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赤い目

 姫りんごの樹を見上げる白猫──自らの体より大きい実がぽとりと落ちてくる予兆を感じているのか。それとも幹を駆け上がって枝を伝い、自らの爪で実を落とそうと画策しているのか。おとなしく前足を揃え、頭から尾の先までの柔らかな曲線は、訪れることのない一秒後の躍動を永遠に待ち続けている。
 テーブルの上で頬杖を突きながら、彼は出窓からの外光に照らされる盆栽を眺めていた。鉢の上に飾った白猫ではしっくりせず、やはり違うものに変えてみようと気が変わり、フィギュアをまとめている小物入れの蓋を開ける。じゃらじゃらとかき分けて、白猫のかわりに虎を幹元に置いてみた。再び樹から離れて、頬杖を突く。虎は苔の上に悠然と肢体を横たえる。頭上の赤い実には目もくれず、灰色の幹を睨みつけている。よく見ると、虎の目も赤かった。姫りんごの熟した実が映りこんでいるようにも思えたが、まわりに反射させるものは何もなく、虎の目そのものが赤だった。ふと、ずいぶん前に誰かから向けられた目のようだと息をゆっくり吸った。
 この時期の姫りんごはなるべく風や霜に当てない方がいいよと教えてくれたのは広瀬さんだった。広瀬さんの盆栽園は自宅から十分ほど歩いた、しんとした住宅地で営まれている。買い物の帰りにいつもと違う道を通っていると、低い塀の向こうに数々の鉢が遠くまで並べられている庭らしき光景が目に入った。胸ほどの高さの棚が整然と配置され、その上で青々と茂っている樹、紅葉している樹、丸々と結実している樹などが青空の下で風と光を受けていた。一人で持ち上げるのに苦労しそうなものから、てのひらにおさまるものまで樹高も様々だった。彼は植物に明るいわけではなく、初めて目にする盆栽たちの列にしばらく足を止めていると、どうぞと太い声を掛けてきたのが広瀬さんだった。広瀬さんは盆栽置き場の脇にある作業所のような建物の前で丸椅子に座り、こちらに視線を向けていた。黒いマスクを着け、白髪を短く刈りこみ、日の下で年中仕事をしているような日焼けをした腕を作業着の袖から見せていた。会社にかよっていた頃、どうぞ一杯と酒場の店員に呼びこまれても、彼は踵を返したことなどなかった。だがそのとき手に提げていたのは、パックに詰められた揚げ物と乾電池が揺れる薄っぺらなエコバッグだった。自宅で待っている者もいない。なんとなく風に吹かれるような具合で、開けっ放しにされた門扉から広瀬さんの座っている方へ吸いこまれていった。
 少しでも見てってくださいと広瀬さんは作業台の前で手を動かしながら声を上げた。これらは売り物ですかと棚上の鉢を指しながら訊ねると、半分は売り物、半分は預かり物だねと広瀬さんは答えた。このへんは古い土地だから、昔から住んでる年配の人が多くてね。盆栽を趣味にしている人たちが結構いて、そんなお客さんたちの樹をここで管理してるんですよ。なにしろ完成樹まで育て上げるには手間と時間が掛かるからね。広瀬さんは作業台をときどき回転させながら、その上に置かれた松の樹に長い針金を巻きつけていた。何をしてるんですかと腰を落として訊ねると、見てのとおり赤松の針金かけ、と広瀬さんは短く笑った。赤松は秋に矯正すると形がつきやすいんです。ちなみにこれは文人木といった樹形でね、枝を落として、こんなふうに幹がひょろりと伸びる洒脱な雰囲気を楽しむもんですわ。広瀬さんは作業台の回転を止め、正面から樹を見定めた。皿型の鉢から煙のように空中へうねりながら細い赤松が植わっている。どちらかというと幹に巻きついた無機質な針金から抜け出したがっているようにも見えたが、彼は何も言わずに腰を上げた。
