小山内あおい

どんどん忘れてしまうから・こどものころの気持ち。おとなになれない気持ち。

小山内あおい

どんどん忘れてしまうから・こどものころの気持ち。おとなになれない気持ち。

最近の記事

Kやんのこと①

忘れられない友人がいる。名前をKやんとしておく。 初めて会ったのは大学時代。映画を作る社会人サークルに参加したいと現れた。まだ17才だった。 偶然にも大学の友人が参加していた壁画を描くプロジェクトもやっているということで、年齢差も感じずにすぐ仲良くなった。 それから間も無く、泊めて欲しいと訪ねてきた。当時、別な友だちとルームシェアしていたワタシは、まあ1泊ぐらいならと家に招いた。話を聞くと、母親と二人暮らしなのだが、あまり家には居たくないのだと言う。そのうち同居人ともすっかり

    • 彼女は今どこにいるんだろう

      前回の投稿に書いた学校に行かなくなったきっかけの女子と、成績トップを争っていたのは、友人のAちゃんだった。 彼女とは、高校3年頃に共通の友人の紹介で話すようになった。 父親が心臓にペースメーカーを入れており、家族で収入を補うために、部活にも入らず、アルバイトをしているということだった。高校卒業後は、看護学校に入って1日も早く収入を得られる仕事に就きたいと。 「発展途上国の援助にも興味ある?」とパンフレットをもらったこともある。勧誘ということでもなく、世界の貧困についても真剣

      • 学校へ行かなくなった話

        中学までは少し郊外にある地域で、保育園からの幼馴染が多く、友達もほとんど近所の子ばかりで、名前もあだ名か呼び捨てが殆どだった。 ところが高校に上がると、お互いを「さん」とか「くん」とか呼ぶものらしく、それだけで緊張して話を上手くできなくなった。それでも1年の頃は、部活の友人なども同じクラスにいて楽しくやれていたと思う。 ところが高2のクラスは女子3:男子1という割合で、圧倒的に女子が多く、しかも今でいうスクールカースト上位の明るくてスポーツもできてルックスも良い女子たちが、

        • ぼくの好きな先生

          こどもの頃、親や親戚以外で出会う中で、影響を受ける大人と言えばやっぱり学校の先生になるのだろう。そう思う先生が確実に3人いる。 ひとりは小学校一年生の担任さがえれいこ先生。 うちの小学校は新設校で、最初は校歌がなく「こどものうた」という代わりの曲を朝礼などで歌っていた。その歌詞を書いたのが、さがえ先生だった。 入学の日、はじめての授業を今でも覚えている。黒板に「さがえれいこ」ときれいな字で書いたあと「サザエさんと似ているけれど、さがえです」と笑顔で話してくれた。たぶん自分

          オールナイトニッポン

          年明け2021年初投稿です。といっても、かなり間が空いたので久しぶりどころか、まあ初めましてのようなものですね。 去年はたぶん世界中の人が予定していたことが次々と変わってしまい、人生が狂ってしまった人や、今もその変化に巻き込まれて絶望している人も、状況を受け入れ我慢の生活を続けている人もいるかもしれない。 私自身、去年の今頃は絶望の縁にいて人生を変えることを考えていた。 なのに、自分が変わる前に世界が変わってしまい、足元を見つめたら片付けなくてはいけないことが山積していて

          オールナイトニッポン

          学童クラブの話②

          前回も書いたけれど、通っていた学童クラブは、古い木造の2階建てだった。寒い地域なので、冬はかなり冷えた。でも夏は風が通って涼しかったのか暑かった記憶があまりない。 季節ごとに色んな行事があって、一番好きだったのは、夏のお泊まり合宿。毎年お祭りの日で、どの学年も同じ金額のおこづかいを持って、みんなで行く。たくさんの屋台の中で特に女子に人気だったのは「くじびき」で、当たるとスターの大きなブロマイドがもらえた。あとは金魚すくいや、水風船のヨーヨー。型抜きのパズルなんかもあった気が

