夢の弊害
やっと、気づいたんです。
夢を追いかけに追いかけた、
充実しまくってた時間。
夢を体現できたと思ってた、
しんどかったけど充実感もあった時間。
って実は
自分の気質的には
正反対のことを
選んでばかりいた
ということを…
ふと思いました。
鏡をみて、いままで、
仕方ない
で流していたことを
少し考えてみることにしました。
私の小さな悩み:25歳なのに白髪が多い
これです。
いやなんか文字にすると結構恥ずかしいな。
高2くらいで結構増えて、
それで社会人なってまた増えた感じ?
だったのではないかなあと。
誰かに、
また白髪増えた?
っていつかの、なにかのタイミングで
言われた記憶もある、、。
仕方ないんだ、これは。
若い時期の白髪って
予防法も原因も、よくわかってないし。
って思い
美容院で髪染める時も常に
根本の方は白髪染め、
毛先は普通のカラー
とかそんな感じで、いい感じで
隠している。
というか
頭のてっぺん、根本が白髪とか、
鏡見る度、テンション下がるから。
本当に。
でも今まで、仕方ない、で、
スルーしてたんだけど、
「てかどうして?
この量は25歳では多いだろ」
って、ある日、改めて、思った。
これを共感できる同世代、
あるいは少し上の世代の方とも出会ったことなく。
で、どうしてだろうって考えたら、
高2や社会人1年目あたりは
自身の感じるストレスが、
当時の自分にとっては、半端なかったから
かなあと。
思い描いた夢が、遠すぎて。
自分の夢に近づくために、
少なくとも、夢ではなく、
現実味のある目標レベルにするために、
当時の自分のままじゃだめだということだけは
よくわかっていましたし、
夢の舞台では、
当時の自分のままじゃ
生きていけない
ということも、痛感していました。
それで、結局、
自分が変わらなきゃいけなかったのです。
感覚的に辛いことも、
ここで無理だったら、夢を叶えるなんて無理じゃん
って思って、感情を押し殺して、振る舞っていました。
夢の舞台だった社会人一年目二年目、
実際のところ自分が至らないから、怒られまくって
なんて自分はダメなんだろう、と思いながらも、
日々一生懸命に振る舞っていました。
「できない」を「できる」に変えるために、
「できない」自分と向き合って、
どうにか職場に適応し、
上司に気に入られなくてはいけない、
と思っていました。
たとえ天候不順でJR線が動かない、
嵐の日でもなんとか出勤できる、
職場から自転車で20分圏内の暮らし。
新社会人で千葉にきたから、はじめての一人暮らし、
そこで出会うすべての人と、一からの関係づくり。
自分にとって、当時、
その場所でその仕事をすることの意味が
大きすぎて。
だって、自分が15歳のときから
追いかけてきたことだもん…
だから仕事が、自分にとって大切すぎました。
そしてそれが自分のアイデンティティにも
なっていました。
私は、自分がやりたかったことを
夢を、日々、体現しているんだ。
中心があまりにも、仕事だったのです。
だからこそ、
その中心が、ぶれてしまえば、
そこで居場所を失くせば、
私はどう生きていけばいいのか、
わからなかったのです。
そうなりたくなくて、
自分の居場所を作るために
そこで必要とされるために、
身も心も、仕事へ捧げた生活をしていました。
そうしたらいつのまにか、
自分の感覚が、狂っていました。
次の日朝から仕事でも、
終電の時間まで飲んでました。
女2人で、ワインボトル開けて、
飲んで、食べてました。
翌日はノリと勢いで出勤しました。
そうやって、仕事辛いのを考えないように
なるべく、「楽しいっぽいこと」を派手にやって
仕事が嫌だなとどうしても思ってしまう、
ひとりの時間を
作らないようにしていました。
そしてどんどん、狂っていきました。
一度に飲むお酒の量が、どんどん、どんどん…。
一回、場慣れせず、
どれだけシャンパンを飲んでも酔えず、
注がれるがままに飲み続けていたら、
いつのまにか私はトイレに立てこもってました。
眠すぎて、しゃがんで寝てました。
というか本当は寝たくなかったんだけど
目がどうしても重くて。
しっかり目が覚めたとき、
いつのまにかトイレの滞在時間
1時間以上たってました。
腕時計見て、びっくり。
体感としては、長くても、
15分くらいだったからです。
品川駅から、始発でなんとか東京駅まで戻って。
でもやっぱり気持ち悪くて
東京駅のホームでしゃがみこみました。
これから会社に向かう、サラリーマンが多かった。
それでもなんとか京葉線乗り場まで歩き、
アパート最寄り駅まで電車に揺られ
どうにかしてアパートまで。
自転車を停めたところで、安心してしまって、
結局外で、吐きました。
自分の素のままでは、到底居られない。
自分であることが、恥ずかしい。
安定感のもとのびのびするのが得意な
本当の自分を封じ込めて、
変化の絶えない環境で翻弄されて、
いつのまにか、
自分の感覚を殺していました。
でも同時に、
自分の限界って、越えられるんじゃん!