 特に見たいというわけではなかったが、盆栽が並べられた棚の間を歩いてみると、数多くの鉢植えに四方を囲まれるというのは妙な雰囲気があった。どれが何の樹種なのかはもちろんわからなかったが、岩みたいな幹肌をして堂々と鎮座している樹があれば、冬の林のように落葉した樹もあったり、風に流されているような樹形があれば、素焼き鉢に植わった子どもの樹もあった。それぞれの鉢に植わった樹たちは各々おのおのの時間に包まれているようでもあった。すべての樹がこちらに向けられているせいか、なんとなく居心地が悪くなり、彼の足取りは次第に速くなった。そろそろ出ようという気になり、広瀬さんに声を掛けた。広瀬さんは作業を終えて、煙草をくわえながら箒で地面を掃いていた。作業台の上では先ほどの赤松が黙している。
 ご自宅はこのあたりですかと広瀬さんが訊ねた。ええ、歩ける距離です。でもこの道を通ったことはなかったですね、どうもありがとうございましたと彼は頭を下げた。庭いじりはするかいと広線さんは続けた。いえ、マンションですからと答えると、じゃあちょっと待ってと箒を壁に立てかけた。そして近くの棚に近寄ってごそごそと物色し、見定めた小ぶりな一鉢を掴み取ると、作業所の中に入っていった。戻ってきた広瀬さんの手にはマチの広い紙袋が提げられていた。これは姫りんご、と広瀬さんは紙袋を差し出した。昼間は日当たりが良く風の当たらない場所に置いて、夜は部屋にしまっておけばいいから。この時期の水やりは三日に一回。年末までには実を摘んだ方がいいよ、もし来年も結実させるならね、そう広瀬さんは一人で何度か頷いた。でも通り掛かっただけですからと恐縮していると、最近は若い人が少なくなったし、今度はゆっくりお茶でも飲みにきてよと笑いながら紙袋を握らせた。なかを覗くと、幼児の頭ほどの樹が実を二つ垂らしていた。

 姫りんごの苔の上に白猫のフィギュアを飾ったのは一人娘の真湖まこだった。半年ほど前から、休みの日になると真湖はたまに彼を訪れるようになった。都心での仕事が毎晩遅くまで続き、許されるかぎりベッドの中で眠っていたいのだろうが、それでも一時間ほど電車を乗り継いで、夕食を一緒に食べた後に泊まっていくことがあった。その夜、風呂に入ってパジャマに着替えた真湖は窓際に姫りんごを見つけると、嬉しそうに目を大きくして樹を見回した。そしていくつか質問をしてきて、思いついたように押し入れから昔の物を詰めこんだダンボール箱を引っぱり出し、薄い長方形の小物入れを取り出すと、じゃらじゃらと選り分けた中から白猫をつまみ出した。ほら見て、可愛くなったよ、と白猫が姫りんごの実を見上げる景色に、真湖は満足そうな笑みを浮かべた。
 それからお茶は飲みに行ったの? と真湖が訊ねた。行ったよ、とソファの上で日本茶を注いだ湯呑みを手にして彼は答えた。二回ほどゆっくり話したかな。いわゆる職人の仕事だけど、気さくな人だよ。ふうんと真湖はこちらを見つめて頷いた。この近所に盆栽園があるなんて知らなかったな、小さい頃はどこでも自転車で走り回ってたはずなんだけどなと首を捻ったので、そこが盆栽園だとわからなかったかもしれないなと返した。広瀬さんもずいぶん前に奥さんを亡くしたみたいで、それからは一人で静かに仕事をしてきたようだから。怪しまれてないの? と真湖は心配そうな表情を浮かべた。だって平日の昼間に買い物帰りの中年男性がただの世間話をしにくるんでしょう。もちろん自分のことも話したよと彼は日本茶を短くすすった。盆栽業界にはウイルスはほとんど影響を及ぼしていないみたいだよ。基本的には一人で作業をする趣味だからね、と広瀬さんとのやりとりを思い出した。
