小山内美智子

1953年生まれ。脳性マヒ。77年札幌いちご会を始める。自立生活の寄付金を集め、職員を雇い、ケア制度を作る。札幌オリンピック開催時、地下鉄にエレベーターがなく、仲間と共に用事もないのに地下鉄に乗り、腰を痛めた駅員たちも巻き込んだ。これが、私の代表する障がい者運動の始まりだった。

小山内美智子

1953年生まれ。脳性マヒ。77年札幌いちご会を始める。自立生活の寄付金を集め、職員を雇い、ケア制度を作る。札幌オリンピック開催時、地下鉄にエレベーターがなく、仲間と共に用事もないのに地下鉄に乗り、腰を痛めた駅員たちも巻き込んだ。これが、私の代表する障がい者運動の始まりだった。

    マガジン

    • いちご通信

      札幌いちご会が1977年から発行している機関紙「いちご通信」より選りすぐりの記事をご紹介します。

    • 車椅子からウィンク〜脳性マヒのママがつづる愛と性

      「車椅子からウィンク〜脳性マヒのママがつづる愛と性〜」 1988年 文藝春秋

    • 出演・イベント情報

      小山内美智子のイベント出演情報などを掲載します。

    • 今までの仕事

      小山内美智子のプロフィールやこれまでの仕事など

    • 過去のブログ

      2020年の2月まで更新してきたブログの内容をこちらにアップすることもあります。 http://sapporo-ichigokai.jp/osanai-michiko.jp/

    最近の記事

    福祉の中での戦争

    男性を口説くことが趣味  札幌は雪が降り、私の手は凍っています。温かな大きな手の男性が握ってくださると人生バラ色になると思います。若き日は退屈な時や心が折れている時には、素敵な男性に声を掛け恋をしていました。それが私の趣味と言っても間違いではありません。車椅子に乗って、言語障害があり、顔が歪んだりします。そういう私でも、ちゃんと受け入れて下さる男性がいたから幸せ者です。みなさんの趣味は何ですか?しかしコロナの中、事務者に男性がちっとも来ません・・・楽しくないですね。色々な人

      • プラスチック問題

        秘密 昔のストローは口に力が入りすぐ潰れて使えなくなった。 母は、突然ビニールの硬いストローを持ってきてくれた。 「このストローはいいよ!いくら噛んでも潰れないから!」 と言って私の洋服に穴を開けストローのポケットを作ってくれた。 しかしそのストロー入れは、身体が動くとストローが飛び出てきて格好が悪かった。 友達にストローを取ってもらいポケットに入れて歩いた。 「母さん!あのストローはどこで売っていたの? 他の友達のお母さんたちが「どこでみつけた?」と私に聞くんだよ。 教え

        • 伝える

          スミマセン  コロナなどで、テレビ局などが苦労している。どこでも簡単に取材に行けないからだ。居酒屋やレストランの番組が随分多いような気がする。テレビ局も生き残りに大変なのかもしれない。もっと歌番組をやって頂けないものかと考えています。料理番組が多いといいながら私のnoteも食べ物のことを多く書いていることに気付きました。スミマセン・・・。 高級な合いびき肉  私の子どもの時は、農業を行っており牛や馬を飼っていました。たまに 父が牛を捌いていたそうです。母はそれをみて離婚

          • みちよ・みちこ、だぁーれ⁉

            アナウンサーの宇都宮さんと私 懐かしい風景が目に浮かぶ  私は二つの名前を持っている。どっちも戸籍に使っているから本当です。母は和寒町という小さな農家で生まれ(みちよさん)という美しい女優がいてみちよと名付けた。子供の時から知っている人は「みちよちゃん」と今でも呼ばれる。懐かしい農家の風景を思い出す。両親が牛の乳しぼりをおこなっていた風景が強く印象に残っている。 みちこになって育っていた  私に教育とリハビリを受けさせるために畑をすべて売って札幌にやって来た。施設に入