限界って感覚的に自分が決めてたものだけど、
案外、超えられるんじゃん!!!!!
と、新しい自分にも出会っていました。
そしてそんな新しい自分も決して悪くなく
どっちかっていうと好きでした。
控えめで敏感、繊細なんだけど
ガンガンいっちゃうし勢いもあるし、
ノリもいい。
そんな自分のこと
全然嫌いじゃありませんでした。
し、そういう自分のことを
好きになってくれる人は
当時周りにたくさんいました。
ただ感覚が狂いに狂っているから
正しい選択ももちろんできておらず
というよりも
何が正しいか、何が普通かすらもわからず
深夜にコンビニへ行き、うろうろして、
部屋でお菓子やアイスをドカ食いする
という満たされないが故の行動も
度々していました。
鏡をみると、デブった丸々とした顔の自分。
冷静に、二度と、戻りたくない日々。
感覚を失うって怖い。
って、
感覚をやっとかっと取り戻しつつある
最近の自分からすると、思うのです。
でもこれ、感覚取り戻さないとわかんないな。
何が自分にとって心地が良いのか悪いのか
はたまた何が自分にとって正解で不正解なのか
これはあくまでも自分で実験して
生活まわして実験して、
失敗したり成功したり
それらを繰り返してのみ
わかることなんだけど、
一度失った感覚を
取り戻す、元に戻るって本当に、
大変なんだなって。
私は少なくとも5年はかかったよ。
いや、ひょっとしたら、10年かもしれない。
元に戻りつつある現在、やけに思い出すのは
小学生の頃や中学1.2年の頃。
やりたいことも成し遂げたいことも
なにもない。
ただただ、毎日、ひまを持て余しては
ひたすらゲームをしたり、
兄達に混ざって缶けりをして、
自然あふれる地元を、
「何もない」と表現した
小学生時代。
木々の茂る場所で
秘密基地をつくったのとか
友達の家でホットケーキ焼いたりしたのは
楽しかったな。
両親は平日休みが多く。土日は仕事。
私、本当に、ひまでひまで。
兄は兄の友達とよく遊んでて、
私も誰かと遊びたいといつも思ってた。
友達の家の電話番号がボールペンで書かれた紙をみて
一軒一軒、電話して、
「〇〇ちゃんいますか。」って言って、
今日遊べるかどうか、聞いたなあ。
まあ、みんな、親御さん土日休みだったんだろうな。
結構、断られたなー。
みんな家族の予定なるものがあるようで。
そういう予定があることを、羨ましく思っていた。
その週末に断られても、次の土日はやってくる。
また私は、紙をみて、
遊びたいなーって思った子に
順番に電話をかけていくのだ。
4軒くらい電話かけて、全断りのこともある。
ひまをどうしようもないくらい持て余す
自分が悪いとは思っていなかった。
いま考えると、断る方も大変だっただろうな、、。
友達がってより、その親御さんが。
なにかと心苦しいのではと思う。
ていうかこれ書いてて、すこし泣けてくる。
断られる側としても、ちょっと心が折れるから、
そんな日はもう潔くずーっと、ゲームしてた。
陽が沈むまで、ひとりぶっ続けでやってた。
ゲームボーイアドバンスからの、ニンテンドーDS。
ポケモンはルビーとサファイアが全盛期。
スーパーマリオブラザーズも牧場物語も
どうぶつの森も、サバイバルキッズも。
ゲームソフトは、これら以外にも
たくさん持っていた。
飽きるまでやった。
全然、飽きなかった。
ゲームが大事な友達だった。
そのほかに思い出深いことといえば、
年に一度、夏に川でイワナのつかみどり大会があって
それは結構楽しみだったくせに
実際、川に入って、自分の足元の近くにイワナや、
特別に放されたウナギかアナゴ?が泳いでいると
なんか怖くて、
手でつかめる距離のくせに、つかめなかったな。
友達が持ってる流行りのもの、
たまごっちやラブアンドベリーのカード。
ミルモの携帯。
そういうのに憧れて、私も真似していたな。
どこか遠くへ、見たことのないきらきらした世界へ、
本当は行きたかったのかな。
中学生になると、同級生の人数が
