しのはらおさむ

小説らしきものを書いています。まつ毛がよく目に入り、乾燥肌です。朝5時に起床し、夜10…

しのはらおさむ

小説らしきものを書いています。まつ毛がよく目に入り、乾燥肌です。朝5時に起床し、夜10時に就寝|ちよだ文学優秀賞|大阪文学学校賞|群像新人賞五次|新潮新人賞二次|早稲田文学新人賞二次|文學界新人賞一次|あと30年は生きたいです。

マガジン

  • 夢と魔法とみどりのおっさん

    早稲田文学新人賞二次通過作品です。

  • グリーン・カーブ

    文學界新人賞一次通過。島を流すファンタジーです。

  • 昭和97年のドブネズミ

    THE BLUE HEARTSの『リンダリンダ』をモチーフにした物語です。原稿用紙約120枚です。

  • 髪をかきあげて竜巻

    2022年作。四〇〇詰原稿用紙240枚ぐらいです。

  • 空を飛ぶための生活法

    三田文学同人誌評に取り上げられました。

最近の記事

フルード

 音が見えてくる──くっちゃくちゃ、くっちゃくちゃ、くっちゃくちゃ。重なったり離れたりしている上顎と下顎。テーブルの上に置かれた烏賊の刺身を咀嚼しているのは、夫の薫だ。向かいに座って満足そうに微笑みかけてくる。右手に箸、左手に茶碗、そして休日用のカーディガンにネクタイを締めている。頬を持ち上げて、奥歯で烏賊の身をすり潰している。粘ついた唾液の糸を引き、烏賊の形が失われるまで分解しようとしている。だんだん薫の笑顔がくっちゃくちゃという音そのものに変化してくる。空気が弾力を持ち、

    • あなたも魚だったから

       水をこぼしたことがないんです──眉のない男はそう微笑んでみせた。だが微笑ましいことなんて何もないことに気づいたのか、すぐに視線を下げて、グラスに結露した水滴をおしぼりで拭いた。え、なになに、どういうこと、騒がしい声をかきわけて、横に座る眼鏡の女が男を覗きこむ。たとえばこういう飲み会とかでコップを倒したことがないってこと? ちょっと待って、この世に生を受けてから一度もないっていう意味?  顎をとなりに向けて、眉のない男は遠慮がちに頷いた。お店でもありませんし、家でもありません

      • ケモノちゃんとウドン

         満たされているようで足りておらず、包みこむようで跳ねのけ、最後の曲線の切れ端が秋雲みたいにかすれている。ウドンが書いていたのは、そんな今にも動き出しそうな「あ」のふくらみだった。ウドンが送信してきた画像に自筆で書かれた句が写されていた。「濡れた床髪かきあげて竜巻に」。最近始めましたとテキストが添えられている。SNSなんかの短文メディアと俳句や短歌がうまくマッチングしていることはわたしも知っていた。二十六歳のウドンはきっとトレンドを把握しておきたい青年なんだろう。  ウドンの

        • 虫けら

           なんでやねん──若かった頃ならそう突っ掛かっただろう。まだ蕎麦を一口もすすっておらず、食事がテーブルに出されてもいない状態で、どうかお引き取り願えないでしょうかと店員に追い出されそうになる不条理。きっと二十代の私なら長かった髪をかき上げ、パンプスの音を響かせて店員に詰め寄り、ネイティブの大阪弁で噛みついたに違いない。  大晦日に蕎麦屋を訪れたのは生まれて初めてだった。昼時の繁忙がおさまり、夜中の初詣へ赴く人たちが腹ごしらえをしにくる七時頃までの隙間であれば空いているはずだと

        マガジン

        • 夢と魔法とみどりのおっさん
          8本
        • グリーン・カーブ
          2本
        • 昭和97年のドブネズミ
          4本
        • 髪をかきあげて竜巻
          5本
        • 空を飛ぶための生活法
          2本
        • 夜行バス
          9本

