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第3章 / ○○○○○ - 誰が物語るべきか? 【前篇】 フランス料理はイタリア人がつくった文化。

【 第1〜2章のまとめ 】

 第1章は––––

「アナログならではの温かみ」「デジタルで撮影する」といった “感じ” で、よく使われる「Analog」と「Digital」に関して––––いざ、その意味を問われると「???」となってしまいがちな正体と性能を––––

「だから、遠い未来も人はアナログに旅をする」

 と題し、「どこでもドア」が普及した遙か未来の鉄道会社は生き残れるか、否かをプロタイピング(物語化)することで––––

▶︎「モノづくりからコトづくりへ!」
▶︎「商品やサービスそのものだけでなく、体験価値の創出も意識する!」
▶︎「DXって大事!」

 などの(良くも悪くもな)真相に迫った。

 ––––その際、音楽業界だけでなく、あらゆるビジネスにおいて、有用なメソッドの存在を示唆したが、それこそが、本章に書く「○○○○○・マーケティング」だ。

 つづく、第2章は––––

 リーマンショックで一人勝ちした伝説のトレーダーであり、認識論者でもある『ナシム・ニコラス・タレブ』の世紀の大発見「脆いの正しい反意語である反脆い」という––––

脆い存在である「ルール」の反対は、
強い「原則」ではなく、反脆い「美徳」

脆い状態である「間違いを嫌う」の反対は
強い「間違いを単なる情報として扱う」ではなく、
反脆い「(必然、犯す間違いは小さくなるので)間違いを愛する」姿勢

(原書を参考に、僭越ながら筆者が要約)

「反脆弱性――不確実な世界を生き延びる唯一の考え方」ナシム・ニコラス・タレブ著 

 VUCA(Volatility:変動性/Uncertainty:不確実性/Complexity:複雑性/Ambiguity:曖昧性:カオスな環境や想定外の事態が頻発し予測不能に陥る状態)といわれる現代にこそ輝く哲学 「悪くなれば、悪くなるほど、良くなる反脆弱性」を紹介しながら––––

 ピカソの「キュビズム」と北斎の「浮世絵」から浮かび上がる「反脆い考え方」や、「ルネサンス」に始まり「エジソン」の時代を経て「インターネット」のおかげで(良くも悪くも)激変した音楽業界史から抽出した「反脆い体験価値の創出」を挙げていった。

 そこで「反脆弱」と判断できた(ほとんど)すべてが、この章で触れる「○○○○○」に通じている。

 15万文字以上に及ぶこの本の厚みは、極論、「○○○○○」のためにあると言っても過言ではない。

 ボクが、色々な業界で、音楽のディレクター/映像のディレクター/アート・ディレクター/クリエイティヴ・ディレクターとして仕事してきて(どんなビジネスであっても)必要不可欠かつ必要最低限な––––

「素晴らしい作品(商品・サービス)をつくる!」

 という「当たり前」以外で、唯一、絶対に、役立つと断言できるのが「○○○○○」だ。



3−1 
新たな価値❶:回帰的だが新たな価値


スコット、エジソン、ユーイング、ベル、ベルリナーらが
発明した録音技術によって生まれた「音源」というモノ。
それ自体が音楽産業を前進させた1つのコトなのではないか?

 音源業界には、かつて、音質の向上にテクノロジーを活用することで音源というモノ(レコードやCD)の売上が伸びるという妄信があった。

 しかし、歴史を振り返ってみると、テクノロジーは、音源を聴くためのモノというよりは、その周辺にあるコトの方を進化させており、主には、音源という商品にメタ(高次な)インタラクション(双方向性を超える多方向なコミュニケーション)を付与し、さらには活性化させるコトで、音楽業界全体の売上が伸びていくというのが正しい解釈であると分かる。

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【 年 代 : テ ク ノ ロ ジ ー( で 生 ま れ た モ ノ ): 起 こ っ た コ ト 】

・1900年代:レコード
▶︎ いつでも好きなトキに個人で音楽を聞けるコト

・1920年代:ラジオ放送
▶︎ 無料で聴けるコト + 楽曲をリクエストできるコト

・1930年代:カーラジオ
▶︎ 車で音楽を持ち運べる(モバイルできる)コト
▶︎ 車での移動というプロセスを音楽で演出するコト

・1940年代:ジュークボックス
▶︎ 曲をバックに踊るコト
▶︎ 周囲に自らの音楽センスを自慢する(ひけらかす)コト
(いずれも音楽を共有するトキの演出)

・1980年代:カセットテープ
▶︎ 曲目や曲順を自由に編集できるコト
       :ウォークマン
▶︎ 個人が音楽をモバイルできるコト
(車に乗っているトキ以外のあらゆる日常にBGMを付与した)
       :CD
▶︎ 楽曲を頭出しできるコト
▶︎ ランダム再生できるコト(ただし、アルバムの十数曲ではほぼ無意味)
       :CDラジカセ
▶︎ 自分なりのミックステープを手軽につくれるコト
       :カラオケ
▶︎ 音楽(インスト)を使って歌うコト