          学童クラブの話②

          学童クラブの話①

          通っていた学童クラブは、理容美容専門学校の旧校舎で木造だった。2階建で、その1階だけ使っていて2階へ行く扉は施錠されていたと記憶する。 玄関で靴を脱いで内履きに履き替え、右に曲がると体育館のような広い部屋があり、その右横にふたつの部屋。手前の部屋は図書館というか物置、奥の広い部屋が基本的には遊び場で、そこは内履きを脱いで上がる。 遊び場の右側はだいたい男子がたまっていて、コロコロコミックやジャンプなんかを読んでいた。確かテレビもあって、夏休みには「心霊現象」みたいな怖い番

          学童クラブの話①

          初恋だったかもしれない

          今はどうしているんだろう?もし会ったら謝りたい人がいる。 小6の頃、スポーツもできて、成績もよく、目立つ男の子Nくんは女子に 人気だった。色白でちょっと小太りで、男子の友人も多かった。 なんでも出来る子で図工も得意だった。 ワタシも図工は自信があったけど、どこか集中力がないのか仕上げが雑で、「よくできました」みたいな感じだった。 その時は、木製のラケットが課題だった。ラケットに思い思いに絵を描いたり着色して、オリジナルのものを作った。 自分でも上手く出来た気がしていたけど

          初恋だったかもしれない

          地下鉄の中で、忘れられないこと。

          数年前の出来事なのに、未だに忘れらないことがある。 目の前に、ランドセルをしょった男の子がいた。 よくみると肩のベルトがよれていて、服もちょっと汚れている。 次第にポロポロ涙を流しはじめ、しゃくりあげる速度があがっていく。 我慢したいのにどうしても涙がこぼれてしまう、という感じだった。 ついつい目に入りながら、予定通り次の駅で降りようとした瞬間、スーツを着たサラリーマンが、男の子に声をかけた「どうした?何があった?」 そこで我慢がほどげたのか、わーっと泣き出した。 一緒に

          地下鉄の中で、忘れられないこと。

          参観日の記憶。

          今では珍しくないけれど、両親が共働き、しかも住んでいる場所からちょっと遠いところが職場だったので、中学まで祖父母の家に帰っていた。 夕ご飯を食べてテレビを観ながらウトウト眠くなる頃、両親が車で迎えに来て、寝ている間に住処に着いているなんて事がよくあった。 保育園は祖父母の家から近い場所だったので、幼い頃は祖母が毎日迎えに来ていたけれど、年長さんになる頃には自分で歩いて帰っていた。 小学校は祖父母の家からちょっと遠くて、しかも学区外だったので、同級生たちといつも違う方向に帰る

          参観日の記憶。

          小学3年生の事件

          思春期の始まりというか、自意識の目覚めなのか、10才ぐらいから記憶が濃くなる。それはまるで映画のように、映像で残っている。 それはある日のことだった。 テレビ局の人たちが学校に来ていると聞いて、いつもは行かない上の学年の階に友達と上がっていこうとしていた。 その時、階段を降りてきたのは、泣いている兄だった。 友達が一緒だったからなのか、その時に声をかけた記憶はない。 泣いている理由も聞いた覚えがない。ただなんとなく、聞いてはいけない気がしたからだと思う。 テレビが取材に

          小学3年生の事件

          忘れないうちに書いておきたいこと。

          2020年はきっと忘れられない年になるだろう。 知っている人たちが複数亡くなっていったり、そこに在りつづけると思っていたものが失くなったり。そのうち自分も溶けて消えてしまいそう。 そんな訳で特に幼い頃の思い出を書きとどめておきたくて。 思いついた時に、メモ代わりに残していこうと思う。 小さい頃の記憶で一番古いものは、何? ワタシは保育園でのトランポリン。中央には布があるけれど、空いている部分に落ちたらどうなるだろう?・・今となっては詳しく覚えていなけれど、外側に向かって飛

          忘れないうちに書いておきたいこと。