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【自己紹介】どこにも居場所がなかった僕が「場づくり」を仕事にするまで

こんにちは、長田おさだ英史てるちかです。

僕はれんげ舎というNPO法人の代表をしています。「場づくり®」をキーワードに、新しい生き方・働き方・暮らし方・コミュニティを創造する仕事を、25年間やっています。1972年神奈川県茅ヶ崎市生まれ、この分野のパイオニア的な立場です。

帰国子女でもないのに日本の「普通」がことごとく合わず、どこにいても「居場所がない」と感じていた僕が、いまなぜこんな仕事をしているのか。日本の「常識」の外側でどうやってサバイバルしてきたのか。そんなことをお話したいと思います。


幼稚園に行きたくないから始まる学校生活

入園を控えたある日、僕はいつもいっしょにあそんでいた向かいの家のちのちゃんに、ドキドキしながら尋ねました。

「ちのちゃん、ようちえん行くのたのしみ?」

ちのちゃんは、地面を這う虫かなんかをいじりながら、ノールックで元気に答えました。

「うん!」

ガーン!!!

僕がこんなに行きたくないと思っている幼稚園を、ちのちゃんは楽しみにしているというのです。取り残されるような不安を感じて、何も言えませんでした。

この頃は、母からも「もうすぐ幼稚園だね」と笑顔でさも楽しいことが始まるようなニュアンスでよく声をかけられ、その度に「うん…」と力なく答えていました。1976年頃の出来事ですが、いまでも鮮明に覚えています。

学校には行ったが居場所はなかった

小学校にも中学校にも高校にも行きました。でも、いつもおとなしくしていて、学校は僕の居場所ではありませんでした。とはいえ、「行かない」という選択肢は当時エキセントリック過ぎて、消極的登校を続けました。

嫌でも逃げられず、毎日行かなければならない生活の場。
僕にとって、学校は刑務所みたいなところでした。

ひどいいじめを受けたわけでもなく、勉強が大嫌いなわけでもなく、友だちがいないわけでもありませんでした。楽しい思い出だってあります。僕は、比較的問題の少ない子どもでした。

でも、学校という場は、そこに居ることを許され、かつ義務づけられているだけで、僕が僕らしく呼吸出来る居場所ではありませんでした。

学校の外に居場所づくりを始める

いままでの人間関係をリセットしたくて、隣町の私立高校に進学しました。進学のタイミングで両親が離婚し、名字が変わったことも心機一転気分を後押ししてくれました。

初日、教室に入って驚きました。男子クラスだったのです…!

女子のいない教室の雰囲気は、予想外にとても楽しく、僕ははじめて「学校が楽しい!」と感じました。自分が「みんな」の輪の中にいる心地よさを、半信半疑ながらも感じられました。

でも、それは一年間で終わりました。担任の先生が、僕を独断で進学クラスに編入させたからです。いまなら問題になりそうですが、「お前、勉強出来るから進学クラス行け! 決定事項だ」と言われ、2年生の最初の日に編入させられてしまったのです。

このクラスは、僕の学校生活のワーストでした。全国平均でみれば「学力そこそこ」の高校なのに、「僕たち進学クラスだから」的なエリート意識を持っていて、ドン引きしました。

僕は、学校生活を諦め、出席日数を数えて卒業出来るギリギリの日数だけ学校に行き、それ以外の時間をあることに費やしました。

音楽でつながる仲間を探す

高校に入って心機一転、僕が始めたのはギターでした。ジャズギターの先生について習い始めましたが、はじめて楽器を手にしたときから「弾き方を知っている」という不思議な感覚があり、すぐに弾けるようになりました。

楽譜も読めるようになり(それまでほとんど読めませんでした)、1年後には作詞作曲に加えて、楽曲をバンド編成に編曲するまでなりました。

こうなると、どうしても仲間が欲しい。

バンドブーム前夜で楽器を弾ける奴が少なく、ネットもスマホもSNSもありませんでした。校内で仲間を集めるのは無理そうです。

そこで僕は、フリーペーパーを発行して楽器屋や練習スタジオに置いてもらったり、バンド専門誌のメンバー募集欄に投稿したりして、あの手この手で仲間を集めました。熱くストレートなメッセージを書くと、相応の仲間が見つかることを知りました。

金曜の夜から土曜の朝までスタジオに入り練習をし、マクドナルドでだらだらとブランチをとり、土曜日の4限の終わりかけに「遅刻」の印をもらうために、ギターケースを背負い重いエフェクターケースを抱えて教室の扉を開けました。

「バカだな、あいつ」

という自称エリートたちの無言の大合唱が聞こえるようでした。

生活の中心は自分で選べる! という気づき

そんな高校生活で、僕はある日唐突に気付きました。

「いままでの僕は、与えられた場(家庭・学校・塾など)で、そこで自分がうまくやることばかりを考えていた。でも、与えられた場が合わなければ居場所は自分でつくれるし、そこを生活の中心に出来るんだ。
学生だからって別に学校を中心に生きなくてもいいんだ。僕のいまの生活の中心は、もうとっくに学校ではなく、音楽仲間の集まりになっているじゃないか……!!!!!」