 盆栽業界とは違い、新型ウイルスの全国的な蔓延は外食産業界に致命的なダメージを与えた。強い感染力に警戒して、不要不急の外出は控えるようにと公的機関やマスコミは大々的に訴えた。厳しい風潮に個人経営の飲食店が廃業に追い込まれるケースは決して少なくなかったが、それでも母体が小さい分なんとか踏ん張っている店もあった。一方で各地に展開する巨大な外食チェーン店は収支回復の見込みがない支店を次々と潰した。縮小していくクライアントの動きに合わせて、その広告を請け負う代理店も経営方針を大幅に見直さざるを得なかった。彼の勤めていた会社もまずは早期退職者を募ることで、広告代理店での最も大きなコストである人件費を削減しようとしたのだった。
 それで手を挙げたんだ、と広瀬さんが言葉を挟んできたので、ええ、挙げましたね、と彼は頷いた。妻は十年ほど前に亡くなっていますし、娘も就職して都内で一人暮らしをしています。残ったのは自分一人だけの生活ですし、特に好きでもなかった仕事をこの先も続けなきゃいけないこともないだろうと開き直ったんです。へえ、えらく思い切ったね、広瀬さんはそう肩を揺らして笑った。ええ、と彼も笑みを浮かべた。案外あっさりしたものでしたよ。それまで毎日話してた人たちとはぷつりと連絡が途絶えましたし、朝から晩まで仕事のことを考えていたのに頭の中からきれいに失くなりました。きつかったことやおかしなことはたくさんありましたけど、結局会社なんてそんなものでしょうね。それまでの自分がすべて幻だったような感覚です。最初から何も残るはずはなかったんでしょう。広瀬さんはこちらの顔を覗きこんだ。じゃあこれからは悠々自適に暮らすのか、それとも蕎麦屋でも始めるのか。まさか、と彼は首を横に振った。両親は二人とも他界して財産なんてないし、蕎麦を打てるほど器用じゃないですから。何かやりたいことがあるわけではないんです。ただ、いつも何かを気にしていることから離れてみたかったんでしょうね。今回の騒動は自分にとっていいタイミングになったと思います、そう答えると、広瀬さんは煙草を吸いながら、棚に並んだ盆栽たちに視線を向けた。だからここの樹を覗いてたんだな、と呟いた。だから? と彼は繰り返したが、でもとにかくと広瀬さんは続けた。人間食うためには何かをしないとな。誰かが水やりでも肥料でも世話してくれたら、とっても穏やかな毎日なんだけどね。そうだ、元広告屋ならうちの宣伝でもしてもらおうかな、広瀬さんはそう目尻を下げると、膝をかばいながら丸椅子から立ち上がった。
 その歳になって友だちができるとは、真湖は食卓の椅子の上で両脚をぎゅっと抱えていた。友だちなのかなと彼が言い淀むと、大人の友だちってできないものよとまるで妻のような口調で言い放った。そして、仕事はありそう? と間を開けずに訊ねた。ネットや新聞に目を通してはいるけど、まだぴんとはこないな。真湖は姫りんごの方にしばらく目を向けた。別に焦る必要はないと思うよ。しばらくは何もしなくてもやっていけるんでしょ、と改まるように真湖は足を椅子から下ろして揃えた。ねえ、父さん、当たり前だけどこれから私のことは気にしなくていいよ。もう父さんに何かをしてもらう歳でもないし、私は私でまとめていくから、そう真湖は話を終わらせるように立ち上がり、眠る準備を始めようと背を向けた。こっちのことも気にしなくていいよとは答えず、彼はただ湯呑みに口をつけた。
 妻が脳出血で亡くなったのは、真湖が十六歳のときだ。食品会社の営業職として精力的に働いていた妻が突然いなくなったことは、真湖にとっても整理のつかない出来事のはずだった。だが幼い頃から妻のまわりで手伝いをしてきた真湖はしばらくしてアルバイトを始めることにした。その金で自分の洋服代や携帯電話代を支払い始めた。早朝に起きて弁当を作り、洗濯物を干して、帰宅すると夕飯の用意のために台所で忙しく手を動かし、休日は掃除と買い物に時間を費やした。奨学金で公立大学の経済学部に入ると、講義に欠かさず出席しつつ、家事やアルバイトをなおざりにすることもなかった。在学中に簿記の資格を取ったこともあり、通信販売会社の経理部に就職することを決めた。経理は食いっぱぐれのない職なんだよと、真湖は正座をして、丁寧な手つきで荷物をダンボール箱に詰めていった。敷金礼金ぐらいは出すよと彼が繰り返しても、真湖は首を横に振り、まだ花冷えのする日に彼のもとから去っていった。