・1990年代:DTM
▶︎ 個人が音楽を制作できるコト

・2000年代:iPOD(mp3とFirewire)
▶︎ 大量の音楽をモバイルできるコト(次世代のウォークマン)
▶︎ それに伴いランダム再生が機能しはじめたコト
       :VOCALOID
▶︎ 歌えない人でも楽曲制作できるコト
       :YouTube/ニコニコ動画
▶︎ 個人が音楽を配信できるコト
(ボカロと動画投稿サイトで、パーソナル・レーベルに近い機能)

・2010年代:Spotify
▶︎ ありとあらゆる音楽をモバイルできるコト
▶︎ 曲目や曲順を自由に編集して発信できるコト
(CDラジカセ + ラジオ放送 + アマチュア無線)
▶︎ ランダム再生がより機能し、レコメンド機能となったコト
(レコード店の店員が書くポップ + 音楽評論家 + 音楽雑誌)
       :TuneCore:個人が音楽を配信できるコト
▶︎ 完全なるパーソナル・レーベル機能
       : TikTok
▶︎ 音楽を使って踊るコト + 撮影した動画を発信するコト

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 まったく同じ音源でも、街を歩きながら音楽を聴くことで、その感じ方は、何度でも生まれ変わる(そのときの風の強さ・場所ごとの景色・聴く人の心境など、多くの要素と複雑に多方向に絡み合っている状態)。

 YouTubeにアップロードされた映像(コンテンツ)自体は固定的で不変だが、それに対する評価(いいね!やコメントなど = コンテクスト)は、常に可変的していくし、そのコメント欄は「作品」⇄「カスタマー」という双方向的な関係(インタラクション)をはるかに超える多くのファン同士の多方向なコミュニケーションであふれている。

 こういった多く軸を持つメタ(高次で多方向な ※)インタラクションを生むために、最新テクノロジーが必要不可欠になっている。

※ インターネット上で人々が行っているコミュニケーションは、同時多発的であり(たとえば、テレビを見ながら、その感想をフェイスブックとX:旧Twitterへ同時投稿したり)、それが、どこでもドアのように、一瞬で世界の裏側まで届いてしまうような状態をメタ・インタラクションと呼んでいる。

 かつて、その機能を担っていたのはジュークボックスであったし、その後のカーラジオ/ウォークマン/カラオケボックスなどもメタ・インタラクションを活性化してきた––––ただし、インターネットの登場以前、 物理法則(時空)に制限されたまま、やり取りできる「範囲(空間)」は狭く、「速度(時間)」も遅かった。

 それでも、古代から存在した「複雑なコミュニケーションを含むコンサート(ライヴ)」とは真逆にある「自分だけで楽しむ固定的な(何度聴いても変わらない)音源鑑賞」に、再び、回帰的で、パブリック(公的)な、常に可変する体験を付加した(例:音源を聴きながら恋人と踊る瞬間は2度と同じトキを刻まない)。

 メタ・インタラクションな体験は、個々人がコントロールできないコトであったし、同時に、発信者側や企業もコントロールできないコト––––つまり「民主的」だった。

 それこそが、テクノロジーによる音楽文化/市場への最大の貢献なのだ。それを、重々、踏まえた上で、現代のレコードメーカーにおけるテクノロジーの利用対象の選定には––––

 ① YouTubeやTikTokの「踊ってみた動画」に代表されるような、
   音源を、マテリアル = BGMとして、
   他の感覚情報を持つ体験を生むプラットフォームに使うべき!

 ② 音源鑑賞に関するテクノロジー進化において、
   高音質で聞くコトだけを目指すモノは、常にデッドするため、
   ライヴ的な価値(メタ・インタラクション)の創出に使うべき!

 つまり「インターネット上で送受信ができないコト(体験価値)」を生み出すという志向が肝要になっている。

 そして、それは、インターネットの登場によって、物理法則(時空)を無視してやり取りできる––––「範囲(空間)」も「速度(時間)」あってないような状態––––現在は、ワープするようにコミュニケーションできる時代なのだ。

 コンサートの特異性を司る視聴覚情報以外の感触や嗅覚までもが「デジタライズしてインターネット上で送るコト」が可能になり、自宅にいながら会場へ「ワープできる」未来を見据えたとき、録音や撮影など、固定的な記録の性能向上を主軸に据えたテクノロジーによる文化の発達や市場の開拓は、将来性に乏しい(オーバースペックになりがち = 今、VR/AR界で起こりつつある現象)。

 具体的に言えば––––

▶︎ 高画質よりも適度に軽いデータでインタラクションの速度を速める(というよりも、もはや、感じさせないレベルにまで持っていく)

