ。

 エモは、エモーショナル(感情)の略で、元々は音楽でよく用いられた言葉。青春の甘酸っぱさなどを的確に表現したロックを指した。忙しないという字は「心を失う」と書く。

 所要時間を短くして、多くの用事を済ませるコトは、24時間という平等な物理法則(ここでは相対性理論は置いておきたい)を自分なりに最大限に活用するという意識––––実時間をなるべく長く感じ得ようとする「時短のパラドックス」とも言えるアプローチだ。

 1日を長く感じるという状態は、無感情の度合いと比例しているように思う。本当の豊かさは––––真の永遠は––––一生忘れられない思い出は––––切なさにこそ宿る。「刹那さ」と書くべきか––––それはあっという間に過ぎ去る日常の機微だ。ほんの些細な、でも、あなただけにとって偉大な、精神という内なる神に演出されたはるか先まで届くかも知れない瞬きだ。

 それは、人間だけに許された儚い愉楽。

 今の人間社会で生きる以上、ほとんどの人が消費を行う––––つまり、顧客である。そして、多くがそれを仕掛ける側のビジネスマンという名の演出家でもある。

 そんな現代、我々の旅は、いつまで経っても終わらないし、常に目の前で始まっているコトなのだ。

 カスタマージャーニーとは、人生の遊園地化あるいは観光旅行化––––いかに余白を生み、顧客の自由行動を担保し、無駄に笑えてしまう瞬間を連続させられるかに懸かっている。

 人は、何階、重ねても音楽にもならず、何万字、綴っても文学にもならないそれこそを、他に成す術なく、ずっと、語り継いでいくだろう。それがナラティヴという神話だ。

 音楽業界で働くボク風に言えば、レコードメーカーのA&R(ディレクター)の仕事は、人々に訪れる一期一会の瞬間、瞬間、また、瞬間を、最高で最適なBGMで彩るコト。

 音楽のないドラマは、意外と泣けない。

 常に、あなたが泣きたいときに思いっきり泣けるような卒業ソングや失恋ソングを世に贈り届け、あなたが、夜中、突然、川沿いを自転車で疾走したくなるかも知れない衝動を加速させる絶叫シンガロングスタイルを常備し、誰かの死後、そのセレモニーで故人が家族や友人のために選ぶ、偲んでもらうためではなく、寂しがらないよう笑ってしまえる楽曲を世に輩出すべきなのだ。

 どんな商品やサービスにも、きっと、そんな想いが込められている。

 それを、人は、矜持と呼ぶ。

 ボクは、音楽を「売る」のではなく、音楽で「救う」コトばかり考えていたい。


【 マ ガ ジ ン 】

(人間に限って)世界の半分以上は「想像による創造」で出来ている。

鳥は自由に国境を飛び越えていく
人がそう呼ばれる「幻」の「壁」を越えられないのは
物質的な高さではなく、精神的に没入する深さのせい

某レコード会社で音楽ディレクターとして働きながら、クリエティヴ・ディレクターとして、アート/広告/建築/人工知能/地域創生/ファッション/メタバースなど多種多様な業界と(運良く)仕事させてもらえたボクが、古くは『神話時代』から『ルネサンス』を経て『どこでもドアが普及した遠い未来』まで、史実とSF、考察と予測、観測と希望を交え、プロトタイピングしていく。

音楽業界を目指す人はもちろん、「DX」と「xR」の(良くも悪くもな)歴史(レファレンス)と未来(将来性)を知りたいあらゆる人向け。

 本当のタイトルは––––

「本当の商品には付録を読み終わるまではできれば触れないで欲しくって、
 付録の最後のページを先に読んで音楽を聴くのもできればやめて欲しい。
 また、この商品に収録されている音楽は誰のどの曲なのか非公開だから、
 音楽に関することをインターネット上で世界中に晒すなんてことは……」


【 自 己 紹 介 】

【 プ ロ ロ ー グ 】










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