 かつて真湖は妻といろんな話をしていた。友だちのことや学校行事のことや流行はやっていた音楽のこと。そのたびに笑ったり、怒ったり、拗ねたり、歌ったりしていた。妻が亡くなった後、屈託のない表情が損なわれたというわけではなかった。深夜に台所で洗い物をしていても、受験勉強でいくら睡眠時間を削られても、真湖は疲労の片鱗さえ浮かべなかった。もう少しで終わるから大丈夫、もっと大変な子だっているのよ、といった前向きな言葉を口にして、こちらに微笑みを見せた。むしろ前向きな言葉だけを唱えることで、絶え間なく訪れる日々を安寧に終わらせようとしているのか、そんなふうにも彼には感じられた。

 あれ、虎に変えたの、と真湖は一ヵ月ぶりに目にした姫りんごに向かって言った。マフラーを外し、折りたたんで椅子の背もたれに掛けた。虎も可愛いね、実も赤みが増してきたし原色が鮮やかに映えてる、と樹を見下ろしながら脱いだコートも掛けると、ソファの上に腰を落ち着かせた。その日の夕方、急に残業になったから先に食事を済ませておいてほしい、と真湖から連絡が届いた。少し早いがクリスマスの季節ということで予約しておいたイタリア料理店に、彼はキャンセルの電話を入れた。そしてテレビを点け、ときどき携帯電話を操作しながら、電子レンジで温めた冷凍パスタを食べた。結局車で真湖を駅まで迎えに行ったのは十一時を過ぎていた。ドアを開けるなり、ごめんねと真湖は白い息を吐いた。
 家に着き、何か食べたのと訊ねると、食欲はどっかいっちゃったと真湖は笑った。何か食べた方がいいんじゃないか、つまんないものしか冷蔵庫にないけどと言っても、ううん、ありがとうと頷いた。逆にこの時間に食べたら体のリズムを崩しちゃうから、真湖はそう言ってソファにもたれ、まだ仕事の続きが残っているかのように携帯電話に向かい始めた。その間に彼は台所で紅茶の葉を敷いたティーポットに湯を入れ、少し蒸らしてからマグカップに注ぎ、温めた牛乳を加えた。お風呂はいつでも入れるよ、とテーブルの上にマグカップを置くと、やったと真湖は小さく声を上げた。携帯電話を膝の上に伏せて、猫のようにミルクティーに口をつけると、ようやくったまる、と溜め息をついた。
 そういえばSNSは続けてるの? 真湖は両手でマグカップを包みこむように持ち、膝を揃えて顔を上げた。彼は食卓テーブルの椅子に腰を下ろして、結局見なくなったよと自嘲気味に答えた。自分のプロフィールのせいかもしれないけど、やたらとこっちを励ますような言葉ばかり送られてくるんだ。別に落ちこんでもいないし、頼んだわけでもないのに、なんで励まされたり、教訓めいた言葉を掛けられなくちゃいけないのか。だんだん鬱陶しくなってきてね、今じゃ更新されても通知されない設定に変えたよと笑った。だが真湖は笑わなかった。ねえ、そういう人にはちゃんと返信しないとだめだよ、と前のめりになって脚を組んだ。せっかく良い言葉を送ってくれてるんだから、こっちもちゃんと受け止めたことを返さないと。でも相手がどんな人か知らないんだよと彼は肩をすくめた。どういう意図があるのかわからないし、ただ教訓話を述べることに満足したいだけかもしれない。それでも真湖はたとえばと返した。落とした財布を届けてくれた人にお礼を言うのは当たり前だよね。それと同じ感覚だよ。大事な言葉を届けてくれた人にお礼を言うの。小学校の教師のような言い分に何も返すことはなく、彼はそばにあった携帯電話を意味なく手元に寄せた。もちろん財布を拾ってくれた礼はするけど、SNSにはきっと向いていないんだろうね、そう独り言のように呟いたが、真湖はすでに自分の携帯電話に視線を落としていた。