音楽活動で年齢や地域を越えたつながりをつくっていました。音楽好きの演奏家のマスターがやっている喫茶店が、僕たちの拠点になりました。いまにして思えば制服の高校生なんてひどく場違いだったのに、年上の大人たちはやさしく仲間に入れてくれました。すごく嬉しかったです。

自分らしく過ごすための居場所は、自分でつくればいい。
何を生活の中心にするのかは、自分で選べばいい。

17歳の僕はそう気付き、人生のギアをひとつ上げました。

ユートピアを求めて「小さな実験大学」へ

高校生の僕が唯一進学したかったのは、「小さな実験大学」というコンセプトの和光大学でした。

高校に「国語表現」という週1コマのわけの分からない授業があって、その担当が「去年まで和光大学という大学の学生だった」という若い男の先生でした。一浪一留年と言っていたので、6歳か7歳上です。先生が授業そっちのけで語る禁断の大学ネタはどれも爆笑で、僕の心を揺さぶりました。

授業で短編小説を書いたときには、僕が提出した原稿用紙の裏側にぎっしりと感想を書き込んでくれて、僕はその先生の「生々しくて率直な語り」が好きになりました。「ダメそうな人だけど、信用出来る」と思ったのです。
それで、もし大学に行くなら和光大学に行こうと決心し、3学部すべてを受験して、なんとか1学部にだけ合格しました。

大学を辞めて団体をつくった25年前

大学では、僕はほとんど授業に出ませんでした。せいぜい週に2〜3コマ顔を出す程度でしたが、当時の和光大学はそれでも何とかなりました。

音楽活動に没頭…する予定が、僕を強く引きつけたのは意外なことに教育学や心理学、そして身体論と言われる特殊な学術分野でした。和光大学には優秀な先生がたくさんいて、こちらが求めさえすれば応えてくれました。

恩師である鳥山敏子さんの本を読み、会いに行ったのもこの頃です。鳥山さんのことは、noteにも書きました。

僕は授業にほとんど出ずに、それでも「自分はこんなに勉強が好きだったのか!」と驚くほど、勉強や研究に没頭しました。
机上の学びだけでなく、大学のある町田市の子ども会活動(教育運動)に参加したり、大学のサークルを運営したり、様々な現場にも関わりました。

学部を卒業して専攻科に進学し、サバティカルの先生から研究室を借りて、大学で寝泊まりしながら研究と実践を続けました。

大学という場と学生という立場は、24時間365日の自由を僕に与えてくれました。そこで、5年半やりたいようにやり、学生としてやりたかったことの全てやりきりました。そして、卒業証書など不要だと感じて専攻科を中退し、団体をつくりました。

ありのままの自分で世界とつながろう

1996年、れんげ舎という団体をつくり、僕はそれを自分の仕事にすると決めました。いまではNPO法人になっていますが、当時はまだNPOの法人格がありませんでした。勝手に団体をつくり、事務所を開きました。

「せっかく大学まで行ったのに、就職もせずわけのわからない団体をつくるなんて…。ちゃんと就職したら?」

こういう言葉をどれだけ言われたか分かりません(笑)。言われなくても、僕自身、人生の裏街道に足を踏み入れてしまったと実感していました。昨今の日本の空気感なら別にたいしたことではないのですが、当時は正直「キワモノ」でした。

団体では、子どもたちが自分らしく過ごせる居場所づくりをしました。学校と家庭以外にも居場所が必要な僕のような子どもたちが、大勢いると思ったのです。活動資金と仕事をつくるため、カフェも始めました(最初は赤字で大変だったけれど、けっこう有名にもなり、15年やって惜しまれて卒業しました)。

そういった実践経験を「場づくり®」をキーワードにコンテンツ化し、新しい生き方・働き方・暮らし方・コミュニティを創造する仕事をしています。自治体と組んだり、企業と組んだりしながら、いまでは全国で年間150本の講演活動をしています。本を書いたり、ラジオやPodcastでも発信しています。

目の前の場が合わなくてそこを居場所だと感じられないとき、自分を変えて、他人を演じて、無理しなくていいと思うのです。なぜなら、居場所はつくれるから。居場所は、サードプレイス的な集まりだけでなく、ファーストプレイス(家・家庭)だってセカンドプレイス(学校・会社・職場)だって、再構築出来るのです。
日本の常識の内側で幸せになれる人は、既存の場・枠組みの中で幸せになれます。でも、常識の外側でなければ自分らしく生きられない人は、それが可能な場をつくることを通してサバイバルするしかありません。そしてそれは、可能なのです。

ありのままの自分で世界とつながろう。
ありのままの僕として、ありのままのあなたと出会いたいです。

最後に

最後まで読んでくださってありがとうございます。
これも何かの縁ですね。

こんな僕ですが、これからも新しい生き方・働き方・暮らし方を可能にする「場づくり」を続けていきます。あなたと一緒に出来ることがあるかもしれません。

「場づくりのチカラ」というメルマガを、8年前から月3回書いています。自分らしくサバイバル、場づくりのこと、大切に書いています。よかったら受け取ってください。また、Voicyでも毎日音声配信をしていますいつかどこかでお話出来たら嬉しいです。


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