▶︎ 立体音響やフォトリアルなど「現実世界にあるリアリティ」よりも、飛んだ先にある「仮想空間にあるべきリアリティ」の優先

 などだ。

 この世界の再現(リアルなコンサートにいけないから、せめて、それを擬似体験させるようなコト)であるなら、いつまで経っても、神の創った現実の素晴らしさや細やかさには勝てっこない。まったく、別のベクトルで、2章に書いた北斎やピカソのように「現実離れ」した「ファンタジー」や「4次元的な世界」––––つまり、自然摂理や物理法則を無視した「神への冒涜(※)」とも言えるような「反現実的なセカイ」を構築すべきだ。

※ 仮想空間だから犯罪も含めて何でもやりたい放題のセカイという意味ではなく、神が創った現実世界のデザインに逆らうような奇想天外なデザインを目指しましょうという意味––––くれぐれも悪しからず。

 今後、プラットフォームやライヴ分野におけるテクノロジー開発に注力するにあたり––––

■ シミュレーションに過ぎないモノ
(過去の一時点の固定的な記録の再現)

 と、バーチャルリアリティを含む

● 同時性を持つリアルな(リアルっぽい)体験
(更新され続けるトキやプロセス = 記憶の再生)

 との差を、可能な限り大きく広げておくような努力をすべきだ。

 現時点から、徐々に、その間に大きな差を広げていくことで、温度・手触り・香りなど、視聴覚情報以外のあらゆる感覚情報(五感すべて)が、インターネット上で容易に送るコトが可能な未来においても––––

■ 遠い未来に実現するであろう全感覚情報を含めたより正確な記録を鑑賞する(追体験に過ぎない)文化

 と、バーチャルリアリティを含む

● プロセスに重きを置き、リアルタイムにライヴで干渉し合う(共創することで新たな体験を共有するサイクルを繰り返す)文化

 を、差別化できるからだ。

 たとえば、リアルなコンサートには勝てないと思われがちなオンライン・ライヴの体験価値をそういったインスピレーションからアップデートしていくと––––

「(リアルでは絶対にあり得ない)超民主的なプロセスを持つまったく新しい体験を生もう!」

 という「着想」に辿り着く。 

 そこで、初めて「VR」や「AR」を選択すべきだ。新しいテクノロジーだから使うのではなく、新たなエクスペリエンスを生むための最適解として使うという「意識」が大切だ。

 そもそも、リアルとバーチャルを比べること自体が、愚かしいことなのだ。音楽業界で働くボクが、バーチャルリアリティ分野のテクノロキー企業にコンサルしている内容は、まさに、そういう「志向」だ。このあたりの「xR」や「メタバース」に関する話は、もっと、詳しく、第5〜6章に記す。

 とにかく、VRは、リアルとはまったく別のベクトルを持って(市場からの期待を背負って)進化していくべきだ。目指すところが違えれば、自ずと現実世界と差別化され、仮想空間にコア・コンピタンスが生まれる。

 リアルな体験の劣化版としてのバーチャル体験(例:大好きなアーティストのコンサートに行けないから、やむなくオンラインで鑑賞するようなトキの提供 = シミュレーションでありソリューション寄りの代替案)に、感覚の肥えたカスタマーたちは、決して、大きな価値を見出さないだろう。

 新しい価値を生むために必要とされていくのは、百年前に生まれた「鑑賞 = レコード(過去の記録)」ではなく、人類史とほぼイコールかも知れない「体験 = LIVE(生きている記憶)」という「回帰的だが新しい価値の創出」だ。


3−2 
新たな価値❶ を別視点から考察する


音楽のオンリーワン性はライヴにある。
つまり、リアルタイムで共有すること。

 アートの中で、音楽だけが真の意味での「同時性(リアルタイム性)」を持っている。たとえば、小説––––書き手も、読み手も、時間を編集/操作できるが、音楽では不可能だ。

 さらに、生まれる瞬間(生演奏)を一緒に(同時に、同じ空間で)味わうコトさえできるのが、音楽の最大の魅力であり、他にはない強みでもある。

 絵画も、文学も、創作過程で生じる「リアルタイムな喜び」を鑑賞者と共有するような構造にはないが(※)、音楽は、古くから(むしろ、古い方が)その生成プロセス =「演奏」をファンと一緒に楽しみ、それが終わった瞬間、たとえ、物体を伴う「記録(例:ヴァイナルで出来たレコード/紙で出来た本)」として残らなくとも、心に「記憶(例:コンサートの思い出/幼い頃に母親が読み聞かせてくれた物語り)」として残るようなコミュニケーションを重視してきた。

 もっといえば、録音技術が発明される前までの音楽は、観客の目の前で生成されていくプロセスそのものであった。 

※ メディアアート(正しくは、New Media Art)においては、創作プロセスは表現の一部であり、作品生成と同時に交わされていく観客とのメタ・インタラクションが偶発的に生み出す「予測不能 = VUCAな体験価値」を担保する。それゆえに、かつては音楽特有であった「同時性」を、現代においても「音楽のみの機能である」と断言するのは誤りかも知れない。逆説的に言うと、New Media Artは、オンリーワンだった音楽が持つ要素を、映像をはじめとする他の感覚へ訴求するアートにも取り入れようとする指向性を持っている。次に登場するシュトッカー氏の「メディアアートは、音楽から始まった」という発言の真意も、そこにあるのではないか?