 入社して三年目。仕事のきつさが骨身に染みてくる時期だろう。自分の力量を上回る仕事を任され、責任を果たしながら続けていくのか、それとも立ち止まって別の道を探してみるのか、いずれにせよ自分の場所を見つめ直す時期でもある。いつもより真湖は苛立っていた。口にする言葉は柔らかかったが、それでも黙っている時間が多く、唇を結んでいる表情は針金に縛られているみたいに固かった。そもそも父親のところに泊まりにくる頃から、何かが変わり始めたのかもしれない。仕事は忙しいの? と何気なく訊ねてみた。真湖は顔を上げず、携帯電話を握る親指を細かく動かしながら答えた。会社が新しい事業を始めたから、この数ヵ月はばたばたしてるね。でも忙しいのは私だけじゃないよ。大変なのはみんな同じだから。真湖がSNSでどんな言葉を発信しているのかは目にしたことがない。もしかして弱音や不満を書いたところ、みんなも同じだからというような反応を受けたのだろうか。想像し難いことだった。真湖なら辛くきつい状況をむしろ前向きに受け止める言葉を書くだろう。そして閲覧者の賛同を得ることだろう。弱音や不満、あるいは愚痴や悪口を真湖が口にしていた姿など思い出せない。その記憶の欠落はそのまま、十年という時間によってできた父と娘との隙間を白々と浮かばせた。
 明日、箱根までドライブでもしてみるか、と誘ってみた。真湖はこちらを静めるような笑顔を見せた。いいよ無理しなくて、きっと混んでるし、ありがとう、そう遠くを見るように目を細めた。

 次にありがとうと伝えられたのは、真湖が病院のベッドで安静にしているときだった。仕事中に背筋を伸ばしてパソコンに向かっていられないほど頭が痛くなり、同僚に付き添われて近くの病院で診てもらうと、慢性疲労症だと告げられた。歩くこともままならず、症状が治まるまでここのベッドで休みなさいと医者に指示されて、そのまま夜を迎えることになった。真湖から携帯電話にメッセージが届くと、今から行くよと彼はすぐに返信した。真湖はありがとうと書いてきた。でも面会時間は終わってるし、点滴も打ってもらったから、明日になれば元気になってるよ。今日はもう休むね。おやすみ。
 確か妻が亡くなり、自分のことに加えて家の用事もこなすようになった頃から、真湖はことあるごとにありがとうと口にするようになった、そう彼は思い出していた。ちょうどクライアントのレストランチェーン店が全国的に店舗を増やす方針を立てたことで、広告の仕事量が大幅に増えた時期だ。月に数回は泊まりの出張で家を空けたり、接待の酒席に深夜まで付き合ったりすることが度々あった。真湖の成績がどれほどのものなのか、どういう大学に行きたいのか、どんな友だちと付き合っているのか、どんな仕事に就きたいのか、そんな話を落ち着いて交わしたことはなく、真湖はいつのまにか一人で行動し、決めていた。そして彼が出社前の早朝にごみを出したり、ワイシャツの袖を捲って食器を洗ったりしていると、真湖はこちらに向かってありがとうと言った。出張先での土産を持ち帰ったり、定期券代を手渡したり、二人で外食に出かけたりするだけで、真湖はありがとうと言った。思い当たることが特にないのに、さっきはありがとうと言うこともあった。真湖からありがとうと言葉を掛けられるたび、彼は次第に娘が一歩ずつ離れていくように思えた。娘と二人きりで暮らす父として当然のことをしているだけだった。当然のことをしていない方がはるかに多いのはわかっていた。だから、ありがとうなんて言ってほしくなかった。ただ父と娘という当然の関係であってほしかったが、いつからかそれが一体どういうものなのかわからなくなった。そして娘はありがとうを言い続け、やがて本当に彼のもとから離れていった。