        記事

          鍵に意味などないけれど

          「食べ盛りの56歳。不安な糖を洗い落としてくれるのは古事のお茶」  四人用ブースのテーブルに広げた新聞広告を見下ろして、向かいに座る女はゆるやかな口調でそう読み上げた。薄化粧に黒々とした髪を首元で結ぶ丸い頭は、禁欲的な生活を守る修道女を思わせた。東京都庁薬務課に従事する者は厚労省からの出向だと聞いたことがある。難関大学を卒業し、上級公務員として人並以上の給料と地位を手にしているはずだろう。五年前に立ち上げた健康食品の通販会社を経営する牧原に対して、女は疑り深そうな表情を向けた

          鍵に意味などないけれど

          リテル

           目を醒ましてしばらくの間、真湖は古い小説の冒頭を思い起こすことになった。自分の体が虫に変身していることにグレゴール・ザムザが気づけたのは、窓から朝の光が射しこんでいたからだ。頭を起こし、自分の腹が筋の入った褐色に変わっていたこと、そして腹の側面で細い足が何本も蠢いていたことを発見できたのは、灰色の雲に遮られた陽光が──たとえ弱々しくとも──部屋の中で反射していたおかげだろう。  自分には何の光も用意されていないと真湖は思った。気だるい朝の日射しなんてどこにも見当たらない。い

          ブラッキング

           ブラッキングの申込フォルダへと振り分けられた一通のメールに池田亜芽が気づいたとき、デスクトップの時刻表示はすでに午前0時を過ぎていた。シャワーを浴びた髪を乾かすことなく、旧型の扇風機がかたかたと送り出す微風で就寝前の副交感神経を働かせ、亜芽は動画サイトを閲覧していた。ある風俗嬢の日常を映したチャンネルだ。自宅でくつろぐ風俗嬢は目元を隠したカメラアングルで、簡単に作った食事を口にしながら、その日の客について十分ほど話を繰り広げる。一人目の三十代の体育会系サラリーマンは、性感帯

          ユニコーンたちの団欒(後篇)

           牧人がビニール傘を差さなくなった代わりに、まわりの人々の口元には再びマスクが着けられるようになった。  それまで政治家の賄賂疑惑や長期に渡る海外の火山噴火について放送していたテレビ局は、数年ぶりに増加していくウイルスの感染者数の報道へと一気に切り替えた。時の経過によりウイルスの脅威はすっかり沈静化したと思われていたが、おそらく島嶼を飛び交う鳥類を中心とした野生動物の体内で増殖と変異を着々と繰り返してきたのだろうと専門家は解説した。過去と比べて毒性をさらに強めており、十四世紀

          ユニコーンたちの団欒(後篇)

          ユニコーンたちの団欒(前篇)

           ビニール傘を通して見上げる空は滝乃瀬牧人だけのものだった。八角形に切り取られた空がいつもついてまわる。交差点で朝の人波に紛れるとき、古びた校舎を歩道橋の上から眺めるとき、アルバイトを終えて誰もいない市営野球場を横切るとき、彼は思い出したように顔を上げて、自分だけの空を確かめる。  ピッチャーマウンドに上がり、白いプレートをスニーカーの先で踏んでいるときだった。突然ビニール地を強く叩き始めた雨粒の音で、牧人は何かを思い出しそうになった。暗がりの中で細やかなものが落ち続ける音た

          ユニコーンたちの団欒(前篇)

          赤い目

           姫りんごの樹を見上げる白猫──自らの体より大きい実がぽとりと落ちてくる予兆を感じているのか。それとも幹を駆け上がって枝を伝い、自らの爪で実を落とそうと画策しているのか。おとなしく前足を揃え、頭から尾の先までの柔らかな曲線は、訪れることのない一秒後の躍動を永遠に待ち続けている。  テーブルの上で頬杖を突きながら、彼は出窓からの外光に照らされる盆栽を眺めていた。鉢の上に飾った白猫ではしっくりせず、やはり違うものに変えてみようと気が変わり、フィギュアをまとめている小物入れの蓋を開

          昭和97年のドブネズミ  第四話(最終話)