          マガジン

          マガジンをすべて見る すべて見る
          • いちご通信
            小山内美智子
          • 車椅子からウィンク〜脳性マヒのママがつづる愛と性
            小山内美智子
          • 出演・イベント情報
            小山内美智子
          • 今までの仕事
            小山内美智子
          • 過去のブログ
            小山内美智子

          記事

          記事をすべて見る すべて見る

            髪を切るより顔を傷だらけにした床屋

             赤ん坊の素肌のように1960年ころは、女の子も床屋に行き髪を切って顔を剃っていた。顔を剃るカミソリを理容師が革のような物で磨く、あの光景に私は怯えていた。顔や体が勝手に動いてしまわないように、足で体を支えていた。顔を剃ったことのない女性がいると時々聞く。羨ましいとも思う。赤ん坊の素肌のようで顔は剃らない方が良いのかもしれない。  おでこから血がタラリ…目に入った9歳で私は施設に入り、小学校1年生になった。3年も遅れて小学校1年生になった。それがコンプレックスであった。1か

            休暇の日にはピザを作る

            ケアの上手いヘルパーさんは嬉しい 土曜日、何をしようかと前の日から考えていた。冷蔵庫にピザの生地があることを思い出し、今日はピザで楽しもうと思った。新しいヘルパーさんは31歳で、洗濯・掃除・着替え・お風呂・調理・・何をやってもらっても上手い!!立ち上がる時も、安定感があり安心だ。最近は色んな心配ごとがあったが、なによりケアの上手なヘルパーさんが来てくれたことが嬉しい。 太陽のようなピザ 冷蔵庫の中をかき回し、ピザに出来るものを探した。計画性が無かったのでピザが出来るのか不安

            ファーストピアス

            イヤリングは落ちてしまう  私が25歳になった時、実家を出てアパート生活を始めた。親と一緒に居たらできないことを全てやってみる!と張り切っていた。母はたくさんのイヤリングを買ってくれた。しかしイヤリングは、人にぶつかったり洋服にひっかかったりしてすぐに失くしてしまった。母は「あーあ。またイヤリングおとしたの・・・あれ高かったんだよ~どっか探しておいでよ」と悲しい顔をした。  今度は絶対落とさないピアスを付けようとたくらんだ。電動車いすに乗り、一人でアパートの近くにある皮膚

            魔法のドレッシング

            ハロウィンの洋服が着たい 私は心の病気になり3・4週間ほとんど家から事務所と病院だけに行っていました。自分が食べるものをスーパーに行かないでヘルパーさんに頼むのは難しいことを知りました。  最近はちょっと出かけたいという気分になり、先日イオンに行ってきました。久しぶりに自分が着る洋服を4着も買いました。今年は洋服を買ってなかったです。素敵なものばかりで心が踊りました。イオンはハロウィンで飾られマネキンがハロウィンの洋服を着ているのを見て、私も買って着てみようかな・・・と一瞬

            ラストコンサート

            母のいびきがうるさかった今年は小椋佳さんがラストコンサートをおこなった。ラストと聞き私の心は冷たく動いた。小椋佳のファンであり、若い頃は母と一緒にコンサートに行った。母は、歌が始まると大きないびきをかいて寝てしまう、母とではなく素敵なボーイフレンドと1回でもいいから行きたいなぁと思った。母の足を踏んずけて起きなさいと言っても、またすぐに寝てしまう。 シクラメンのかほりがヒットしてしまった小椋佳さんは確か銀行マンをしながらシンガーソングライターをおこなっていた。「シクラメンの

            秋の香りがします。

            話に花が咲く うちの近所には大きな畑があります。トウモロコシがたくさんなっています。母がいた時は山のように頂いてきました。母も農業を行っていたので、話に花が咲くのだと思います。トウモロコシの間からは、コスモスが咲いており、美しいです。今、私は心の病気なので休んでいました。強い薬を飲み、少しずつ良くなって来ています。 万引きも出来ません。 私の手が使えたなら、トウモロコシを一本拝借したいものです。手が使えないという事は、万引きも出来ません。ヘルパーさんに「ちょっと一本取って」