 あの赤松、買われていったよ、広瀬さんは思い出したようにそう口にした。近所に住むお客さんでね、預かりましょうかって言っても、いや自分で育ててみるって持って帰ったよ。きっとこのあたりの庭先を覗けば、ひょろっと伸びているのを目にできるかもしれないよ。
 十二月の空は薄情なほど乾燥し、空気は針のように冷たく、自らの吐く息で指先を温めるしかなかった。年の瀬が迫っていたが、広瀬さんはいつものように作業所の入り口の前に座って、くるくると樹に針金をかけ、枝の動きを整形していた。繁忙期っていつなんですかと訊ねると、強いていえば秋冬の植え替え時期だねと広瀬さんは答えた。鉢の中で伸び回った古い根を切って、新しい土に変えて、正面を見定めて、生長させたい樹なら大きめの鉢に植え替えてやる。一本一本の状態が違うから、時間がかかんだよね。彼は何列にも並ぶ棚を見渡した。それぞれの鉢に植わっているから大変ですね。みんな鉢から抜いて同じ地面に植えちゃったらどうですかと冗談めかすと、そうなったらもう盆栽じゃなく庭木だねと自分の手元を見ながら広瀬さんは笑った。
 不用品回収のアナウンスを流す軽トラックが前の道路をゆっくり走っていた。録音されたぎこちない中年男性の声が遠く離れていくと、娘さんは元気になったのかい? と広瀬さんが訊ねてきた。ええ、と彼は広瀬さんの手元を見ながら間をあけて頷いた。次の朝には頭痛もすっかり消えたみたいで退院しましたよ。大事をとって一日だけ仕事を休んだようですが、この時期ということもあって、今じゃ普段どおり残業してます。そうかい、ひとまず良かったね。何事も体が資本だからな、と広瀬さんは肩を上げて針金を巻いた枝を思いきり曲げた。
 ただ、働いているだけなのに体を壊しちゃうっていうのも考えものだよな、広瀬さんはそう眉根を寄せた。うちの場合はただ妊娠しただけなのに死んじゃったからね。妊産婦の死亡率って日本ではめちゃくちゃ低いんだって。年間で三十人か四十人ほど。うちの女房はその中の一人に数えられちゃった。腹の中の胎児を育てようと体が血圧を上げて血流を増やすらしくて、血管に負荷が掛かる場合があるらしいんだ。本末転倒というのかな、一体何のために働いたり、子どもを産んだりするのか、わかんなくなるよな。そのとき突然、どこかの家の中から低く大きな声が聞こえた。急なことに驚いたのか、それとも誰かを叱りつけたのか、一瞬を固まらせるなたのような声だった。広瀬さんはなんで盆栽の仕事を続けているんですか、固まった瞬間を解きほぐそうというわけではなかったが、彼はそう訊ねていた。広瀬さんは針金をかける手を動かし続けていた。そうだな、と作業台を少し回転させた。食うために盆栽を売ったり育てたりしている。食うために樹の枝や根を切ったり、針金をかけて曲げたり、定期的に植え替えをしている。考えてみりゃおかしな話だよな。負荷を与えたり与えられたり。そんなことが仕事になってるって。すみません、そういう意味じゃなかったんですよ、と彼は苦笑した。早くに亡くした奥さんへの想いもあって、大事に盆栽を育てているのかなと思って、彼がそう弁解すると、広瀬さんはいやいやいやと首を大きく横に振った。そんなふうに辛気臭く考えることはないね。盆栽は飯の種。ただそれだけだよ、そう広瀬さんは太い指でマスクの位置を調整した。
 日がだいぶ傾いてきた。そろそろ仕事を始めようかと思って、と彼は体勢を前方に傾けた。お、どんな商売? 広瀬さんは声のトーンを上げた。彼は頭の中で言葉を入れ替えてから説明した。初老にかかった男がウイルス拡大の影響で会社を辞めて、次の仕事をなんとか探そうとしている、そのこと自体を動画で発信しようと思っています。広瀬さんは手を止め、こちらに向かって目を開いた。なんだよそれ、そんなんで稼げるのかよ。さあ、どうでしょうと彼は視線を落とした。やってみないと正直わからないです。発信する内容にもよりますが、ただターゲットは絞れますし、SNS的だとは思います。