20倍くらいに増えて、単純に知らない人が増えた。
いじめられてしまわないか、靴が隠されたりしないか、
変な噂が流されてしまわないか、
好きな人の名前がバレてしまわないかと
周りにビクビクしながら
友人に対して半信半疑で過ごした、日々。
部長を務めた卓球部だって、
特に卓球に興味があったというわけではなく
「勝ちたい」という
強い思いが、心にあったわけでもなかった。
小学校で少しだけやったことがあり、
人より少しだけ得意だったから。
初心者よりは勝てるかなあという自負が
あったのだろう。
(単純にプライド高いな。)
本当はハンドボール部に興味があったけど
先輩怖そうなのと練習量がハードそうなので
結局体験入部すら、しなかった。
朝ごはんは食べすぎないようにしていた。
お腹を変にくだすからだ。
授業中にトイレに行くのが恥ずかしくて
給食の牛乳を飲まなくなった。
ごはん日は量を少なめにして
パンの日は、こっそりバッグに入れこんで、
お腹が痛くならないように、
授業中トイレへ行くことで
変に目立ってしまわないように、
細心の注意を払った。
どうしてみんな、あんなにたくさん食べて飲んで
平然と午後の授業を受けられるのかわからなかった。
その頃から、自分が食べたものが如実に自分に
影響を与えることに気づいていて、
自分なりの対策も練っていた。
そんな、
周囲の人を完全に信じることもできなかったけど
日々自分の体調にも気を遣いながら
自分なりに周囲に対応していたこの頃が本当は、
1番自分らしいのです。
やってみたいこと、憧れもあるけど
感覚的に向いてなさそうなものは逃げ腰、とか。
実際、ハンド部には
入らなくてよかったかなと思っています。
真夏の坂道ダッシュとか、できた自信がないのと、
気が弱い私は、タフなメンバーに、
上手く溶け込み果たして、やっていけたのだろうか、
とも思うのです。
とかいいながら、ハンド部の部長とは凄く仲良い。
でももし同じ部活だったら、
そこまでは、仲良くなれなかったのかなとも思う。
そして、(その代わりに入った)卓球部では
日々、めっちゃ無理することはないが
勝つこともあり、頼られ、部長を務めることになった。
中3の、シングルスの引退試合で、
私1人だけ、ベスト16に残ってしまったもんだから、
勝ち残った人だけが参加する大会2日目には
私だけの参加かと思いきや…
男女合わせて40名ほどの部員が
私、ひとりの試合の応援のために
すぐにバスを手配してくれ、
翌日みんなで会場へ向かうことができ、
ベスト8に入って県大会へ出場するかどうかの
その試合を、みんなが、一年から三年までの
卓球部男女全員が、見守ってくれていた。
負けたけど。
当時の私はあまり理解していなかったが、
今ならわかる。
そうやって何人もの人を動かせることが、
どれほど、貴重なことか。
結局、その、部員全員が応援に来てくれた話は
中3の夏休み前の終業式にて
全校生徒600人の前で発表することになった。
自分としては、
どうしてそれが大勢の前で話すに値する内容なのか、
やっぱりよくわかっていなかった。
そんなにめちゃめちゃにプライドもって
頑張って、頑張って、
部長を務めていたわけではなかったから、
なおのこと…。
ただ、この話は、
バレー部顧問の超厳しい担任の先生や、
卓球部顧問の先生たちの間で、ウケが
相当よかったらしい。
なるほど、いま思うと、
そうやって無理なく戦える環境で、
それなりにまじめに戦っていれば、
自分が知らずとも、周りに
なにかしらの影響を与えていて
いつか彼ら彼女らが
自分のことを、推しあげてくれることも
あるのかな。
とも思うのです。
そして自分らしくいれば、
自分の性質を理解した上で
その自分らしい幸せを追い求めれば
私の白髪はもう少し減るんじゃないかと、
これまた実験中です。
社会人になり、
良くも悪くもなんでも食べるようになってしまったし
ストレスでドカ食いする習慣が
身についてしまったけど