 コンサートの観客は、生成プロセス(生演奏 = ライヴ)において、常に「拍手」や「歓声」、ストリートライヴであれば「投げ銭」などで関与し、作品を『鑑賞』するだけではなく、作品に『干渉』する。

 作者(演者)も「コール&レスポンス」など、積極的にそれを促し、歓迎し、結果、(メディアアート的な発想が生まれるまで)コンサートと舞踏(ダンス)と演劇、つまり、舞台芸術だけがリアルタイムに可変的で多方向なコミュニケーションを生むメタなアートであり続けた。

 ただし、録音された音源や撮影された映像というドキュメント(過去の一時点や一定期間の固定的な記録)や、レコードやビデオテープ、あるいは、ディスクなど、オブジェクト(不変的なモノである媒体)が、作品として残るようになる以前の話だ。

 音楽は(舞踏と共に)もっともプリミティヴなアートの1つであり、絵画より、演劇より、建築より、彫刻より、文学や文字(書道)より、写真や映像よりも、圧倒的に古くから存在している。

 その理由は、人間を含め動物の多くが生まれ持っている能力である「声」という存在に由来している。絵を描けない猿やイルカでも鳴くことは簡単にできる。

 生物学的に容易であるからこそ、もっとも古くに生まれた––––他の動物に漏れず、多くの人類にとっても、声を使った音楽表現「歌唱」は、直感的に身に付けやすい技能なのだ。

 絵を描くより、物語を綴るより、歌うことの方が簡単という人は多い。赤ん坊だって泣く。

 ただし、それゆえに多くの歌い手が生まれ、より激しい競争原理が働くため、「アートとしての評価を得やすいか?」と言われると、そうでもない。なぜなら、音痴な人でも他人の音痴は分かるように、音楽を受容する際の判断能力が高いのも、音楽だからだ。音程がズレたり、リズムがよれると、誰でもすぐに分かる。

 音楽が親しみやすい芸術であるのは、受動時(聴く側)のみのことで、歌を含め演奏するとき(能動時)は、矛盾するような難しさを持っている。先天性の生物学的要因なのか/後天性の文化的要因なのか知る由もないが、作曲を含め「創作」という面での音楽は、非常に困難な芸術とされてきた。

 美術の授業では、ピカソの模写などは課されず(というより、そんなことはできないので)、自分らしい絵、つまり、オリジナルを描くことが推奨される一方、音楽の授業では、逆のことが起きている。

 オリジナルを作曲するような機会はなく、ひたすらカバーするコト(既存曲を演奏したり、歌唱したり)に重きを置く。国語(読み書き)の授業も、比較的、音楽教育に近く、それを考えると、音楽や文学が複製文化や複製産業になったのも頷ける。その中でも、特に、音楽は、生物学的観点からもその傾向が強いのではないか。

 音楽は、コピーしやすく、生み難い芸術なのかも知れない。

 一方で、音楽が持つ「リアルタイム(だから同期させやすい)+ 原始的(だから誰にでも通ずる)」という2大魅力は、他の芸術(ダンス・演劇・映像・メディアアートなど)とのコラボレーションにおいて、大変、重要な役割を担ってきた。

 音楽のない映画を想像してみて欲しい(あるいは、映画を観ているときに音楽が流れたら、それを頭の中で取り除いてみて欲しい)––––その感動は、ストーリー/台詞/照明/美術/色彩といった言語や視覚情報のみではなく、バックに流れる音楽から発生する割合が少なくないコトを痛感するはずだ。

 同時性から映像ともシンクロしやすく、本能的/直感的であるがゆえ感情に訴えやすいのが音楽だ。それが、固定的な記録ではなく、目の前で起こる記憶の連続であるライヴと相性が良いのは、言うまでもない。

新たな価値❶ =「回帰的だが新たな価値」とは、

(1) 原始的・本能的・直感的だからこそ
= 誰にでも通ずる(超伝わりやすい)からこそ––––
(2) 即座に(リアルタイムで)共有できるので––––
(3) みんなで一緒に行える(民主的な)個人が操作不能なプロセス––––

 を、生む「ライヴ性」のコトだ。

第1章「だから、遠い未来も人はアナログに旅をする」にも書いたが、音楽は、何度でも “生” まれる––––「MUSIC is “LIVE”」だ。


3−3 
新たな価値❷:ENTER-TECHという最先端価値 


音楽とエンターテック(エンタメ × テクノロジー)は、親和性が高い。
なぜなら、パイオニア・アートだから。

 前述の通り、音楽は「同時性」によって「メタ・インタラクティヴ」な体験を生み、非直線的かつ非短絡的な文脈(コンテキスト)を描くアートだ。「New Media Art(以降、シンプルにメディアアートと呼ぶ)」は、視覚訴求するアートが音楽的になるコト––––そんな、捉え方もできる。