職安で求人を検索する様子や、面接に行く様子、就職活動で感じたこと、日々のつましい食事なんかを動画でアップするんです。閲覧数が増えると、広告収入は増えます。そして実際に仕事が決まったら発信は終了します。へええ、と広瀬さんは考えこむように声を伸ばして頷いた。SNSっていうのはよく知らないけど、やっぱりおもしろい人だな、あんた。自分自身を売りこむってことだよな。そのうちにおれのことや娘さんのことも表に出すんじゃないのかな。いやいやいやと彼は首を横に振った。しょせん飯の種ですから、自分なんて、彼はそう笑った。
 帰り際、あそうだ、と広瀬さんは思い出した。姫りんごの実は摘んだかい? 前も言ったけど、もしこの先も実を付けたままにするなら、樹に負担が掛かるから、来年の実は諦めた方がいいよ。でも本格的な寒さの前に摘んでおくと、負担が減って来年も実が付く。実姿は風情があるから摘みたくない気持ちはわかるけど、まあ人それぞれだな。じゃあ、よいお年を。

 街灯が等間隔に並ぶ歩道を、彼はゆっくりとした足取りで進んでいた。人も星も見あたらなかった。激しい風音が夜空で鳴り動いている。広瀬さんに話したSNSのことはたんなる思いつきだった。盆栽は飯の種と広瀬さんが言い、果たして自分に飯の種となるものがあるのかと揺らいだゆえの言葉だった。だが実際口にしてみると、確かに自分は自分を食わせるために生きてきた。そのために自分は自分を少しずつ切り売りしてきたのだ。
 マンションの明かりが見えてきた。携帯電話で久しぶりにSNSを開いてみる。赤く表示されている新着通知はそのままにして、思いついた言葉を打ってみた。
「いつまで前向きでいないといけないのか。いつまで誰かの視線の中で暮らさないといけないのか。いつまでありがとうを言われ続けないといけないのか。孤独な鉢に植えられ、針金で矯正されて、マスクで顔を覆っている姿。これを前向きというのか。このまま枯れていくのが前向きというのだろうか。だがそれ」
 そこで制限された文字数に達した。彼は構わず投稿した。
 自宅のドアを開け、部屋の電気を点けても、何も食べる気がしなかった。暖房をつけ、コートを脱いで、すべてを預けるようにテーブルの椅子に腰を下ろした。胃のあたりがざわめいていた。やはり空腹であるのか。それとも切り売りしてきた後の空白が今さらざわめいているのか。テーブルの上に放り投げた携帯電話を覗いてみた。帰り道で投稿したものに、何人かが反応を示している。お疲れさまです。何かあったんですね。そんなときもありますよ。そんな何でもない言葉の最後の欄に、ありがとうを言わせていたのはあなたの方じゃないかしら、と書かれていた。
 見知らぬ名前だった。誰とも特定できないユーザー名。だがその一行にじっと目を落としていると、やはり真湖からのコメントだと思えた。娘の真湖が父である私に述べている。これはきっと真湖からの言葉なのだと湿った息を吸いこむ自分がいる。
 窓際では、姫りんごの幹元で虎が体を横たえていた。いつのまにか虎の向きは変わっていたようで、赤い目がまっすぐこちらを見つめていた。そういえば白猫はどこにしまったんだろうと一瞬よぎったが、彼はそのまま椅子から立ち上がった。そして姫りんごの枝にぶら下がっている二つの実を、まるで痛みを伴わせないよう、ゆっくりと音を立てずに手指で摘み取った。出窓を開けると、まもなく一年が終わることを知らしめるみたいに何も残っていない夜空が広がっていた。窓の下は植えこみだった。彼は空中に出した手を広げて、二つの実を落とした。耳を澄ましても、暗い底からは何の音も聞こえてこなかった。そのかわり冷風が忍びこんできた。一人きりの部屋はざわめいて、真冬の震えを体中に呼び起こした。

〈了〉2022年作

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