          4 [今、小田原駅に着きました]  うどんからのメッセージがドブネズミのスマホに届いたとき、いくつかの星が夜空に散らばっていた。空と海の境目は夜の闇によって失われている。国道沿いの歩道で立つドブネズミを、車のヘッドライトが照らし出した。ドブネズミの姿を目にしたドライバーがどんな表情を浮かべているのか、彼はもう確かめようとはしなかった。  ドブネズミはスマホの画面を見つめていた。うどんが小田原に来たことは彼を少し戸惑わせた。金とカードを使えなくなったというメッセージを朝に送っ

          昭和97年のドブネズミ  第四話(最終話)

          昭和97年のドブネズミ  第三話

          3  その日の午後、ドブネズミはJR線で新宿駅まで出た。そして小田急電鉄の窓口で小田原行きの指定席券を買い、いちばん早く出発する特急電車に乗りこんだ。途中の町田駅に到着すると、彼は荷物のリュックサックを肩にかけ、足早に電車の外へ出た。電車が出発しても、彼はホームの雑踏に身を隠すように無目的にあたりを歩き回った。階段を下りて反対側のホームに上がり、しばらく人の後ろに隠れたり、電車を待つ人の列に並ぶふりをした。再び元のホームに戻ると、柱の陰に隠れるように立ち、周囲を注意深く見回

          昭和97年のドブネズミ  第三話

          昭和97年のドブネズミ  第二話

          2  買い物の帰り道、ドブネズミは自転車のペダルを漕ぎながら、また三十五年前のことを思い出していた。下水道で暮らしていた昭和最後の日々、そして樫本と出会い下水道を出てから過ごしてきた日々について。昭和は六十四年で終わりを告げ、平成は三十一年まで続き、令和が始まって四年が経った。世間はおれのことなんてきれいさっぱり忘れ去っただろう。曲がり角で自転車のハンドルを切ると、スーパーで買った缶ビールと惣菜がかごの中で揺れた。  クレームの一件がきっかけで会社を辞めた後、ドブネズミは無

          昭和97年のドブネズミ  第二話

          昭和97年のドブネズミ  第一話

          【あらすじ】 かつて昭和の終わり、ロックバンド「THE BLUE HEARTS」の登場によって脚光を浴びた主人公・ドブネズミ。令和に移った現代、しがないサラリーマンとして過ごしていたが、あるガールズバンドを売り出す企画として、ドッキリ番組に仕掛けられる。カメラから逃げ回るドブネズミだが、それはかつて自分をデビューさせた男の仕掛けだと気づく。ドブネズミという虚構を引き剥がそうとするに企画に翻弄されながら、ガールズバンドのボーカル・うどんとの交流を深めていく。 1  午前中の

          昭和97年のドブネズミ  第一話

          「グリーン・カーブ」  第二話(最終話)

          ・・・・・  夏が終わろうとしていた。空には雲が多く、生温かい風が吹きつけていた。どうやら台風が近づいているらしいぞと工場の守衛は言っていた。  午前中、段ボール箱をパレットに積み上げてはフォークリフトに乗りこみ、工場のいちばん端にある出荷口まで運んでいた。出荷口には荷台の扉を開けたトラックが何台も待ちかまえていた。フォークリフトが到着するたび、工場の出荷担当者たちは私の運んできたパレットからトラックの荷台へと段ボール箱を手際よく積みこんでいった。荷台が満載になると、トラッ

          「グリーン・カーブ」  第二話(最終話)

          「髪をかきあげて竜巻」 第五話(最終話)

           僕は相変わらず広告を作り続け、多くの注文を安価で獲得できるネット媒体を探し続けていた。ノートパソコンの画面を見ながらクリックをし続け、ほとんど誰とも話さずに夕暮れを迎える日々が続いていた。まるで風がぴたりと止んだみたいに、僕のまわりから誰もいなくなった。栞さんの消息については何の手がかりも届かなかった。スマホにもメールにもコールセンターにも、栞さんの痕跡を示すものは何一つ届かなかった。ときどき顧客から、滝乃瀬さんのご様子はいかがですか? との問い合わせがあったが、体調が芳し

          「髪をかきあげて竜巻」 第五話(最終話)