最近は自分の調子と向き合って、
サバ缶が自分の胃腸には良い、
ってことを体感してるっっっ。
仕事のある日は
ほぼ毎日レベルで、仕事前に食べてる。
仕事中は
体調万全で、気持ちにも安定感があって、
ご機嫌でいられるように。
ベストな自分で、いられるように。
ああ、きっと私は、10月あたりから
トランジションの最中にいたのです。
というか、なんならこの10年間ずっと、
大きな大きな渦でぐるぐると
常にトランジションの最中にいたの
かもしれません。
これからは
自分の感覚を殺してまで
やりたいかことなのかどうか、
一緒に居続けたいかどうか
これが、大きな判断基準と
なりそうなのです。
あ、余談ですが
元に戻ることを受け入れられたら
許せることが増えた。自分も他人も。
こんなんじゃダメだ
って自分にムチ打つことがなくなったし、
そんなんじゃだめだよ
って心の中で他人に思うことも
違和感を感じることも
なくなった。
むしろ、
みんな今日も頑張ってる。
すげえ。
って思うことのほうが多い。
こんなんでもいい。そんなんでもいい。
むしろ
こんなんやそんなんのほうが、いい。
その完成形としてのこの文章。
そして、
これをここまで読んでくれたあなたであり、
ここまで書いた私でもある。
完成か始まりか。
どうか、始まりであってくれ、、、
ただ、
追いかけたい夢
あるいは
やってみたいこと
そういうのがもし心の中に
1%でもあるのであれば
それは是非追いかけるべきだと私は思う。
だって、夢があるってだけで
じんわりと心は高揚感でいっぱいになり
毎日それだけで、なんか楽しい。
夢がなかった小中学時代と
夢があった15歳以降。
圧倒的に濃かったのは、
間違いなく
夢と共に生きた時間。
夢と共にいきていれば、
自分は1人なんだけどひとりじゃない、
自分のことを要所要所で奮い立たせられる。
納得した上で挑戦できる、
成功すればもちろん嬉しいけど、
失敗も素直に受け止められる。
なにより、夢ややりたいことを
追いかける過程と、追いかけたその先には
思いがけないくらい
素晴らしい出会いや心震える出来事が
待っていて、
自分では想像もできなかった未来に
繋がっていくはずだから、、、
【考察】
本来の自分に戻りつつある今も、
夢と共に生きた時間に
経験したこと、出会った人々には、
感謝してもしきれない。
それらの経験や出会いが自身の内側に
あるのとないのとでは
また、違う。
本来の自分のままでは
到底成し遂げられなかったことが
今の自分には、ありがたいことに、
経験としてたくさん、あるのだ。
本当に、夢のような話だと、思う。
当時は手が届くか届かないか、わからない夢を
ひたすらに追いかけていたつもりだったけど
今の私にとっては、もはやその過程こそが
美しい、夢のような日々だったとすら、思うのだ。
【ここまで、読んでくれたあなたへ】
今日も無理して、頑張っていませんか。
世間の声にとらわれて、
身動きがとれなくなってませんか。
あなたも、夢を追いかけたことがありますか。
いまもまだ、探しているところですか。
もしくは、途中で方向転換して、
いまは違う景色をみていますか。
それとも、まだ夢の代わりとなるものが見つからず、
いまも喪失感でいっぱいですか。
「夢の弊害」それを
幸運にも味わうことができた自分の人生を、
私は、愛しています。
そしてこれからも、愛し続けたい。
どうか、あなたも。
あなた自身の夢や人生と、
そしてあなた自身の気質と、
寄り添って過ごすことができますように。
全て自分のものにしようとして、できなかった。
仕事を辞めたいんじゃなかった、
仕事ができない、そんな自分を辞めたいと思った。
そんな、どうしようもなく辛かった日々も
愛せるようになるときが
いつかきっと、訪れますように。
って、鬱状態だった3年前の私に
本当は、伝えたいのだ。
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