 もちろん、出来上がる作品はまったく音楽ではないし、音楽が映像や絵画より上という話ではない。音楽的 = ライヴが持っていた要素を、固定的な映像や絵画に付与するという意味で、音楽は、メディアアートが目指す完成形の一部をすでに持っていた。

 その面で、音楽は「パイオニア・アート」と評することができる。

 もはや、「デジタルアート」と同義に扱われる節もある「メディアアート」は、テクノロジーの進化と切っても切れない縁を持ち、VRをはじめxRとも深い関わりを持つ。そして、インタラクティヴ(※)という発想を世に広めた存在でもある。 

※「インタラクティヴ(双方向性)」は、今となっては、意味がない(かなり限定的な効果しか持たない)と断罪され、もっとメタな多方向に及ぶコミュニケーションを目指す時代、この言葉自体は形骸化させられてしまったが、本書では「メタ・インタラクティヴ」という言葉に進めて、重視している。

 コンピューター界のオスカーとも言われる「ゴールデン・ニカ賞」を主催し、世界中から優れたメディアアートが集まる祭典「アルス・エレクトロニカ」を主催するシュトッカー氏は、以下のように語っている。

 同時に、仮想現実という概念を世に広め、「VRの父」とも呼ばれるラニアー氏の言葉も紹介しておきたい。

 イベントはよりイベンチュアル(起こり得るコト)になる。
(ドキュメントからイベントへの移行)
 完成された作品は過去のモノとなり、
 オブジェクト自体よりプロセスに移行する。
 そして、それは音楽から始まった。


 - ARS ELECTORONICA CENTER / Gerfried Stocker -

https://ascii.jp/elem/000/000/305/305825/

(最終的に人々に行き着いて欲しいと望むVRの定義を尋ねられた際:
 長い沈黙の後に)


 音楽と知覚の中間に位置するものです。

 - COMPUTER SCIENTIST / Jaron Lanier -

https://wired.jp/2018/01/09/jaron-lanier-vr-interview/

 音楽文化は、各時代の最先端テクノロジーと共に歩み、今後も密接に並走していくだろう。なぜなら、そのライヴ性は「リアルタイムに共有・共創するコト」にあるからだ。

 上記の賢人たちの言葉は、メディアアートやVRと、音楽との関係性を、非常に的確に表している。


3−4 
新たな価値❷ を別視点から考察する


「21世紀の前夜から夜明け」は、
「盛期ルネサンス」と、酷似している。

 ルネサンスの巨人「レオナルド・ダ・ヴィンチ」は「万能人」と呼ばれていた。それを今風に言えば「マルチスキル」となる––––その次は、どうなったか?––––ルネサンス盛期のあとにやって来た末期に、僕らが学ぶコトのできる「すでに起こった未来(歴史から学べる事実)」は、ないだろうか?

 中国の貢献を鑑みると「発明」という表現は正しくないのだが、ルネサンスの「三大発明」として「活版印刷」「羅針盤」「火薬」が挙げられる。

 音楽業界の発祥にも寄与した飛躍的なテクノロジー進化を得た時代––––その中でも三大巨匠と呼ばれる「ダ・ヴィンチ」「ミケランジェロ」「ラファエロ」は、全員、「Uomo Universale(万能人)」と評されていた。

 これは、現代で言うところの「芸術」と「科学技術」を併せ持った「マルチクリエイター」と、ほぼ同義だ。そして、後世において––––21世紀の前夜から夜明け、つまり、今という時代は、ルネサンスと並び称されるほど、文化的にも、科学技術面でも、大改革の進んだ華やかで面白い時代かも知れない––––そんなふうに、未来から今を懐かしむような不思議な気持ちで、今の混沌とした世界を眺めていると、ワクワクしてくる。

 ルネサンスと今の共通点の1つは、音楽を含めた「アート」と最先端の「サイエンス」や「テクノロジー」の「シームレスな融合」にある。

 芸術と技術を合わせると、魔術(マジック)が起こる。

 ダ・ヴィンチは、モナ・リザに代表される絵画や彫刻などの芸術分野だけでなく、建築設計・機械工学・金属加工など、当時の最先端だった科学技術にも精通し、それらを行き来しながら活躍した。同じような能力や経緯で、多くのメディア・アーティストたちが現代を席巻している。両者に共通するのは、アートとサイエンスの間をボーダレスに生きていること。