            馬刺し

            買い物は闘い 7月3日ヘルパーさんと買い物に行った。 2週間分の食材を買うことは闘いである。 10円でも安い物を見つけるために、車いすからの視線で見つけることは至難の業だ。 キラット目が輝いた 魚コーナーで、かわった肉のようなものを見つけた。 よく見ると、お刺身用馬刺しと書いてあった。 ちょっと値段は張ったが、子どもの頃のことを思い出し 父は馬の肉の塊をひもで縛り、自家製の醤油で何時間も煮込み 薄く切って食べさせてくれた。 そのことを思い出し家に帰って醤油で煮込んでみよ

            よく生きてこられました

            私が二十歳代の頃は脳性マヒ者は35歳までしか生きられない、と思っていた。昨日は私の誕生日だった。もう70歳に近づこうとしている歳になった。両親とボランティアやヘルパーさんたちによりケアを受けながら生きてこられたことは感謝でいっぱいだ。私は、60前後までしか生きられないと思っていた。生きていくためには誰かの手が必要だ。両親と北海道の真ん中にある和寒という村にいたとき、ランプの下でリハビリを行ってくれたことを思い出す。懐かしい思い出です。両親の強い愛を感じます。 お腹がいっぱい

            日本で初めて海水浴をした大磯という町

            飛行機に乗ってきてくれた親友写真で一緒に映っている人は、岩崎まさみさん という。彼女との思い出はこのノートには一気には書ききれないほどある。今回は、お互いにコロナの予防接種を打ったので会いに来て下さることになった。私は、寂しくなると岩崎先生に電話をかけ「会いたいですね。先生の顔が見たいです。お話たくさんしたいです。」と何度も言っていた。岩崎先生は根負けしてわざわざ飛行機に乗り私に会いに神奈川県の大磯から来て下さった。大磯と言う町は、初めて聞くまでなかなか覚えられないので、ノー

            3年生の男の子に、ヘルパーになってね

            2007年、私は悪性リンパ癌にかかり命がもう無いと言われた。しかし、まだ生きています。その時、秘書になって下さった方がすごい優しさで看病をして下さった。病院にはヘルパーさんが行けなかったので、みんなボランティアで来て下さった。 最近、秘書だった人が子どもを連れて来て下さった。波音(なおと)くんと言う。私はこの名前がすごく気に入っている。彼に合うと波の音が聞こえてくるようだ。悪性リンパ癌は7か月間入院して、私は完璧に治った。いつもみんなが楽しい話題を持ってきて下さったから治っ

            マスク、されどマスク

            一瞬の喜び エイプリルフールの日、3回目のコロナワクチンを打った。何も副反応は出なかった。これで、東京に行けると一瞬心が燃えたが、接種をしてもコロナに罹る人もおり、(誰か一緒に東京に行きましょう)と声を掛けられない。まただめかあ?と私の心は落ち込んだ。東京でなくてもどこでもいいから行きたいという気持ちがある。 オーダーメイドのマスクを研究する機関をつくるべき マスクの事では、ずっと悩んでいる。ヘルパーさん達に作って頂いたマスクは通気性が良いのでだめと言われ、一般のマスクを買

            心に刻まれたおじいさんの姿

            何があっても生き抜くnoteは久しぶりに書きます。昼間に来ていたヘルパーさんが辞めてしまったので、そこから私の生活はガラッと変わっています。でも、朝・夜・当直のヘルパーさんはちゃんと来て下さっているので、ありがたいです。ヘルパーさんがコロナに罹っても、みんなで助け合って私のケアに来てくださって生き抜いています。何があっても生き抜くことが大事だと思っています。時には辛いことがあり、もういいかなあとも思いますが、でもやはり、明るい顔をして来て下さるヘルパーさんの顔を見ると元気で生