 現代版「万能人」の多くが、「ギルド」の代わりに「ラボ」を持ち、貴族の代わりに企業をパトロンに据え、社会の特権階級であるクライアント(ルネサンスの貴族や富裕市民/現代の企業)に「アート × テクノロジー」を売るコト(2 B)で生計を立てている。よって、そのほとんどは、庶民が購入できるような(価格帯の)モノではないが、パトロン(貴族や企業)の寛容さ次第では、協賛側のステータスを上げる「アートイベント」として庶民にも体験できる機会が訪れる。

 作品自体は、直接的なカスタマービジネス(2Cのモノ売り)にはなりがたいが、パトロンのブランディングやプロモーションのために機能し、彼らが万能人の高級なリテラシーを一括購入(スポンサード)することで「2B4Cビジネス」として完結される。

 ゆえに、このタームの作品が生み出す体験は、非常にアカデミックでストイック––––分かる人にだけ分かれば良いというような、一般市場を突き放す作風になることも少なくない。

 歴史から読み解く「次」の動向として––––

 ルネサンスのその後では、フランス革命に代表される「市民革命」のコアである「啓蒙思想」が掲げる「人民主権」により、アート市場やテクノロジー市場が「2B(特権階級 = 王族や貴族といったパトロン向け)」から「2C(一般的な大衆 = 市民向け)」へと変遷してった。

 その過程で、アートとテクノロジーは切り離され、アートはよりアート的に、科学技術はより科学技術的に、いずれも、より専門的で、閉鎖的な文化的構造を持つ「資本主義集団」へと変わっていった。

 魔術的な機能は失われ、2つの相対的で実践的な存在へと変貌した。
 そして、良くも、悪くも、排他的かつ商業的に傾倒し、現代に至る。

 アートとテクノロジーは、いずれも、社会で実践すべき物事ではなく、どこか浮世離れした存在であり、生業(たとえば、畑を耕し、家畜を飼い、生きていくこと)から切り離され、特権階級に庇護され、だからこそ、二大アウトサイダー同士が肩を寄せ合い、交流を深め、芸術と科学技術を区別せずに、神を信じ、融合させ、魔術を起こした。

 人々は、そのマジカルな世界観に魅了されたのだ。

 が、民主主義運動(のサークサイド)によって、その鳥籠は無惨に破壊され、突如、同時に押し入った工業/大量生産/拝金––––資本経済至上主義によって、荒野に放り出されたアウトサイダーたちは、それぞれの得意分野にフォーカスした(選択と集中を行い)ビジネスをしていくしかなかった。もっと、嫌な言い方をしておいた方がいいだろう……金に換えていったのだ。

 たとえば、フランス料理が現代の地位を獲得したのは、ルネサンス時代を席巻したイタリアのメディチ家(超大なパトロン:現代に置き換えればグローバルな大企業)出身であるカトリーヌがフランス王家に嫁いだことに起因している。

 彼女は、専属のシェフや菓子職人を連れて嫁入りし、彼らとともに、当時のフランス王家で提供されていた食事をアップデートしていく。大雑把な豚肉料理を繊細な牛肉料理やジビエに置き換え、新鮮な野菜を美しい陶器に盛り付けるコトなどで「視覚的な食文化(食事のビジュアライズ)」の発展にも寄与した。

 その後、フランス王家で発展していったイタリア料理が、市民革命を機に世に放たれた(無職となった王族専属の料理人たちが城の厨房から町のレストランに場所を移し、庶民にその腕を振る舞って、生業とした)結果、それまで評価の低かったフランス料理という文化は、世界最高峰の料理カテゴリーの1つにまでのし上がったのだ。

 言うまでもなく、市民革命においてもっとも重要なファクターは「特権階級主導からの民主化」––––つまり「中央集権的ではない分散型システムの構築」だが、言い換えれば、「人」が「人」を支配する世界からの解放であり、実は、それは「人外」が(人でないゆえに)冷酷に平等に「人」支配するセカイの到来だった。

 人外とは何か?

 金と、法だ。

 それが、一部の人間に集権的だった封建社会を壊し、「分散型システムの構築」という大義名分で新たに産み落とされた権力であり、自由民主主義 = 資本主義の正体だ。

 良く言えば「誰にでも平等な法で守られた世界」––––
 悪く言えば「誰にでも冷酷な金で争わせる世界」の誕生だ。

 僕の目には、ミレニアル以降の世代にも、Y世代からZ世代に移るにつれ、「現代版の市民革命」とも言えるインターネットを取り巻く「民主化運動」が同時多発しているように映る。

 たとえば、クリエイションの民主化、誰でもアーティスト化現象(国民総クリエイター時代)や暗号通貨などがそれだ(※ この章を記したのは2018年のため、タイムラグがある点はご容赦を)

 一方で、現在のメディアアート界は、いまだ、ルネサンスのように、その作品をパトロン的存在「企業」が買っている「2B4C時代」だ。

 直接のクライアントは、大手不動産業であったり、有名アーティストのコンサート運営であったり、はたまた、テレビや雑誌といったマスメディアであったりと、あらゆる企業が、自社のビジネスを成功させるための副次的なコト(例:イベントをサポートすることで自社の宣伝をするコト)として、購入(協賛)する場合が多い。

 歴史から読めば、近い将来、この種のテクノロジーはコモディティ化し、より大衆的な文化として市民権を得て、「メディアアート」も、いよいよ「D2Cビジネス」に突入するのではないか。

 そして、最新のVR/ARインターフェイスデバイスの登場によって、それは「すでに起こった未来」へと推移していくだろう。僕は、xRの普及こそ「メディアアートの民主化」を加速させると考えている。

 現に、今(2018年当時、すでに)、かつては、パトロン向けにストイックでアカデミックだったメディアアートが、「2C4B」であっても2C目線のより分かりやすい作風として成立する過渡期を迎えている。

 そこに敷かれているテクノロジーのテーマは、「共有(共感)」や「民主性」だ。つまり、音楽業界でいうジュークボックスやTikTokのように(※ 2−4変化に対する反応速度は狙って出せる参照)、作品を「観る」のではなく、作品を「使う」という意識を煽っている。

 観客は、鑑賞という作者からの一方的なメッセージを受動したいのではなく、そのメッセージの中に入り込み、自らがそれを体現し、発信する側に回りたいのだ。最たる存在は、SNSのインフルエンサーたちだ。

 彼/彼女らにとって、作品は、セルフィーの背景素材であって、
 本当の作品は、自らがインスタグラムに投稿する写真の方だ。
 それこそが、メディアアートの本懐でもあるのだから、皮肉なものだ。

 この本のサブタイトルにもなっている「IMMERSIVE SOCIETY(没入的社会)」の一端であり、今、徐々に日本でも話題になりつつある「イマーシヴ・コンテンツ」や「イマーシヴ・シアター」というのは、メディアアートの市民革命でもあるのだ。

 前述の通り、メディアアートの本質は、インタラクティヴ(双方向性や対話)ではなく、民主的に多くの人々が関わることで、「永遠に唯一解へと収束しない、つまり、完成形などない––––高次で多方向なコミュニケーション(メタ・インタラクティヴなプロセス)にあり続けるコト」にある。

 その代表選手になっている「チームラボ」の大きな作品(中に入る = イマーシヴ・アート)は、いつまで経っても完成などしないし、来場者だけでなく作者である彼らにもアンコントロールドな状態にあり続ける。

 来場者は、作品を「鑑賞」するのではではなく、作品に「干渉」する。だから、観客ではなく来場者(あるいは参加者)と呼ばれるのだ。「共創」という名の「創作の民主化」が、人々を、確実に、熱狂させはじめている。これは、新たな民主化運動なのだ。

※ これを書いた2018年当時は、COVID-19による世界的なパンデミックが発生する前であり、NFTもアップルのヴィジョン・プロも登場していなかった。実際、今、アートを投機のチャンスとして捉え、個人所有する向きが盛んになり、xRに期待する声もより高まっている。

 従来の「パトロンが資金を出し、作品は自由にアーティストがつくるコラボレーション」とは異なり、「民主化による新たな共創」においては、これまで制作側のみが主導権を握っていた演出の一部を、いかにして参加者側に譲渡(エンパワーメント)していくかという着眼点が重要になる。

 そして、権限譲渡という発想自体が、文化的なトレンドになっていくだろう。

 映画というアートにおいて「場所・時間・視野の切り取り(カット)」という演出は、絶対に不可侵の演出側の役割だ。監督が決めた不変のカットによって自在に時空を支配されるコトに身を委ねるからこそ、現実や物理法則を超越した素晴らしいアート体験が得られる––––が、VR作品においては「カット」=「視点(どこを見るか?)」は、観客側に譲渡すべき演出となる。

 このような創作の民主化がより進んだ次の時代に向けて、音楽業界が目指すべきコトは、より分かりやすく気取らないテッキーさ––––テクノロジーを纏っているかどうかも分からないような––––自然を装った新たな人工的音楽体験を生み出すコトだと思っている。

 また、(歴史がまったく同じ形で繰り返されるわけではないが)温故知新という面では、今後、同じパトロンでも、「現代の企業」と「ルネサンスの貴族」とでは、如実に、大きな違いが出てくると予想している。

 企業のほとんどは、プロモーションの次に、どうしても「D2Cビジネス」を求める。すでに多くの企業が「コトを提示」した結果「モノを売る」という目的を強く意識するタームに入った。これにより、純然たるアートとして存在するコトが許されていたメディアアートも、良い意味でのコモディティ(一般)化が求められ、より実践的なビジネスの場で戦う時代に突入するはずだ。

 アートとサイエンスを生業とし、 「誰にでも平等な法で守られた、誰にでも冷酷な金で争わせる世界」へ飛び込む必要がある。それが「普及」の正体であり、アート界隈では「セルアウト(※)」と言って、嫌う向きもある。

※ 作品が持っていたメッセージ性を排し、商業的な利益と追及する成果主義的なアーティスト活動を揶揄する言葉。

 善い話として––––そんな流れに身を置く「テッキーな芸術(あるいは、エンターテック)」は、医療や戦争に並ぶ有用な最先端テクノロジーの「実証実験フィールド」になるかも知れない。

「アート」が、病院や戦場よりも「実践の場」として優秀なのは、その実験結果が人の生死に関わっておらず、初期段階から常に失敗を歓迎できる環境や空気をまとっているからだ。いや、むしろ、その失敗さえ、反脆いプロセスとして「表現」と見做し、作品の一部にしてしまう不思議な分野が「メディアアート」であり、そもそも「アート」なのだ。

 実際、そういったアート的な思考/志向を、ビジネスに活用する動きもある。「デザイン・シンキング(クリエイターが企画する際の思考回路の活用)」や「リベラルアーツ(実用性のある目的からは離れているからこそ純粋な教養)」は、その代表例だ。

 それもまた、時代の流れの中で自然と起こっているのだと思う。アジャイル組織の本質の一部も「失敗の歓迎」という反脆さにあるわけで––––

 より商業的(ビジネス寄り)なアートを得意とするレコード―メーカーを含むエンタメ業界が、これまでのアカデミックな「アート × テクノロジー」とは一線を画したビジネス(一般的なニーズに直結した2C向けのサービスや商品としてのエンターテック)に参入する時代も近いだろう。

 かつて、市民革命が、アートに「民主主義」と並行して「資本主義」を持ち込んだように––––まさに、音楽業界は「一般的」で「商業的」な「アート業界」なのだ。逆流から言えば、そういった一般化された = 普及を目指すアートの別名こそ「エンタメ」なのだ。

 今後の音楽ビジネスにおいて「アート × テクノロジー(アカデミックなメディアアート)」のコモディティ化としての「エンターテック 」は、「回帰的な新たな価値」を生む重要なファクターになるはずだ。そして、良くも、悪くも、またもやそういったテクノロジーともっとも親和性の高いアートは、間違いなく「同時性 + 原始的」な音楽なのだろう。

 あゝ、また、あのジェットコースターに乗るかと思うと、吐き気がする苦笑(1−2「すでに起こった未来」参照)。

 音の波形を(近くから見ると)細かく上に上がったり下に下がったりを繰り返している。でも、遠ざかって見ると、その上下が大きな下降線もしくは大きな上昇線の一部に過ぎないことが分かってくる––––(途中省略)––––リスナーがサビへの期待感を得るのも、その直前にある巨視的な上昇あるいは下降線だ––––(途中省略)––––言うまでもなく、遠い未来を想像するときも、なるべく遠くから、滑らかで、巨大な波を見ないといけない––––(途中省略)––––短い波と長い波では、今が、どれくらいの角度を持った下向きか上向きなのか、その捉え方がまったく異なってくる––––(途中省略)––––ルネサンスから続く滑らかな波で、少なくとも今の音楽業界は、第1波の緩やかな上昇に過ぎず、巨視的には平坦に近いが、その波の上に乗っかっている現在進行形の僕には、ジェットコースターのような急勾配のアップダウンでもあった。

 ぶっちゃけ、ずっと、吐きそうだった(苦笑)。
 でも、だからこそ、ほんの少し、正直な価値がある。

第1章「だから、遠い未来も人はアナログに旅をする」

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【 後 篇 に つ づ く 】

「○○○○○」に入る言葉を明らかに〜メソッドの具体策も


【 マ ガ ジ ン 】

(人間に限って)世界の半分以上は「想像による創造」で出来ている。

鳥は自由に国境を飛び越えていく
人がそう呼ばれる「幻」の「壁」を越えられないのは
物質的な高さではなく、精神的に没入する深さのせい

某レコード会社で音楽ディレクターとして働きながら、クリエティヴ・ディレクターとして、アート/広告/建築/人工知能/地域創生/ファッション/メタバースなど多種多様な業界で仕事してきたボクが、古くは『神話時代』から『ルネサンス』を経て『どこでもドアが普及した遠い未来』まで、史実とSF、考察と予測、観測と希望を交え、プロトタイピングしていく。

音楽業界を目指す人はもちろん、「DX」と「xR」の(良くも悪くもな)歴史(レファレンス)と未来(将来性)を知りたいあらゆる人向け。

 本当のタイトルは––––

「本当の商品には付録を読み終わるまではできれば触れないで欲しくって、
 付録の最後のページを先に読んで音楽を聴くのもできればやめて欲しい。
 また、この商品に収録されている音楽は誰のどの曲なのか非公開だから、
 音楽に関することをインターネット上で世界中に晒すなんてことは……」


【 自 己 紹 介 と 目 次 】

【 プ ロ ロ ー グ 】



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